戯れ言の箇条書き・151 12.5 「表現したい本質的な部分に対する拒否反応だったら、それについてはどうしようもない」

12 05, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・岡田利規「わたしたちに許された特別な時間の終わり」の半分「三月の五日間」を読む。

・彼のインタビューの記事を読んでいいな、と思った箇所を(彼は演劇の人)。

・「(舞台を)見ていて、退屈したりすると言うお客さんはいませんか?(インタビュアー) いますね(笑)(岡田)。―—そういうお客さんに対して、退屈させないサービスは?(インタビュアー)。 僕の中にあるビジョンを僕自身が達成させられていないことが理由で退屈させてしまっているのだとしたら何とかしなくちゃと思うのですが、退屈されているのが、僕が豊かだと感じているもの、僕が提示したいもの、つまり僕の表現したい本質的な部分に対する拒否反応だったら、それについてはどうしようもないですね(岡田)」

・絵でも、音楽でも、映像でも、そして言葉でも、、、言葉じゃ至れない場所を実感しているひとの方の表現をおもしろいと感じるらしい。

・(上の文章とは関連せず)例えば風景を受容して音楽化する時に風景→言葉→音楽へと変換させるわけではなく、風景から与えられたものは言葉を介在させずにそのまま音楽へと転換される。ようなものに触れているとワクワクする。間に言葉が入るとするとそこ(言葉)から→が向かう「音楽」は「言葉」で説明できることになってしまうのではないだろうか? 

 言葉を挟まずにそのまま音楽に転換させるものは音楽そのものがその光景を現そうとしている(提示する側、受け取る側のレベルにもよるのだろうけれど)のだから、音楽を聴いてそのまま風景が浮かぶという体験も起こる(かもしれない)。「歌」はそこに「言葉」を挟まざるを得ない。——というのも思い込みに過ぎないのかもしれない。どうなのだろう。意味ではなく、対象をそのまま喚起させるような「歌」というのはどういう形をしているのか。あるいは、意味を持たせない歌。


・きのう書いた「俯瞰できるもの」というのは例えば見終わった後に、この場面は全体でいえばこういうところだ、という説明をつけることが出来る、という意味で、それは言葉で把握できてしまうということ(か?)。説明できるとか。

 映像の監督という立場の人でいえば、その人は始まりから終わりまで全て見通せていて、今撮っている場面が全体においてどのような位置にあるか、ということを把握できているということ。当たり前だろ、というかもしれないけれど、本当の意味でライブに没頭していると、今の自分が(ライブ後に全体を俯瞰した時に)どこにいるのかということがわからなくなる。そのまっただ中に居ると、、、。というようなことが起こる。

 俯瞰できない位置にいるということは次に何を出すか、あるいは何が出るか、は、事前の段階での自分には把握できず、その判断は、その場面にいる自分に任せるしかない。見ている人間にはそんなこと関係ない、という人もいるのかもしれないけれど、ライブをやっている! という実感をぼくが得られるのはそういう状態にある時で、そういう状態にいる時はとてもワクワク(と同時にハラハラ、もっというと、どうなるの、これ? どう収拾をつければいいの? と迷うような)している。そういうぼくを見て楽しんでくれる人たちも少ないけれどいる。そういうことがしたい。


・ここ一週間ほど頭がさっぱり働かず(と感じている)、今日も考えてというより、勢いに任せて書いてしまったから、読み返すのはこわい。けれど、それはそれで。

・ショーン・ペン監督「イントゥザワイルド」を観る。


追記

・言葉で把握出来るということか? というのは、要約出来るということだ。とわかった。要約=俯瞰。か?

・スモーキー・ロビンソン「Love Songs」を聴く。

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