2016.4.16 1309 『Bar Tarjiにてライブ』

04 19, 2016 | 日記2016

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・山形市七日町Bar Tarjiにてライブ。マダムギター長見順さん&岡地さん、少太さん、と。

・長見さんと岡地さんの演奏は、今年体験したライブの中で、一番ライブだったんじゃないか、と思う。一番よかった、とか、一番印象に残っている、とかそういうことではなく、文字通り「一番ライブ」していたんじゃないか、二人の掛け合いと、その場で生まれた何かに耳を澄ませながら、お互いの呼吸を感じて、演奏を一つずつ紡いでいく、というような、ぼくの考える「ライブ」というコトバのライブ。

2016.4.15 1308 『ボブディランのことばかり書いている』

04 17, 2016 | 日記2016

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・ボブディランのことばかり書いている、書き足りてはいない、日記のような短いものには書ききれない、書ききれない、というより、書きながら考えて、コトバを紡ぐのだから、書ききれないのではない、「書く」という行為を持続させる何か、ディランとはそういう対象なのだということだ。

2016.4.14 1307 『オリジナルだとか、カバーだとか』

04 17, 2016 | 日記2016

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・ちょうどラジオで、一週間を通してボブディランの特集をしていた、ディランの曲が既にクラシック、スタンダードになっている、といっていて、そうだな、と思う、もうオリジナルだとか、カバーだとか、そういう区分けはほとんど意味をなさない。

2016.4.13 1306 『「風に吹かれて」で終らせない』

04 17, 2016 | 日記2016

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・ボブディランのライブ、アンコールで「風に吹かれて」を演奏した、前回とはまた違ったアレンジで、この曲で終わりかと思ったのは、前回がそうだったからだが、この日はもう一曲、アルバム「タイムアウトオブマインド」から「ラブシック」を演奏した、

 「風に吹かれて」で終らせない、客が演奏してほしいと思っている曲で終らせない、この凄み、「ラブシック」を知ってる人が会場でどれだけいたか、

2016.4.12 1305 『塊(かたまり)』

04 13, 2016 | 日記2016

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・現ディランは、「ボブディラン」という名前を持つ一人の人間の、個人の活動というより、あのバンドのメンバー全員をひっくるめた「ボブディラン」という塊(かたまり)、

 あれは塊だった、(前回もそう思ったが、どうしても初めてということもあって、目の焦点はディランに向かっていた、いや、そんなこともない、ぼくはドラムを見ていた、それから、バックバンドのメンバーの音の凄さにも耳を奪われたのだけれど——)

・何を書いているやらわからなくなった、

・ディランはバンドのメンバーにソロのパートをほとんど与えない、メンバー紹介なんてものも、もちろんない、客が求めていること、を計らない、というより、あえて無視する、

 ああ、ちがう、音の塊のことを書こうと思っていたのだ、、、

2016.4.11 1304 『更新されたディラン』

04 12, 2016 | 日記2016

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・ディランのライブについて。少しずつ。

・前回のライブとの大きな違い、違いというか、「更新されたディラン」、フランクシナトラがレパートリーにしていた曲のカバー集「Sadow In The Dark」が発売されたことによる演奏曲の変化。

 字余り的に、畳み掛けるコトバによる自作曲とは違って、古くから歌われていたジャズの曲、コトバの一音にいくつかの音符をつけるような、コトバ数の少ない歌、

 少ないコトバを、ゆったりとしたメロディーで歌うディランを、CDでは知っていたけれど、生でそれを体験すると、その異常な深みとうまさにまず驚いた。

 うまさ、というと勘違いされやすい、うまさ、技巧、それらを「棄てた先にあるうまさ」なのだろうが、それをどういうコトバに変換すればいいのか、

 現ディラン、凄い場所に踏み込んでいったと感じる。遥か長い時間を生きる古木を目の前にした凄み、というか、あれは若い人間がいくら老成を装って「風」に歌っても真似しようのないもので、それは「時間」そのものを体験するようなことだ。

 ボブディランというひとつの身体に流れた「時間」に触れる、その深み。そこで生まれた感情と対応するコトバを見つけることができない。

2016.4.10 1303 『現役』

04 12, 2016 | 日記2016

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・前回東京でディランのライブを見たときは、初ということもあって、ディランがいる、ということ自体に興奮してしまっていたが、今回は純粋に音楽を楽しむことができた、

・感じることはたくさんあるが、少しずつ書いていこう、まずなによりディランは「ボブディラン」というひとつの在り方を現役バリバリで突き進めている、郷愁にまみれて、懐かしさを客と共有するために音楽をやっているそこらへんの隠居ミュージシャンたちとは向いている方向が全く違う。

2016.4.9 1302 『2016年4月9日、東京エレクトロンホール仙台、「BOB DYLAN LIVE 」

04 12, 2016 | 日記2016

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・不運の連続、人身事故で足止めを食らっても、風邪が悪化して異様の倦怠感も、のどがひっくり返るような咳のつらさも、カプセルホテルのロッカーの鍵をなくして五千円の罰金を支払っても、別にどうってことはない、ディランのライブだから。

・2016年4月9日、東京エレクトロンホール仙台、「BOB DYLAN LIVE 」。

2016.4.8 1301 『仙台Vorz Barにてライブ。木製の椅子の方々と』

04 12, 2016 | 日記2016

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・仙台Vorz Barにてライブ。木製の椅子の方々と。ドラムに数曲福家さんが参加してくれて。

・つくりかけの曲、完成にほど遠い曲を演奏した、しかも福家さんと、だから福家さんはもちろん、僕自身もそれがどういう音になって出てくるのかわからないままに、結果おもしろかった、やはりそういう訓練というか、必要、それと「やっちまおう」、という少しの勇気。
 

2016.4.7 1300 『あえていうならフォークシンガーね』

04 08, 2016 | 日記2016

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・最近はビリー・ホリデイばかり聴いていて、前から好きだったが、久しぶりにじっくり聴くとますます好きになった、と同時にニーナ・シモンが自伝の中で、ビリーの後に出てきたものとして、どうしても自分がポストビリーとして語られることを嫌がっていた、と書いてあるそのことに納得がいったような気がする、ニーナが嫌だといったのは、ビリー個人との比較というよりは、「ジャズ」というジャンルで自分の音楽が語られることへの嫌悪で、これはビリーを聴いていて逆に鮮明に感じたことなのだけれど、ニーナには「伝えたいこと」があった、コトバとして誰かに届けたい思いがあって、それを音楽にのせて歌っている、ということがわかる、だからニーナは自分の立ち位置を「あえていうならフォークシンガーね」と言ったのだ、

2016.4.6 1299 『ぬかるむ田に足を沈めながら』

04 07, 2016 | 日記2016

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・セリの田植え作業の手伝い。苗にするために収穫せずに大きく伸びたセリを摘み、選別(太く、根もしっかりとはっているもの)し、二本ずつ(あまりに太いものは一本)一尺程度の距離をあけて、薄く水の張ったぬかるむ田に足を沈めながら植え付けていく、手で。

・手による田植え作業なんて小学生のときの体験授業以来だろうか、あちらは稲でしたが。

・日射しの強い中菅笠をかぶっての作業、いくら菅笠をかぶっても、田んぼの水の照り返しは防げなくて、午後にもなると、顔がヒリヒリと痛んだ。

2016.4.5 1298 『半袖でギターを弾く、クルミの木の下で』

04 07, 2016 | 日記2016

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・桜がちらほら、モクレンと桜が並んで咲く、というのはあたりまえだったろうか、桜が早く、モクレンが遅い、ということなのか。

・河原にいって練習するが、高い気温と、強い西日とで車の中は暑すぎて、半袖でギターを弾く、クルミの木の下で、とはいっても木陰をつくる葉はまだ芽吹いていないので、日射しを遮るものはなにもない。

2016.4.4 1297 『まだ咲いてもいないのに』

04 04, 2016 | 日記2016

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・日記を書くためにコーヒーを飲みに走らせた車は雨に濡れて。ワイパーはシフトの一段目では雨の量とのバランスが悪くて見通せない。二段目にシフトするとそれは過剰で、ガタッ、ガタッとワイパーの音が雨の音をこえて誇張に響いて、このちょうどあいだくらいの動きがあればいいのに、と思う。

 コーヒーを飲んだ帰りに、ハクモクレンの植樹された通りを久しぶりに走ると、真上に向かう花びらがほぼ満開に。

 桜の蕾は大きく膨れて、まだ咲いてもいないのに、桜を知らない誰かが見たとしても、これから咲くだろう花がピンク色だということがわかるくらいに。

2016.4.3 1296 『踊りは流動そのもの』

04 04, 2016 | 日記2016

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・「琉球舞踊においては、固定されたポーズなどなく、踊りは流動そのもの」というようなコトバに感動する。「小説というものは、本来要約などできず、読んでいる時間の中にしか現れない」というコトバが浮かぶ。

・時間の中で展開される表現を、写真的、静止画的、に説明可能なものだと考えるのはやはりおかしい。

・散歩をし、ラーメンを食べ、猫に会い、本屋で本を買い、酒を呑む。

2016.4.2 1295 『写真で琉球舞踊の感動を伝えることは、おそらく不可能だろう』

04 04, 2016 | 日記2016

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・昨日からの続き岡本太郎「沖縄文化論」より、

【私はいつでも見終わったのちに呆然としてしまうのだ。あの迫力、情感、そして空間性。
 
 たえず鮮やかに空間を切りひらき、なめらかに変転する。たとえ深い沈黙に静止するように見えても、微妙な屈折で流れている。意識にふれるような、ふれないような。妖しく美しい持続。

 驚くべき技術だ。私は写真をとろうとしてそれに気づいた。ここだ、と思ってシャッターを押そうとする。一瞬、対象はまったく異なった次元の美しさに変貌してしまっているのだ。惜しげもなく。動きはデリケートで静かなのだが、瞬間瞬間に逃れて行ってしまう。

 どうも仕様がないので、踊りが終ってから注文して、もう一度あの手を、とやってもらう。すると、どうしても表情が死んでしまうのだ。なにも固くなるからというのではない。この美しい流れの中には、固定したポーズはなかったのだ。私はちょうど日本舞踊やバレエのような、キマル瞬間を捉えようと空しく追っかけていた。そんなポイントがあると思ったのが大間違い。たえず流動するからこそ生きる、これは空間そのものの発現である。だから写真で琉球舞踊の感動を伝えることは、おそらく不可能だろう。】p.129.130

2016.4.1 1294 『世界に、身体が踊っているということの外には何もない』

04 04, 2016 | 日記2016

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・岡本太郎「沖縄文化論」、『踊る島』という章の中から、琉球舞踊について、

【——情感がもり上がり、せまる。そのみちひきのリズムの浮動の中に、私はとけ込んでしまう。目で見ている、観賞している、なんて意識はもうない。一体なのだ。しかし、にもかかわらず、踊り手はまるでこちらを意識していないかのようである。見る者ばかりではない。世界に、身体が踊っているということの外には何もないという感じなのだ。

 日本舞踊のしなとか、バレエに見られる問いかけのような身ぶり、観客への訴えみたいなものがまったくない。悲しんで見せたり、喜んでみせたり、押しつけがましい表情、そういう卑賤な説明的手段はない。この絶対感こそ舞踊の本質である。ここには充実した感動だけが動いている。それがたまたま見るものに歓びとして現れ、悲しみとして打ってくるだけだ。】p.127

2016.3.31 1293 『踊る身体と世界の関わりそのもの』

04 01, 2016 | 日記2016

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・コトバを翻訳した踊り、フラのようにひとつひとつの振り付けがコトバに対応している、その時、踊りはコトバ、意味と離れることはない。コトバも意味も持たない踊りがみたい、踊る身体と世界の関わりそのもの、コトバ、意味を纏わない踊り。

・踊る、ということをモチーフにつくった曲が結構ある、その時のイメージは、後者のような、

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松沢春伸の日記

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