2015.3.30 1031 『「平和を願う民に力を」今日は、この言葉を沖縄の人たちに捧げたいと思います。』

03 31, 2015 | 日記2015

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・通り沿いに咲く黄色い花を目が追う。サンシュユの花。紅梅の花もちらほら咲き始めている。フキノトウはだいぶ丈を伸ばした。雪の下で堆積していたた落ち葉をはがすと、土色の蛙がのそのそと動き始めた。

・ピーター・バラカンのDJライブ&トークショーに行く。音楽を流している間ずっと足を揺らしていて、その動きはリズムに乗っている、というより貧乏揺すりに近く、落ち着きのない動きを見ているのが面白かった。最後にマイケル・フランティの曲を流しながら、歌詞から「power to the peaceful」を引用して『「平和を願う民に力を」今日は、この言葉を沖縄の人たちに捧げたいと思います。』といった。会場から拍手がおこった。

2015.3.29 1030 『記録されたものの中に、動きを聴きとる、こと』

03 31, 2015 | 日記2015

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・記録されたものの中に、動きを聴きとる、こと。

・言葉。

【動きがまずあり、そこから形が生まれ記憶されるなら、やってみるまでわからないことがあり、済んでも意味がわからないままでいるのがあたりま えなのかもしれない。楽譜、作品、録音で確認できる音の形は、創造する行為が終わったあとに残されたものだから、分析することはできる。形に なったものから、それらを創りだした手の動きにさかのぼるのはむつかしい、いや、ほとんどできないと言ってもいいだろう。】高橋悠治

2015.3.28 1029 『円城さんが伝えてくれた「コードに縛られない音楽」』

03 30, 2015 | 日記2015

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・仙台Vorz Barにてライブ。F.I.B Jornal(ウッドベースにはlittle woodyさん)さんと。刺激。停滞を壊す何かは外からの刺激の方がてっとり早い。

・円城さんが伝えてくれた「コードに縛られない音楽」という言葉。ここしばらく考えていたことで、「いかに決まり事から逸脱するか」という自分の課題の具体的なイメージを与えてくれたように思う。

2015.3.27 1028 『具体性だけでなくそれをこえた次元で世界に生きつづけると』

03 28, 2015 | 日記2015

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・言葉。

【「私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後でも世界はありつづける」と考えたとき、その作家が死んだ後も作品とか名声とかいった具体性だけでなくそれをこえた次元で世界に生きつづけると、考えることもできるのではないか。】

2015.3.26 1027 『過渡期。的、停滞』

03 26, 2015 | 日記2015

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・サクランボ畑と田んぼに挟まれた農道で立ち小便をしていたら、腰の曲がったおばあさんが、手押し車を支えにしながらこちらへ向けて歩いてきたから、どうしようと思ったけれど、止めることも出来ず、用を足しながらおばあさんの進み具合にあわせて少しずつ回転していたけれど、おばあさんが背中越しにすれ違うときに「こんにちは」といって、それでぼくも「こんにちは」と返して、そのへんからどうでもよくなって、回転するのをやめて堂々と立ち小便を終えた。風が強い。

・マンサクの花。梅の蕾も桜の蕾も膨らみを増した。暮れる日に河原でギターを弾いた。過渡期。的、停滞。

2015.3.25 1026 『考古学的探求』

03 26, 2015 | 日記2015

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・何の本だったか、その本に書いてあった「考古学的好奇心」という言葉。をたまに思い出す。おもしろい——と書きながら、何に書いてあったのか思い出したので引用。

【(略)金春禅竹はこのようにして発達してきた能の根源を探る「考古学的探求」に、深い関心を抱いていた。世阿弥は考古学的な探求よりも政治思想のほうに関心のあった人物であったから、先輩古老たちから伝えられた古伝承を、深い関心を持って書き留めたり、深めたりはしなかった模様である。ところが禅竹には世阿弥に見られることのない、異常なほどの考古学的探求への嗜好があった。彼は自分たちが奉じている芸能の根源を知りたいという、強烈な願望を持っていた。能は翁に始まり翁に終わるという芸能である。それならば、能の根源を知るには、まず翁の根源を知り尽くすことができなければならない。禅竹の秘伝書『明宿集』は、そのような関心に突き動かされて書かれたものであった。】中沢新一『日本文学の大地』p,214より。 


・「好奇心」ではなくて、「探求」だったが。表現する側の人間がどこを向いているか。

2015.3.24 1025 『つくりたい曲というより、つくれるはずのない曲をつくろうとしているのだから』

03 24, 2015 | 日記2015

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・大粒の雪が降る。これはまた積もる。と思ったけれど、春の陽気が溶かして、積もることはなかった。

・ギターを弾き歌うのと違って、歌詞を書くのは体力がいる。面倒といってもいい。でもそうしてしか歌は生まれないので、それをやる。避けては通れないので。歌詞に関しても、今までの自分では書けないことを書くつもりでいるから、大変。その仕事を通じて少しでも成長していければと、思う。

・振り返って、思うと、よくこんな曲が自分に書けたな、と思うことがある。必死だったのだ、きっと。出来るはずもない、ということが前提にあって、それでもきちんとそれを引き受けてやったからだと思う。そこから目を逸らして、なんとなく今の自分のもってる武器で曲をつくることも出来るけれど、それでは先に進めない。一曲書き終われば、その分自分が少しでも前に進んでいるような曲、やはりそういうものをやらなくてはいけない。それは音楽に向き合う自分に課している課題。

・だから結局、「自分のつくりたい曲」というものをつくったことがないように思う。つくりたい曲というより、つくれるはずのない曲をつくろうとしているのだから。

2015.3.23 1024 『咲いたフキノトウを、また雪の白が覆う』

03 24, 2015 | 日記2015

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・咲いたフキノトウを、また雪の白が覆う。雪の日を過ごしながら浮かんできたイメージはそれだった。

・飾るサンシュユの花が咲いた。自然のものを人工のもので例えるのは変だけれど、線香花火の爆ぜるように小さな黄色い花が咲いた。

2015.3.22 1023 『山形Bar Tarjiにてライブ。大江健人さん、少太さん、と』

03 23, 2015 | 日記2015

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・山形Bar Tarjiにてライブ。大江健人さん、少太さん、と。いろいろ考えが巡る、勉強、勉強。

・河原でシラサギには会えなかった。ギターに集中して気がつかなかっただけだろうか。サンシュユは蕾が開いてもうすぐ花が咲きそう。

2015.3.21 1022 『根っこの部分まで共有するくらいの覚悟で』

03 23, 2015 | 日記2015

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・尊敬している人たちの表現した作品の上澄みだけをすくって、自身に取り込んでいるから、結局その人と同じ場所までいけない。根っこの部分まで共有するくらいの覚悟で表現する、に臨む。

・河原でまたシラサギに会う。昨日と同じ奴だろうか。ゆっくり上流へ歩いて行く。

2015.3.20 1021 『照ノ富士が勝ってしまって』

03 20, 2015 | 日記2015

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・川の手前に車を停めてギターを弾く。雪で閉ざされていた上流の場所。ようやく出入りできる季節になった。対岸にシロサギが一羽、川の側をゆっくりと歩きながら餌を伺う姿を目で追いながら、指はギターの弦を擦る。この時期の川の流れは激しく音も大きくて、歌声は川の音に途端にかき消される。あるいは混じる。

・切った山茱萸(サンシュユ)の枝をもらってきて、水に生ける。既に、生けた時より蕾が膨らんでいる。気がする。小さな黄色い花。春を連れてくる小さな黄色い花。

・どうしても白鵬と照ノ富士の相撲が見たくて、河原から帰宅。照ノ富士が勝ってしまって、声を上げ、手を叩く。勢いでビールを呑んでみる。

2015.3.19 1020 『土手に生えるフキノトウらしい色味のドット』

03 19, 2015 | 日記2015

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・聴く側の誰か、を想定して日々ギターを弾いたり、歌ったりするのではない。ただただそうしているだけ。何かを書いたり、歌ったりすることが、不特定多数に向けて「届いてしまう、開かれてしまう」時代だからこそ、自分がやっていることが、ただただ自分の身体との対話であることを忘れないように、在りたいと願う。

・何度も書いていることだけれど、誰か聴いてくれる人がいるから、歌うわけではない。観客がいるから、対価としてお金を頂戴しているから、その義務として自分の表現を洗練するべく努力するのではなく、それはあくまで自分との、あるいは自分の憧れる先人との、あるいは自分の生きる世界そのものとの、対話としての行為。

 見返りも、対価とも、関係ない場所で紡ぐ音。ライブという場所はそれを人前に晒すのだから、気が引けるというか、ある程度は申し分けない気持ちにもなるが、ライブという場所があろうが、なかろうが、その機会、場所に恵まれようが、恵まれなかろうが、関係なく、ただただ人は行為し続ける。


・今日もそちこちの田んぼで餌をついばむ白鳥をみた。ギターを弾きに河原にいくけれど、頭が痛くてどうにも集中できず、肩のストレッチをしながら散歩する。散歩しながら、上に書いたようなことを反芻する。土手に生えるフキノトウらしい色味のドットに目がいく。目の前まで歩いて行くと、それはやはりフキノトウで、花はまだ咲いていないようだった。

2015.3.18 1019 『そこには思想が必要だから』

03 18, 2015 | 日記2015

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・白鳥の鳴き声が聞こえたので上を向くと、白鳥の群れがすぐ上を飛んでいった。初めてのことに思わず叫んだ。何羽かは数えられなかった。

・以下、メモ書き。思ったことをダラダラ書く。
 
・ラジオで「リップノイズ」という言葉を知った。コンデンサーマイクに口を近づけて録音すると入るノイズらしい。それのどこがノイズなのかわからないけれど、普通はそれをコンピュータ上で削除して作品をつくる。らしい。それで、録音、編集の仕事をしている人というものを少し考える。

 最近聴いているものの中で音の録り方が一番好み、と感じるのは、トム・ウェイツの「オーファンズ」で、一般の録音の基準(演奏ではなく、単純に録られた音)で考えると、決して「いい録音」とはいえないものかもしれない。普通ならば雑音として削除される音がふんだんに、そのままCDに入っている。けれど、それはトム・ウェイツの意志。ぼくもできることならそう録りたい。そのままをそのまま提示するという具合に。最低限の編集は必要としても。

 だったら、エンジニアは必要じゃ無くなるじゃないか、というのは違う。大体のエンジニアは加工ありきで作品づくりに向うのだから、要らない加工は要らない、そのままをそのまま使いたい、というアーティストがいるとすれば、その意志を理解して録音に向き合ってくれるエンジニアが必要で。自分の色を出さない、ということを選択できる人はそれほどいないだろうから、そういう人(録音エンジニア)は貴重。(加工ありきの録音は興味が持てない、加工したとしてもし過ぎている。)

・歌うたいにしても同じで、大抵の人が「歌いすぎる」。歌は歌いすぎると、大抵つまらない。トゥーマッチになる。技術がある人ほどそうなる。削りながらも、芯を残す、というのは誰しもが出来ることではない。そこには思想が必要だから。

2015.3.17 1018 『白鳥たちの北帰行、の途中』

03 18, 2015 | 日記2015

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・白鳥たちの北帰行、の途中、山形の田んぼに一時飛来。雪どけした田んぼがまだ雪に覆われているかのように見える白鳥の群れ、の群れ。群れの入れ替わりを繰り返しながら、朝から夕方まで、白鳥の鳴く、を聴きながら作業をする。

・昨日書いたように、何かを美しいと感じる心があることが素晴らしい、などというつもりは全くなく、どちらかというと、美しいと感じるもの、自分の興味以外のことに全く興味を抱けない、という人として何かが欠けていること、そのこわさのほうを強く思う。と、自分で書けるのだから、まだいいのかもしれない。『風立ちぬ』の堀越二郎には、その俯瞰的視点すらない。だからこそ、そういう人間を主人公に据えているからこそ、あの物語が単に一般的な意味での「感動」と呼べない何かを自分の中に刻むのだと、思う。

2015.3.16 1017 『大通りを横切る歩行者専用の信号が』

03 17, 2015 | 日記2015

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・大通りを横切る歩行者専用の信号が青になって、車を停める。おばあさんがひとり、右から左へ歩道を渡りながら、赤信号で止まっている車の運転手へ向けてお辞儀をした。私の反対車線の車へ一度。こちら側に一度。自分がボタンを押したことで車を停めているから、ということだろう。田舎者のマインド、などと笑う人もいるかもしれないが。美しい、と思う。

2015.3.15 1018 『ほんと言うと』

03 17, 2015 | 日記2015

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・本当にそう、思う。
 誰かに「は?」といわれようが、そんなもの関係ない。

【ほんと言うと、小説家は働いちゃいけないんだよね。最低限のことでやっていけるようにしなきゃいけない。それが小説家の本来の姿のはずなんじゃないかなあ。みんなほんとに働きすぎだよね。だから、社会的な怠け者ってたくさんいるわけだけれども、そういう人って、第一に小説家には向いてると思う。】保坂和志

2015.3.14 1017 『合理性の外にあるなにかの活動を言い表そうとした言葉』

03 15, 2015 | 日記2015

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・付箋。メモ。中沢新一『日本文学の大地』十五章「精神分析としての物語」より。

【日本人にとっても、「物語」は、霊と深いかかわりを持っていたのである。「物語」はまちがいなく「モノの語り」であり、「モノ」とは「ツキモノ」や「モノノケ」といった言い方からも予測がつくように、合理性の外にあるなにかの活動を言い表そうとした言葉だから、それを一言で霊と呼ぶことにすれば、「物語」とは霊の顕現をよびさましたり、霊の臨在のもとにおこなわれる言語活動ということになるだろう。】p.179

【精神分析が、統一された人格は、ひとつの幻想であると宣言することによって、悩める魂にひとつの救いをもたらしたのと同じように、物語は、積極的に人格の分裂や複数化の事態を、登場人物の「業」として、つくりだしてみせることで、それを読むものの心に、滞留した状態からの脱出口を、あたえようとする。】p.181

2015.3.13 1016 『コーヒーの飲み過ぎで』

03 15, 2015 | 日記2015

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・コーヒーの飲み過ぎで胃の調子が悪い。といいながらカフェで本を読む。中沢新一『日本文学の大地』。読了。読んでいるあいだずっと山下澄人の小説のことを思い出していた。例えば【ヴァーチャルな領域と現実世界のとの、ちょうどインターフェイス(境界面)の位置にたって、むこうからこっちへの移行を、つつがなく実行する働きをする。p,150】というような部分とか。死と生がはっきり二つに分かれていない。読み終わって外へ出ると薄いダウンジャケットでは寒い夕暮れ。仕事帰りの人の歩く通りを、一匹の黒猫が悠々と横切っていく。

3/22(日) Bar Tarji 出演 大江健人 / 少太 / 松沢春伸

03 13, 2015 | Liveのお知らせ

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次のライブです。

3/22(日) 大江健人 LIVE
Bar Tarji 出演 大江健人 / 少太 / 松沢春伸
Open 19:00 Start 19:30 チャージ ¥1500(ドリンク別)

2015.3.12 1015 『もっと深くまでいける』

03 13, 2015 | 日記2015

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・頭がまわらない。気候のせいか、体調のせいか、ここしばらくずっと。ギターの練習をしてみる。訓練。ただ指に任せるのではなく、手本を聴きながら同じように弾いてみる。という、これまでギターに関してはやってこなかったことを。全く弾けず苛立つ。自分の手癖を一旦解体する作業はおもしろいといえるものではないけれど、一度そういう門をくぐるべきだとも思う。もう少し前に進むためにも。

・言葉でいえることは、言葉でいい。音楽はそれだけではないのだから、歌でない在り方を模索している。歌だけに頼らない在り方を見つけることができれば、ぼくの音楽はもっと深くまでいける。

2015.3.11 1014 『雪が降る』

03 12, 2015 | 日記2015

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・雪が降る。「三月半ばに雪か、、、」と思わないのは、四年前の同じ日にも雪が降っていたからだ。

・本棚から、パラパラめくってみる。

【生きていることは歓びなのだと思う。生きていることの中に歓びや苦しみがあるということではなくて、まずは生きていることそれ自体が歓びなのだ。】p,213 保坂和志「世界を肯定する哲学」第十二章「生きる歓び」より。

2015.3.10 1013 『底に扉が』

03 11, 2015 | 日記2015

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・歌うたいが、ただただ、ずっと、歌うたいのまま歌い続けていく、ということは以外と難しいことで、人は方法を得ると、外に向けて言葉(身の丈以上の)を発信したくなるもの。そういう人いっぱいいる。

・歌うこと。祈りみたい。日々の。祈りをもつ人間ではないけれど。内へ内へ向って歩いていくと、底に扉があって、そこを通過してようやく他へ向う、というような。始めから外へ(多へ)向けてつくられたものが結果的に他との深い繋がりを得られるか、そうではないように。思う。日々自分のやるべきことを、ただやる、を続けること。

2015.3.9 1012 『音楽も一歩ごとに薄氷』

03 11, 2015 | 日記2015

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・気になる言葉。つい反応。

【その場の即興はうまくいかないかもしれない。楽譜があって、ただ弾いても、音符は音にならない。いままでにある音楽を分析して、たくさんの理論がある。理論から音楽を作れない。演奏も作曲も、いままで出会ったことのない偶然の状況をどうしたらいいのか、その場その時で答はちがう、と言うより、答はない、と 感じている。その場限りのあそび。うまくいくのも事故とおなじ。アクシデントの語源は落ちてくること。

音楽も一歩ごとに薄氷。】高橋悠治

2015.3.8 1011 『作者が作品を支配することから完全に落ちる』

03 10, 2015 | 日記2015

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・読み返す言葉。

【文学とか小説とかの乗り越えなきゃいけない壁って作者が作品を支配することから完全に落ちるということで、ぼくはそれをずっといっているんだよね。】保坂和志「音楽談義」p,34より。

2015.3.7 1010 『得体の知れない運動』

03 08, 2015 | 日記2015

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・町の温泉には、ほぼ毎日くるおっさんたちが多数いて、その中には誰に教わったわけでもない(あんなもの誰も教えない)、独自の「何運動」の範疇からもはみ出した、得体の知れない運動(けれど彼らにとってその運動は「こうとしかならない」正しい運動だ)をやっている人がたまにいて、それを日々欠かさずやっているのだろう、そういうおっさん達をみると、毎度感心する。

 前に書いた、第一の目しかもたないというか、自分の中にあるもう一つの目、や、他人の目という視線からも解放されている、というか。端的に、歳をとる、ということはそういうことだといえるのかもしれないが。(大友良英も本の中で書いていたけれど、のど自慢に出てきて、伴奏のリズムも何も関係なく歌う老人がいて、あれが凄い。——というのと一緒で)

 周りからどう見られているかなんてことはどうでもよくて、自分の決めたこと、ルーティンに徹底。変な奴などといわれても、それが何のことかわからない。という場所。

(彼らは、変人を気取って、結局他人の目を意識している奴らのずっと先にいる)。


・酒蔵の蔵開きにいく。ただで日本酒を呑む、良い日。

2015.3.6 『1009 学問とか観念とか思想とかに夢中になっている人たちは』

03 08, 2015 | 日記2015

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・コーヒーと読む言葉。中沢新一「日本文学の大地」。

【親鸞の教えは、その大地に深く根を下ろすことのできた、日本では数少ない、宗教思想なのである。思想や観念が、そういう大地に根を下ろして、そこから栄養を吸収して、大地に内蔵されている生命そのものに、表現をあたえることができた、という例は少ない。いつの時代にも、学問とか観念とか思想とかに夢中になっている人たちは、大地から浮き上がったままなので、美しいけれどか弱い、観念の空中花を咲かすことができるだけだ。】p,51「大地に知を棄てる」より。

2015.3.5 1008 『酔っぱらったピアノを弾け』

03 08, 2015 | 日記2015

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「芸術」

精神が
衰える
につれて
その
形式が現れる

チャールズ・ブコウスキー『指がちょっと血を流し始めるまでパーカッション楽器のように酔っぱらったピアノを弾け』p,238より。


・小雨の、降る、散歩、ライトニン・ホプキンス、聴きながら。

2015.3.4 1007 『久しぶりの散歩』

03 04, 2015 | 日記2015

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・久しぶりの散歩。をする。ここ数日で降った雨がだいぶ街の色を変えた。

・(おそらく)県営の駐車場の隅に山に積まれた雪を、管理人がスコップを使って、散らす。陽気を活用して少しでも根雪の嵩を減らす管理人。駐車場に散らされた雪の塊が太陽に晒されて光る、のを横に見ながら歩く。

・駅まで歩いてカフェに入って途中本屋で買った本を読んでみるけれど、周りの席が高校生で埋まっていて落ちつかない。あきらめてまた歩く。何時間か、歩いてみる。普段は通ることのない、細道を歩いてみる。庭の木蘭の木の蕾はだいぶふくらんできた。日もだいぶ長くなってきた。

2015.3.3 1006 『柳家喬太郎』

03 04, 2015 | 日記2015

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・隣町の温泉に落語を聞きにいく。柳家喬太郎。凄い人。ああいう人を体験すると地肩の違いを見せつけられる気がする。地肩の強さとその地盤の上に咲くセンス。求道する心。

・マディー・ウォーターズ「フォークシンガー」「ニューポート」ばかり聴いている。ブルースの制約の先にある自由を聴く。

2015.3.2 1005 『「オリジナル」というのは、何をいうのか』

03 02, 2015 | 日記2015

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・春が降る
 色を散らす雨

 土の下に眠る
 淡い色の目を覚ます頃
 鳥の歌につられて


・「オリジナル」というのは、何をいうのか。自分の中に流れる他者の声を聴かずして、歌うことなど、もしそれを「オリジナル」というのならば、潔くそんな言葉を見送ろう。舞台に立つとき、わたしはわたしだけではなく、「自分の中に生きる、わたしに先行して在った他者」を自分の傍らに感じるような、それをやりたい。聴きにきた人たちに、その大勢の他者の姿が見えるような歌を歌いたい。「オリジナル」かどうか、など、もうどうでもいい。わたしは彼らと共にうたう。

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松沢春伸の日記

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