・メモ。
・老いた鴉の群れが
新しい朝の光を
引き連れてやってくる
・黒きもの。老いたもの。死の領域の使者。が、新しい光を導いてくる。
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・土の匂いのしない言葉を僕は信頼することが出来ない。
・ここ数日はトムウェイツ「Orphans」ばかり聴いている。
【頭の上には穴がひとつ
でもあれはただのお月さま
わたしのまいた種から木が一本でもはえるかな
人生ってきっとあたしがこれまで愛してきた人たちが
照らしてくれる道のようなもの】
ジェインズ・ブルー・ウィッシュ より。
・大きな声が遠くまで届くとは限らない。
小さな声で語られた言葉が遠くの誰かに響くことがある。
青森の美術館でみた女性たちの織物。
遠くの誰かのためにではなく、家族のため、
家族の身体を寒さから守るため、こつこつ針を通す。
そうしてつくられた日用の道具が収集家によって集められ、
その展示を未来に生きるものたちが見てそこに流れた時間を感じとる。
糸は繋がる。
・冬の厳しい寒さの中で、家族を思い、織る人。縫う人。に移入する。家族の日常に添う品を紡ぐ女性。が入り込んでくる。青森で織物の展示を見たからだろう。民芸品にしか宿らないものがある。
・冬の
雪の
風の
冷たさよ
どうか
我が子の身体を避けてゆけ
・登米からの帰り道、ラジオでのど自慢を聴きながら運転する。別にのど自慢自体に興味はないけれど、CDをかけたい気分でもなかったし。それでポーランドかどこかの女性がカタコトの日本語で中島みゆきの「麦の唄」を歌っていて、それがよかった。カタコトの歌に惹かれるのは何故だろうか。
・母国語においてもわたしはカタコトでありたい、などと思っている。
・その後、トムウェイツの「オーファンズ」を聴きながら、山形へ向けて運転する。何故かわからないが感動して涙が出る。河原で休む白鳥の群れを見る。白ハトの群れを見る。十羽くらいの中のほとんどが白ハトだった。
・宮城県登米市「Cafe Gati」さんにてライブ。ショウ441さんと。
・ショウさんのライブ中にオーナーの柴田さんが話してくれた内容がおもしろかったけれど、何を話してくれたのか覚えていない、印象として、何かが何となく残っている。
・お店の窓からは一面の田んぼ、登米は雪もない。積もった雪が溶けて、今まで雪の重しでつぶされていた草が見える。これから太陽に向けて背を伸ばすだろう。その光景をみて、フキノトウはまだか、と思う。春は近い。
・メモする日。あとで確認できるよう。
・河原で歌いながら、裏声と地声が入れ替わりながらうたう、という歌唱になってきているのに、気づいた。そういえば誰かに指摘された気がする。バイオリンのイクくんだったろうか。「あの歌い方はどうやっているの?」と。「わからない」と答えたように思う。
・この歌唱がいいかどうかはわからない。が、今の自分の自然の声の出し方らしい。自分で気づくのが遅い。またこれから変わるだろうから。一応メモ。
・自分の声の出し方を確認する曲がある。Candi Staton「I'll Sing A Love Song To You」。これでいつも確認。これも変わるだろうから。メモ。
・明日はライブ。宮城県の登米に向う。どうなるか、はもちろんわからない。
・傷にまみれたその両の手で
それでも果てない糸を紡ぐのだろう。(歌詞を書き直す)
・糸は紡がれ、布に。古びた布は細く裂かれ、また織られて、新たな生地となり、また別の誰かの日常に添う。
・大粒の雪の降りる河原の橋の下でギターを弾く、ディランがシナトラの曲を歌っている、いつのまにか指が踊る、意識の輪は徐々に点になる、何も聴こえていない、あるいは全て聴こえている、鴨が一羽水たまりに着水して泳いでいる、雪はまだ降っているようだ。
・評価を外ばかりに求める。ことから抜けることを知れば、もっと表現は豊かになるのに。集中してギターを弾き、うたう時の体験とか、自分だけの時間の中で成長を感じる歓び、みたいなものが根っこにある人は「外」にばかり意識を囚われることも少なくなる、と思う。ゼロは難しいが。
【先生の教えたこと、学校の規則に抵抗感なく適応する子だけが、成績がいいという評価を受けてしまう。】岡本太郎
・今日はなんとなくこの言葉。けれど、この言葉だけでは言い切れていないとも思う。
・成績というか、音楽でも絵でも書道でも、評価(賞)を与えるのが頭の凝り固まった大人(先生)ということ。そこから子どもの矯正は始まる。
・どこに行っても大手企業の店舗が街の色を奪っていて、いったい今自分はどこにいるのだろう、と思うことがある。土地に根付くものを剥ぎ取って。人間だって、土地のものであって。棟方志功のいう青森は今も青森なのだろうか。
その土地に生まれなければ育つことのない感覚がその人の仕事(芸術)の舵取りをしていく、というようなことが、どの土地をも画一化しようとする現代でも起こるだろうか。
あえて言葉にすれば、「訛り」のようなものだろうか。言葉の訛り、というだけでなく、身体に刻まれた「身体性としての訛り」のようなもの。その土地で生れ、育ったからこそ、その身体に宿る何か。訛り。訛りを排除しようとする流れからは何も生まれない、ように思う。
・棟方志功記念館で流れていた映像「彫る——棟方志功の世界」で彼が話した内容を書き起して印刷した紙をもらってきた。その中から。
【青森ってとこは、みんなこう、暗くって寂しくって、なんだかこう、憂鬱なように、みんな日本全体の人がそう思っているけれども、そうじゃない。ねぇ。こう、非常にねちっこいっていうか、ねっとりしてるっていうか、、、。ねぇ。女の肌でいえばもち肌っていうような感じで、なんともいえない、例えることの出来ない、妙〜な、美しいものがこもってるところですよ。青森ってのはねぇ。】棟方志功
・青森二日目。青森市へ。八戸と青森ではこれほどまでに雪の量が違うのか。歩いて棟方志功記念館に。棟方志功という人間が残した作品だけではなく、人物そのものをもっと感じたい。あれほどおもしろい人なのだから、どういう人間がどのような動きと共に木に彫刻刀を刻んだのか、結果としての「作品」だけじゃなしに、もっと人物そのものに焦点を当てたら彼の異質さがもっと伝わるのだろう、これから同じような道を歩こうとしている人間に。
・館内で流れていた棟方志功のドキュメント映像が面白すぎて、声を出して笑った。歌を口ずさみながら、顔を木にすりつけるように彫る。なんと愛らしい人だろう。DVDがあれば買おうとしたら21000円て。作品を見せるのもいいけど、プロデュースの仕方というか、もったいない。
・青森旅。十和田市現代美術館特別展「繋ぐ術 田中忠三郎が伝える精神」を見にいく。感動した。いろんなことが頭を巡る。言葉になる手前の言葉たち。
・刺し子。紡ぐ女性たちの身体の動き、そこに流れた時間。が流れ込んでくる。
・時間の視覚化。
・三百五十円。で温泉に入る。露天風呂に浸かる。雪が顔を襲ってくる。露天風呂にかかる屋根と塀の隙間から、カラスが一羽吹雪の中を飛んでいくのを見る。肉団子をつくって鍋にする。干し柿は残り三つになった。
・言葉。大友良英「学校で教えてくれない音楽」あとがきより。
【こんな本を出すと、なにやら音楽がなにかの役に立ちそうだってことを言っているように思われるかもしれません。でも、この期に及んでもやっぱり思います。なにかの役に立つみたいな実用的な目的をもって音楽をやりたくないし、何かの主張をつたえるために音楽をやるなんて絶対に嫌だと。立派な音楽なんか、面白くないと。説明できちゃうもんなんか、嘘くさいと。教育的意義なんてもんが先頭に来る音楽なんて、なんか違うなと。そもそも、わけがわからんけど面白いから音楽をやっているわけで。
音楽は直接実用的な力なんか持たないほうが絶対にいいと思っています。そんなもんを持った時は危険なサインだとも。———】p225 あとがき。大友良英。
・大友良英「学校で教えてくれない音楽」より。
【リハと本番の境のないことが、テニスコーツの今の理想です。「なんでリハみたいにできないんだろう」って思うような本番って、いいことは一つもない。】p,110 さや(テニスコーツ)
【私は、即興演奏にかんして自分が置いているハードルが高すぎるのかも。即興って、誰かが音を出して、それに対して返す、ということじゃなくて、「自分じゃないものが勝手に動きだす」ことだと思っているんです。自分の考えの及ばないところで、何かが勝手に生まれるっていうような。そういうのって、ちょっと正気ではいられない状態なんじゃないか、と。それが、自分の理想の即興。】p111,112 Phew
・大友良英「学校で教えてくれない音楽」。久しぶりに新書を買った。音楽の授業として録音したものを書き起したもので、著書「MUSICS」や「音遊びの会」の映像より、受けとるのが容易というか、すらすら進む。すらすら進むけれど、ここには大事なことが書いてある。発見するというよりは大事なことを再確認する読み物、自分のやろうとしていることが的外れではないことを伝えてくれる。特にゲストの言葉がいい。テニスコーツさや、と、Phew。
【「どういう方向で完成させよう」とかも考えてはいなくて、そこにいる人で出来ることを、会話するようにやる。失敗とか未完成とかいうものではなくて、そこで出会い頭にやったことをそのまま受け入れて次に行くような、そういう音楽のつくり方って言ったらいいかな。】p,69 大友良英
・屁が出る。屁が出た。屁をしようと思ったわけではない。いや、なるべく音を出さないように屁をした。屁を屁としないために。けれど、立派に音が出る。出た。その音に自分が笑う。遠くの誰かも笑っている。誰かが屁をしている。誰か遠くにいる人間の屁を聴いて自分が笑っている。
・いちいち曲を説明して、この曲はこういうシチュエーションで、こんな感情でつくりました、というのに興味がないのは、言葉は言葉自体にリズムを持っていて、意味を持つことだけが、言葉の役割ではない、ようなことを感じているからで、歌が全部そのように、意味を伝達するだけの言葉に埋められていることに、興味がないからなのだと思う。
・何を言っているかわからないが、意味じゃなくて、言葉を、その文字を打つ「手の遊び」にしたい、というようなことではないか、と思う。思う、と書きながら、それが本当に自分が思っていることなのか、わからない。勢い、に任せる、という時、自分の中の「検閲」のスピードを越えて、手が打つ。音楽でも、検閲を逃れて身体が意識より先立つことがあるのだから、文章だってそうあっていい。というような、こと。
・今日の文章に意図はない。何を言っているの? もわからない。何かを言うつもりもない。ただ指の勢いのみ。指の遊び。読み返さない。
・昨日の「芸術家は畸人たれ。」という章の横尾忠則の言葉は、第四の自分の目線をいうけれど、畸人たれの畸人は、つまり第一の自分しか持たないような人間ではないのだろうか、ピカソをみても理性的な処理を感じる横尾忠則自身もまたそこ(彼が畸人というときの畸人)に至っていないのを自分で理解していて、そこに至るのは、、、いや、至るという言葉がそもそも間違いか、、、。
・雪。雪。雪。立春を越えてもまだ雪。という書き方はどうやら間違いで、立春というのは「寒さが増さなくなった時期」らしい。寒さが底をついただけであって、当然雪は降る。明日も寒い、ようだ。体調管理などしなくとも、身体が適応していた頃と違って、徐々に身体の声を聴かなければ、それが崩れる歳になっている、気をつけよう。とは、思う。出来るかどうかは、わからないが。
・言葉。横尾忠則「見えるものと観えないもの」。
【自分のなかに積極的な自分と消極的な自分がいて、それが闘っているように見えるんです。その上に、それを見ている第三者の自分がいる。さらにもう一つ上に第四の自分がいて、全体を見ている。つまり、その両方をひっくるめて、つまらないなァといっているニヒリズムな自分がさらにいるような気がしてならないんですがね。】p215 横尾
【ピカソを見てもまだ理性的な処理を感じます。】p219 横尾
・仙台Vorz Barにてライブ。ざ・べっがーずから弾き語りで、佐山アキ。と一緒に。
・常にバンドで演奏している人間が弾き語りでステージにあがるのは大変なこと。単にバンドの音から他の楽器の音を引いた、その残りが弾き語りというのではつまらない。弾き語りなのだから、ひとりなのだから、バンドでは出来ないことをやること。好き勝手に。一定のリズムで演奏するひつようだってない。自分の身体を聴く。こと。
・好き勝手に、といわれて人はどれだけ好き勝手にやることが出来るか。好き勝手に演奏してみろ、といわれてその好き勝手にやるということがどれほど難しいことかを知る。岡本太郎がいう「デタラメな絵を描いてみな」に近い。
・静かな声を遠く深く届かせる。そのような歌。課題。
明日はVORZ BARにてライブ。
どんな夜になるでしょう。
わかりません。
2/07(日) 松沢春伸 O.A. サヤマ アキ(from ざ・べっがーず)
start:21時 admission:1,500yen + drink order
vorz bar
・河原にギターを弾きにいく。歌を歌いに。車に流れるのは高田渡の「石」。プレーヤーとしての自分の音楽の狭さを知る。広いことがいいか、というのは別だが。練習というのとも違う、指に任せる時間。子どもらの遊ぶのを見守っている感覚。見守っているつもりが、自分の想像を越えた遊びをする子どもに驚く、そんな時間。自分の指であっても、それが自分のものとは思えないような時間、私の中の他者。の時間。
・河原の土手を母親に見守られながら、ソリ滑りをする子どもたち。それをたまに眺めながらギターを弾く男。ソリ滑りして遊ぶ子どものようにギターを弾こう、などと思いながら。
・横尾忠則「見えるものと観えないもの」。中沢新一との対談。
【横尾——プリミティブアートの中には、西欧諸国の知性なんか何にもない。日曜画家的な幼稚っぽいところがあるけれど、何とも言えない魂の故郷に触れるようなところがあるでしょう。ああいうイノセントなものが重要だと思う。純粋追求がいかに間違っていたかがわかるでしょう。
中沢——素人っぽさは意味ないけど、どれも魂に関わることなんです。今宗教ブームだと言われていても、宗教やっている人が宗教から魂をぬいちゃっていて、現代美術の純粋追求と同じようなことをやっている。もうそういうのを方向転換しなくちゃ行けないと思う。】p99
・立春。満月。
・声を聴くものたち。ジブリールの声を授かる文盲ムハンマド。神の言葉を身体で踊る女。受け取るものたち。
・男の論理がはびこる場所はろくなことにならない、というのは感覚的に理解できる。上書きが必要?
・横尾忠則「見えるものと観えないもの」より。梅原猛との対談。
【芸術家は一種の巫女としての装置ですからね。だから自作に対しても謙虚にならざるを得ない。オレがやったという感覚になれない。だって、すでにあるものを写し取るだけだものね。天才の能力というのはそういう能力じゃないかと思いますね。】p218
【ぼくは芸術をやるときには自分が女にならなきゃだめだと思う。巫女にならなきゃだめだと思うんです。女っていうのは受信能力を持ってると思うんです。男の役割は社会に対する送信能力のほうが強いんです。】p222
・経済。
政治。
それらから最も遠い場所で紡がれる歌。
それらに回収されることを拒み続ける歌。
・ビル風に小さな小さな雪粒が舞う。久しぶりに自転車をこいでカフェに行く。コーヒーを飲みながら横尾忠則の「見えるものと観えないもの」を読んで感動する。横尾さんのことはよく知らないけれど、凄い人だ。
・ここ数日書いたことは、演奏している人間、特にひとりでやっている人は通る道で、客の反応の乏しい場所、その雰囲気にたえられない、というマインド。それがこわくて、数をこなすごとに自分から客にすり寄ったライブをしてしまうようになる。そこを客との馴れ合いにせずに、自分のやりたいことを好き勝手やるという場所に留まる強さ。
・百人いて、百人が楽しいと思えるようなものは音楽にしても、文章にしても、焦点を自分の演奏より、客の反応に絞らなければならない、そんなの馬鹿げている、そんなこと望まない。
・音楽に限らずに、小説であっても事件のひとつも起こらない、ダラダラ(そう評価されるが、、、)と続く文章を最後まで書く人がいて、それはそれだけで「盛り上がることが素晴らしい」価値観(エンターテイメント小説の在り方)とのたたかい。
・「盛り上がる」ことが良いライブの条件のようにいわれる。さっぱりわからない。やる側も、聴く側も好きにやればいい。
・自然発生的に場の雰囲気が演奏につられて盛り上がる。のならばわかる。そうではなく盛り上がることを強制されるライブなんて興味ないし、それをこそライブという演者にも、客にも興味がない。
・テレビを観ていたら、十人も入れば満杯になる小さな焼き肉屋で、二つの七輪を客が共有して焼く、客は一人で来る客が多い、常連が初めて来る客に焼き方を教えてやる、それまではわかるとしても、新しい酒瓶をあける度に、店主の合図とともに、なんやら全員でかけ声をかけたり、客がかえるときは客同士で見送りをしたり、ことあるごとに全員で乾杯したり、何から何までその場にいる人間が共有する、そのことを強制しているだけで、気持ちが悪くて仕方なかった。それを、楽しいといってる、客(店長含め)もほとんど「こいつらもてないな、、、」という人ばかりでうんざりする。
その店の離れとしてある別の隠れ家的焼き肉屋とかいうのも、主人がカウンターに座る客の肉を全部自分で、表一秒、裏三秒、もう一度表三秒で焼いて「どうです、おいしいでしょう?」を強要していて、それを一年以上も予約待ちして食べて「すごーい」とかいうてる客もどうかと思う。
何でいちいち食べ方まで誰かに強制されなくてはいけないのだろう、あほくさ。それで、この隠れ家的焼き肉に行きたければ上に書いた小さな焼き肉屋の常連になる必要があるらしい、あほくっさ。
・どうでもいいが。盛り上がりを強制させられるライブと、上の焼き肉屋がぼくの中では一緒なのだ。
・関西遠征で考えたことのひとつ。人は何に向けてうたうのか?。大阪の人のDNAとしての「商」。対「人」。自分は「人」に向けているか、と問われれば、それだけではない。人の時間を越えたもの、や、自然。東北人のDNAがそれに関係しているのかはわからない。
・どうも、言葉が生まれない。しようとする気もない。雑。
・山形にもどってすぐ、胃腸炎にかかって、寝込む。この身体の弱さ。ツアー中に症状が出ずよかった。と思うことにする。