2014.4.30 700 『どちらもつまらない』

04 30, 2014 | 日記2014

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・眠い。異常に眠い。歌うトムウェイツ。ホワイトホースのソーダ割り。緑の砂壁に貼られたディランの肖像。不規則なリズムでキーボードを叩く指。グラスの氷が鳴り踊る。空っぽだ。あらゆるが。

・大人の論理。子供の論理(?)。大人は大人の論理で動く子供(子供の論理を捨てた子供)を、「しっかりしてる」とか、「できのいい子」とかいう。そんな風に、大人に褒められること(大人の考えていることを先読みすらして!)を一番に据えるような子って、大人になって「うまい」と、多数の大人にいわれるようなことは出来るかもしれないけれど、「誰かの根っこを揺らす」ような表現はできないのではないだろうか。というイメージ。

・一方的な大人の論理の刷り込みをしてよろこんでいる(その自覚すら無しに)大人。「大人の論理ってくだらないわ」とすらおもわずにそこに染まっていくこども。どちらもつまらない。

2014.4.29 669 『パソコンが手元にない。携帯で。』

04 29, 2014 | 日記2014

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・パソコンが手元にない。携帯で。難しい。小説の全文をiPhoneで書いている人がいて、ほぼ全部買っているけど、これで全文書くって相当すごい。

・身体と文章、身体と音は結びついているのだから、今日のように身体がいつもと違う制約を受けているというか、そういう状態にあれば、言葉も歌もきっと変わる。

・子供に対して、他人に面倒をかけることは良くない。とか、よくいうけど、他人に迷惑をかけない子供がいたとしたら、そんな子供くっそつまんないというか、大人の価値観に毒されているだけであって、子供の時代からそんなんでどうするの? とおもう。

・大人の価値観なんか無視して、馬鹿にして、怒られることを、むしろ、楽しみとしているくらいのことでなくて、こどもであることの何が面白いのだろう?

2014.4.28 668 『道路端に波のように流れつもる桜の花びらのピンク』

04 28, 2014 | 日記2014

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・道路端に波のように流れつもる桜の花びらのピンク。ハナミズキの、蕾が割れて、明日にでも咲くんじゃないかとおもわせる白とピンクの混じった色のひろがる様。サクランボの、佐藤錦の花は満開に咲いて、その周りを飛び回るマメコバチ。

・最近は何かを考えているというより、日々の街路樹や、果樹の木々、庭木の芽吹き、そんな木々の変化に目を奪われて、なんだか、ただ見とれているというような状態に近い。ただその時間の中に身を委ねて、若葉の生まれる季節を感じとろうとしている。きっと人間も何かしら若葉的なものが生まれる季節なのだろう、ともおもう。

・新しい暮らしの準備や、家具づくり、ばかりしている。もう少し、もう少し。ホームセンターはやはり楽しい。

2014.4.27 667 『愛情55』

04 28, 2014 | 日記2014

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・今日の言葉。金子光晴「金子光晴詩集」(岩波文庫)より。


「愛情55」

はじめて抱き寄せられて、女の存在がふはりと浮いて、
なにもかも、男のなかに崩れ込むあの瞬間。

五年、十年、三十年たつても、あの瞬間はいつも色あげしたやうで、
あとのであひの退屈なくり返しを、償つてまだあまりがある。

あの瞬間だけのために、男たちは、なんべんでも恋をする。
あの瞬間だけのために、わざわざこの世に生れ、めしを食ひ、生きて来たかのやうに。

男の舌が女の唇を割つたそのあとで、女のはうから、おづおづと、
男の口に舌をさし入れてくるあの瞬間のおもひのために。

2014.4.26 666 『おお、グレートスピリットよ』

04 27, 2014 | 日記2014

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・今日の付箋。中沢新一「カイエソバージュ4 神の発明」。

おお、グレートスピリットよ、私は嵐の中にあなたの声を聞きます。
あなたの息吹は、万物に生命を授けています。
どうか、私の言葉を、お聞き届けください。
あなたが生んだたくさんの子供の一人として、
私はあなたに心を向けているのです。
私はこんなに弱く、そして小さい。
私にはあなたの知恵と力が必要です。
どうか私が、美しいものの中を歩んでいけますように。(略)

アメリカ先住民オブジア族の祈りの言葉

【最初にアメリカ先住民と白人が接触をはじめた頃から、彼らの間にキリスト教の神(ゴッド)の考え方とよく似た「超越者」の概念があるらしいということが気づかれていました。霊的な存在すべての上に立つ、大いなる霊という意味で、その概念は「グレートスピリット」と呼ばれるようになりましたが、宣教師がいくら「君たちの信じているそのグレートスピリットこそ、われわれの言う神(ゴッド)なのだよ」と説明しても、先住民たちは容易に納得しませんでした。それは神(ゴッド)とグレートスピリットのあり方根本的な違いがあったからです。】p79,80

【オーストラリア・アボリジニやアメリカ先住民のものの考え方をみるかぎり、スピリットと「グレートスピリット」はまったく同じスピリット世界に、同じ資格で同居しあっています。ところが、一神教の神(ゴッド)は多種多様のスピリットたちとは、違う位相にいます。ようするに「グレートスピリット」は絶対に神(ゴッド)になろうとしないのです。】p88

2014.4.25 665 『内部視覚』

04 26, 2014 | 日記2014

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・今日の付箋。中沢新一「カイエソバージュ4 神の発明」より。

【人類学者や考古学者たちは、こう考えました。幼い子供が立派な「抽象画家」である理由が、誰に教えられることもなく子供たちが見ている「内部閃光」にもとづいているのだとしたら、旧石器時代の洞窟や新石器時代の壷などに描かれている特有な紋様も、「内部視覚」の見ている光のパターンにもとづいているのでないか。そうだとしたら、芸術の発生をこの「内部視覚」の表現から考えることはできないだろうか。外の世界を見て、絵を描きはじめたのではなく、人類はまず自分の内側に発生する光のパターンを「見て」絵を描き出したのだ、とこう考えるわけです。】p46

【どの領域にも所属しない思考、何かを思考するのではなく、思考自体について思考する思考、思考が産まれるところでいたるところに見出されながら、発生した思考をいつも超え出てしまう、ひとことで言って「思考そのもの」ないしは「思考自体」というものが、流動的知性とともに目覚め始めるのです。】p59,60

2014.4.24 664 『こごみをとってきて、おひたしにして』

04 24, 2014 | 日記2014

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・こごみをとってきて、おひたしにして食べる。とはいっても山に行ったわけではないけれど。ふきのとうのほうが好き。きどいほうが好き。

・季節の変化。を自然の植物の移り変わりで実感するようになったのは最近で、二十代のころはそれほど意識していなかったのに、とおもうと、自分のこの変化はなんなのだろう? といつもおもう。自然の一部なのだよ、わたしも、ということを実感するようになるこの変化の不思議。太陽の光や、芽吹く葉の様子がたまらなく愛おしくなったりする。この変化はなんなのだろう。

・ただ単におっさんになったということなのか、どうか。

2014.4.23 663 『国道沿いの果樹園のラフランスの小さな白い花が』

04 24, 2014 | 日記2014

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・国道沿いの果樹園のラフランスの小さな白い花がポツポツと咲き始めている。公園の白木蘭は満開の時期を過ぎて花びらがいたみ始めていて、通り沿いのイチョウの木は葉が芽吹き始めている。若葉の季節がやってくる。

・気温は高く紫外線も強いからか顔がヒリヒリしたりするけれど、夕方になって風が強くなると一気に寒くなって、半袖で作業していたのに、慌ててヤッケを着た。

2014.4.22 662 『そこに流れた時間を同時に見ている』

04 22, 2014 | 日記2014

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・庭の桜はソメイヨシノではなく、オオシマザクラ系統のものらしく、花が散ってから葉が芽吹くのでなくて花と同時に葉が開きはじめるので、花見でイメージする桜と違いがあるのだけれど、それはそれでおもしろい。

・たくさんの蜂が庭の桜の花びらに顔をよせて飛び交う。のを部屋から見ているわたし。の隣の空のビール缶。と同じ銘柄のビールを城のお堀沿いに咲く満開のソメイヨシノの下で飲んでいる誰か。同じ桜の木の花びらが風に揺れるのを今から何百年も前に眺めていたであろう誰か。その桜を植えた名も知らぬ誰か。時間の繋がり。

・人は何かを見る時に、物質としてのそれを見ているだけでなく、そこに流れた時間を同時に見ているのだろう。

・おじいさんや、おばあさんの顔や手に刻まれた皺を見た時に、彼らが生きてきた時間に思いを馳せることができたら、人はもっと優しくなれるんじゃないだろか?

2014.4.21 661 『雨の音を聴きながら』

04 22, 2014 | 日記2014

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・雨の音を聴きながら本棚を制作する。桜は散らない? 咲くのが早かった木はこの雨と風で少し花を散らしたようだけれど、満開前の木の下に花びらは落ちていないようだった。本棚はスカスカだ。

・窓から射し込む太陽の光が、ニス塗りした板間に反射しているのを眺めているだけなのだけれど、それだけで何かが満たされるような思いがする。

2014.4.20 660 『今日の言葉』

04 21, 2014 | 日記2014

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・今日の言葉。twitterより。

【とどくことをヘンに想定すると、その人の書いているものは結局仲間うちに向けたものになっちゃうんです。】保坂和志

【素人のカラオケって、うまいほどつまらないよね。】保坂和志

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【音感がいいとか悪いとか、そんなことはどうでもいい。大体、画才があるやつにロクな絵描きはいないんだから。センスなんかに頼るから駄目なんだ。】岡本太郎

2014.4.19 659 『もういいよ、そんなに』

04 20, 2014 | 日記2014

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・「もの」「便利さ」「発展」。過剰なそれらに「もういらない」「これ以上いらない」と声だかにいう人もあれば、静かに噛み締める人もあれば、「いやそれこそが!——」という人もまたある。今ここにあるもの。でなんとかやってみる。そこから産まれるものを愛でる。小さなことに歓ぶことができる。本当にそれでいいのに。とおもう。

 世の中の流れがどうであれ「もういいよ、そんなに」とおもう。「もの」「金」で満たされていたって、人そのものが「歓び」を感じられるかどうかは別の話で、どうやらそれは「もの」「金」とは別のところにあるらしい。


・逆に。自分の表現として、表現するものとしてのぼくは、進みたい。前に。自分が今もっているものを使って、それらを振り絞って、その先に産まれてくる、未だ見ぬ自分をみたい。

2014.4.18 658  『かれは虚空に色を塗らねばならぬ』

04 18, 2014 | 日記2014

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・コブシ。ベニコブシ。木蘭。桜。ほっかむりして草とりするおばあさん。の脇を歩く首輪のついた猫。茎の伸びたフキノトウ。スギナとツクシ。路地もののサクランボの白い花。——春の光景。のあるひとつの点。

・過去の付箋。カミュ「シーシュポスの神話」。

【《なにもののためでもなく》仕事をし、創造をする、粘土に彫る、自分の創造には未来がないということを知る、自分の作品が一日のうちに壊されるのを眺め、しかも一方では、それも、数世紀ものあいだ永持ちすることを予定して建築をすることも、どちらも本質的にはたいして重要ではないと意識している、——これこそが、不条理な思考がよしとする辛い叡智である。一方では否定し他方では賞揚するというふたつの作業を同時に行う、これが不条理な創造者に開かれている道だ。かれは虚空に色を塗らねばならぬ。】p161

【個人の生はいかなるものであれ、本質的には無用のものなのだという自覚を完成せねばならぬ。こうなってこそ、かれらは、いっそうのびのびとした態度で、この営みを実現することができるのだ、ちょうど、人生の不条理に気がついたことで、かれらが自信をもって人生に跳びこみ、あらゆる面で常識を超えた振舞いをすることができたように。】p166


・わけのわからないスピリチュアル(本当意味での「スピリット」とはまったく別の! くだらない自己啓発本のような)本というか、そういう言葉に浸っている人にはまったく届かない言葉なのだろうな、とおもう。「本質的には無用」だなんて、いわれたらスピリチュアルだかなんだか知らないけど、そういう言葉に支えられている人は「え?」となるだろうし、そんな言葉受け入れないだろうし。どうでもいいけど。

・この自覚。そこから。その先。そこから始まる。そこから始めねば。

2014.4.17 657 『しかも可能なかぎり多くを生きるということ』

04 18, 2014 | 日記2014

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・過去の付箋。カミュ「シーシュポスの神話」。

【実は、経験の量はまったくぼくらしだいのことなのである。だからここではことを単純に考えなければいけない。同じ年数を生きたふたりの人間に対して、世界はつねに同じ量の経験を提供する。それを意識化するのは受け取る側の問題だ。自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能なかぎり多量に感じとる、これが生きるということ、しかも可能なかぎり多くを生きるということだ。】p.90

【芸術作品はそれ自体不条理な現象であり、重要なのは芸術作品における記述、ただそれだけだ。芸術作品は精神の病に、ただのひとつも出口を提供しない。それどころか反対に、それは精神の病の徴候、——ひとりの人間の思考全体のなかに、その精神の病を反響させてゆくような一徴候なのである。しかし、芸術作品によって精神ははじめて自己の外にでて、他者と向いあう。】p.136.137

・いつのまにか、これを書いたカミュの年を越していた。ああ。

2014.4.16 656 『庭の桜もちらほら』

04 17, 2014 | 日記2014

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・ここ数日の陽気。のおかげで庭の桜もちらほら咲き始めている。——と書いて「ちらほら」を調べると「まばらな様子、低密度に散在・点在するさまなどを表す表現。」ということらしい。英語でいえばsparselyというところだろうか。「ちらほら」という語感。意味と音がそのまま結びついているような感じ。日本語って楽しい、とおもう。

・earthyなもの。土を感じられるようなもの。土の側からやってくるような表現。

・【ただ労働がーーあるばかりである】と宮沢賢治がいうときの「労働」。ただただ生産することを繰り返す機械仕掛けのような。そこで産まれた「製品」も、結局自分と直接関わりのない誰かのためのもの。欠けているものは? 何か?

2014.4.15 655 『あの灰色の労働を燃せ』

04 16, 2014 | 日記2014

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・今日の言葉。

【曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きていた
 そこには芸術も宗教もあった
 いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
 宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い
 芸術はいまわれらを離れ然もわびしく墜落した
 いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
 われらに購ふべく力もなく 又さるものを必要とせぬ
 いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美を創らねばならぬ
 芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
 ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
 都人よ 来ってわれらに交われ 世界よ 他意なきわれらを容れよ】 

 宮沢賢治「農業芸術論概要」

2014.4.14 654 『「Re:teach」「Re:learn」』

04 14, 2014 | 日記2014

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・「ケイザイセイチョウってなに〜? いいもの? わるもの〜!?」
 と小さなこどもがいった。

・街頭インタビューなんかで、「今、あなたが求めるのは?」という問いに対して「経済成長」「経済回復」を声だかに求める人たちばかりがメディアに取り上げられて、それをみる誰かは「ああ、そうなんだ。そういう状況になることを全員が求めているんだ、じゃあ、私もそういうことにしておこう」という、このやりかた。と同時に簡単に取り込まれる側。どうでもいいけど。

・大江健三郎のインタビューをまた聞いてみる。「学びほぐす」という言葉。教えられたこと、学んだことを、「Re:teach」「Re:learn」すること。知識として刷り込まれたものが、本当に正しいものだったのか、知識として得たものを、もう一度解体して、つくり直す、築き直す作業が今こそ必要ということ。それが「学びほぐす」こと。らしい。

・それから、誰かの言葉を自分なりの言葉で言い換える、こと。「情報としての言葉」でなく、自分の身体を通した生きた言葉に置き換える努力、をすること。でてくる言葉がどんなに稚拙でも、とにかく自分の身体というフィルターを通す。そういう言葉には、きっと何かがある。そんなこと大江健三郎はいっていたか? ま、いい。これはぼくのフィルターだ。

2014.4.13 653 『必要なぶんだけ、持つ。決してそれだけを追いかけはしない。』

04 13, 2014 | 日記2014

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・自然と人間に渡る橋。かつて神話的思考のもとにかかっていたその橋は、人間側が一方的に踏み込むようなものではなく、相互に行き交うことのできる橋だった。それが搾取的なものに変わってしまっている時代。「自然」はいまや(例えば動物は人間であり、人間は動物であるというものではなく)ただの「資源」になってしまった。その橋を壊したものは? 一体何? 

・「金」というもの。それが君臨する場所から。降りる。という人がたくさんでてくるのだろうな。依然として多数がその原理のなかでくるくる回るとしても。その輪からこぼれ落ちるように、抜ける。必要なぶんだけ、持つ。決してそれだけを追いかけはしない。

・勉強したい。したくてたまらない。それは知識を得るために、学問としてということではなく、もっと、身体に刻むような勉強をしたい。学校では教えてくれないだろう。だから、人につく。

2014.4.12 652 『何もなくとも  満ちる』

04 13, 2014 | 日記2014

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・黄色の花の咲く道をきょろきょろ鳥みたいに歩く。昨日の黄色い花、一番多いのはサンシュユという花だった。それからマンサクやレンギョウ。先輩に「あれはマンサクでないよ、サンシュユだべ」といわれた。

・何もなくとも
 満ちる
 場所
 心 
 もっともっとをいわず
 これ以上を求めず
 足るを知る
 こと

2014.4.11 651 『今、一番目に入るのはマンサクの小さな黄色い花』

04 11, 2014 | 日記2014

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・ほとんど新品の学生かばんを背負う中学生。まだ身体に馴染まない制服を着ているから、歩き方のリズムもふわふわして、一定でない感じ。それを楽しむように歩いている。かばんと身体の大きさの比率の違和感がみていておもしろい。

 桜のつぼみはだいぶ大きくなってきた。今日は風が強く、四月にしては寒い。とか、書きながら、去年の四月がどんな天候だったかを忘れている。「四月にしては寒い」なんてのはありきたりの定型の言葉で、だから怪しい。

 草もだんだん存在感をあらわしてきている。草取り作業。草に手鎌を入れたときの土の香り。背中の痛み。草取りも楽ではない。家に帰る道中で、マンサクの黄色い小さな花が弾けるように咲いている。今、一番目に入るのはマンサクの小さな黄色い花。


・ディランのライブを経て、ますます「客」という存在に媚びる音がつまらなくおもう。かれは一曲一曲「ありがとう」だなんていわない。「見せつける」というのとも違って、風のようにうたう。

 「客」という存在を歓ばせるために音楽をやるのがアーティストだとおもっている人たちの音は、目の前にいる人たちを楽しませるかもしれないけど、そこにいる人たちに本当に届く音はそんな媚びた音ではないんじゃないか、という思いがますます強くなる。

 そこにいる人たち(客)に向けて出される音(客を楽しませるための音。払ってもらった「金」の対価として。)は、客の「表面的」な楽しみを提供することには成功して、結果、たくさんの人に「いいね」などと(フェイスブックの「いいね」の軽さ的に)いわれて、たくさんの人を集めるかもしれないけど、本当に人を鼓舞する音は、「媚びる音」ではなくて、本当はみんな、もっと自分の根っこを揺らすような音を求めているのではないか、とおもう。


・今日も書けない。さて。もう眠ろ。

2014.4.10 650 『「農」の「行」』

04 10, 2014 | 日記2014

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・中沢新一「カイエソバージュ」も三巻目(「カイエソバージュ3 愛と経済のロゴス)。第五章「最後のコルヌコピア」から、ますます引き込まれる。フィジオクラシー(重農主義)。

・「農業」というのはこれから先の、ぼく個人としてのテーマになるだろうし、大きくいえば、体制へのクリティカルな「母のゲンコツ」的なものになるのだろう、とおもう。こういう時の「農業」、それは規模の大きな「工場」的なものではなく、自然との在り方を見直しながら、自然から「受けとる歓び」を感じられるような規模の、いったら自給自足的規模のもの。

・そんなことをここ数年ずっと考えていて、このタイミングで中沢新一の「カイエソバージュ」に出会ったものだから、驚いた。

・「農業」と一気に変換せずに、「農」と打って変換した後、「業」をつけたして打とうとしたら、変換されて、うまれた言葉は「農行」だった。「農」の「行」。雰囲気のある言葉だとおもう。自然から贈与として作物を受けとる。大地への愛のある行為(贈り返し)をするための「行」。「ぎょう」。修行の行。なるほど。

・人間側が一方的に「自然」から搾取するような在り方に、「違うよな」とおもいはじめている若い人たちがたくさんいることを、最近強く感じる。

2014.4.9 その2 649 『ギフト(贈り物)』

04 09, 2014 | 日記2014

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・たまに「新しいことをやりたい」とか、「誰もやっていないことを表現したい」とかいう人がいるけれど、そういうことを言葉にする人のほとんどがつまらない。結局、隙間を埋めているだけで、根っこに向かわない。

 本当にそういうことを体現できる人たちは、きっとそんなこと口にしない。先人たちの表現を受けて受けて受けまくって(読んだり、聴いたりして)「もう自分にできる新しいことなんかないんじゃないの?」と思い知らされながらも、やりつづけて、結果的に、自分の身体を通して出てきたものが、事後的に「その人だけのもの」といわれるようになった。という場所。

 自分に先立つ先人たちからのギフト(贈り物)を、噛み締めて、その偉大さによろよろよろけながらも、それでもやる、ということ。


・高橋源一郎が「ラジオ版 学問ノススメ」の中で、私は先人にギフトを貰って、こうして書いている、だから、これからは、後から来る世代に、少しでもギフトを送れるようなことをしたい、といっていて(書き起したわけではないから、正確ではない、うろ覚え書きだけど)、六十を越えたおっさんたちのもつ、そういう覚悟がおもしろい。

 自分を残したい、名を残したい、とか、くだらない場所にいない。

 彼がいう「ギフト」は、先人から頂戴した贈り物、生きることにとって重要な何か、とか書くと実用書や、自己啓発的な感じに捉えられてしまうかもしれないけれど、全然そんなレベルのものではなく、もっと核になるものなのだけれど、今のぼくが書くと、彼の言葉を矮小化してしまう。難しい。

2014.4.9 648 『「美しい」は時代のニーズなどには左右されない』

04 09, 2014 | 日記2014

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・ディラン体験をすぐ言葉にしようとしても無駄。すぐに出てくる言葉はほとんど嘘といっていいくらい、言葉にした瞬間に、実際に感じたものと遠ざかる。だから、少しずつ言葉にしていこう。「ああ、そうか、そういうことを感じていたんだな、ぼくは」という時がくればそれでいい、こなければ、それでも別にいい。言葉にしなくとも、あの場所で、ディランを体験したのだし、その「何か」は言葉として現れなくとも、身体には刻まれているのだし。

・twitterに『まったく「綺麗」ではない。それでも「美しい」というもの。ディランのライブでそれを言葉でなく感覚として受けとる。』と投稿したら、ショウ441さんから『綺麗と美しいは同義じゃないものね』とコメントをもらったので『岡本太郎が、「綺麗」は相対的価値であって、「美しい」はもっと原初的な、絶対感なんだ、といっていて、ぼくもそう感じます。「綺麗」は時代の流れでころころ変わる価値観だけど、「美しい」は時代のニーズなどには左右されない。』と返した。

 上に書いた「綺麗」と「美しい」の、言葉の意味(岡本太郎がいうところの意味)としては、岡本太郎の本を読んだ時にすぐ「そうだよなあ」と同意していたのだけど、言葉の意味の上っ面だけじゃなしに、体験としてそれを受けとったのは、ディランのライブが初めてだったのかもしれない。

 岡本太郎は、「美人」という言葉の使い方は間違いで、あれは「綺麗人」というべきなんだ、というようなことをいっていて、それは「綺麗」という言葉の価値が、対象が、その時代によって変化するからで、しわくちゃのおばあさんが「美しい」ことだってある、と。

 とすれば。原初的で、絶対感をもつ「美しい」とは何をいうのか? という、その問いは、ぼく自身に向けられていて、それは考えていかなければならない。「美しい」は時代のニーズに左右されない。というのは感覚的に書いたけれど、多分ぼくが考える「美しい」に近い、とおもう。

 ディランは、ぼくが、それを前にして言葉を失う、自然の光景。そういう側にいったんじゃないか、という予感。「表現」とか「個性」とか、そんなところには、もはや、いないんじゃないか、という予感。予感というか、上の問いに対するアプローチのひとつとしての。

 「時代のニーズに左右されない」というか、もともとそんなもの知らない、というレベル。風が時代のニーズなど関係なく吹き、太陽が時代のニーズなど関係なく照る、ように。

2014.4.8 647 『夜の舞踏  朝の来るまで』

04 09, 2014 | 日記2014

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・踊る女
 湿った土
 三日月の灯り
 風の甘い香り
 足と土の交わる音
 夜の舞踏
 朝の来るまで

・小学生二年生のころ
 先生にびんたをされて
 あの頃から
 大人が嫌いだった
 なんてことは全然ない
 そういったら記憶のねつ造だ(きみはなにをいっているのだい?)

2014.4.7 646 『大地に足を』

04 08, 2014 | 日記2014

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・踊るように。言葉を紡ぐ。

・踊るように。歌う。

・大地に足を。天上に目を向けても。土から離れることなく。

2014.4.6 645 『それが詩なのです』

04 08, 2014 | 日記2014

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・今日のことば。中沢新一「カイエソバージュ2 熊から王へ」より。

【「対称性」という概念とも深い関係を持っている十八世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーは、晩年に書いた『言語起源論』の中で、いちばん最初の人間たちは、私たちがいま日常的に使っている言語ではなく、詩と音楽によってたがいに語りあっていた、と書いています。この考えは、いかにもルソーらしいロマンチックな印象も受けますが、現代の認知考古学の立場からみても、まったく正しい認識だと、膝を叩きたくなります。】p78

【言葉の「比喩」の能力は、日常言語ではあまり前面に出てこないようになっています。日常言語では、はっきりした有用な意味を語ることのほうが大切ですので、話を面白くするとき以外には、あまり「比喩」の機能は、表にあらわれないようになっているのです。ところが、この「比喩」機能を前面に引き出して、むしろ隠喩や換喩の働きだけで、まとまりのある意味を生み出そうとする言語活動があります。それが詩なのです。】p79

【詩は「比喩」の力を存分に利用して、ものごとの異なる領域を自由に結びあわせ、それによってあらゆるものごとが原初の全体性を保ったまま、相互に歌い交わしているような状態を、ことばによって生み出そうとしています。】p79

2014.4.5 644 『もっとも重要な「価値」は歌と踊りとともに出現するものであってほしいという』

04 05, 2014 | 日記2014

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・今日の言葉。中沢新一「カイエソバージュ2 熊から王へ」より。

・(インディアンの)首長は弁舌にたくみで誰よりも上手に踊ることができなければなりません。首長の政治権力の基盤とは、じつにこのよく語り、よく歌い、よく踊ることのうちにある、といっても過言ではありません。p143

・(インディアンの首長は)見事な声で神に向かって歌いかけ、からだを揺すって踊るのです。そしてこの歌と踊りによってみんなに深い感銘を与えたあと、おもむろに語り出します。部族の人たちにとっての正しい生き方と考えられた諸価値が、音楽や舞踏といっしょに表現される。まったくこれほとに「文化的」な行為があるでしょうか。p144

・現代の若者たちの文化にもっとも影響力をもっているのが、ミュージシャンであるということも、こう考えるとなかなか意味深いものがあります。そこには、一つの社会にとってもっとも重要な「価値」は歌と踊りとともに出現するものであってほしいという、きわめて古い人類の願望があらわされているのではないでしょうか。p145

2014.4.4 643 『鳥の歌から  雨が生まれた』

04 04, 2014 | 日記2014

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・今日も雨が降る。強く降る。通勤の途中で仕事が休みになってしまったものですから、公園の駐車場で本を読む。中沢新一「カイエ・ソバージュ2 熊から王へ」。宮沢賢治の射程の広さ、深さを改めて思う。彼の、動物と決別していこうする人間社会の在り方への怒りと、自然に対する愛。人間と動物の対称的な在り方への神話的思考。読了。

・書き写す。という方法をとる。パソコンとは別に。ノートにペンで。より刻むために。

・付箋を貼る、という方法は、なんというか水性ペンで身体に書くようなもので、気がつくと薄れている。なんとなく、書いたこと(内容というより書いたという行為)は覚えているのだけれど。ペンの強度を増す。文字通り「刻む」でもいい。自分とって本当に重要な言葉は。

——————

・一羽の鳥が
 枯れた世界を飛び撫でる
 鳥の歌から
 雨が生まれた

2014.4.3 642 『満開の桜から、つぼみの場所へ』

04 04, 2014 | 日記2014

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・東京より帰宅。満開の桜から、つぼみの場所へ。今年は二度花見できるようだ。

・岡本太郎もいっているように、「綺麗」と「美しい」はイコールではない(相対的な価値を示す「綺麗」という言葉に対して、「美」という言葉のもつ絶対感)。現在のディランのような決して「綺麗」と呼べない声で歌われるうたに、どうして「美」を感じるのか。それを考えた時に岡本太郎の上のような言葉を思い出した。

・「綺麗」でとどまっていてはいけない。だからといって、単純に「じゃ、ダミ声になればいい」ということでは、もちろんなく、うえに書いたようなことを(答えがでなくとも)考えていくことで、何かを感じ取れるようになれれば、と思う。

2014.4.2 641 『論理よりも生理によって』

04 03, 2014 | 日記2014

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・今日の言葉。

【書くことと考えることの出発や継続が、結局論理よりも生理によってなされていくことが小説ということだ。】

【書き手自身にとっていまだ展望が得られていない(保証されていない)ことへ向かって、一歩一歩強く進む態度、これが散文のドライブであり、そこにはもう書き手を助けてくれる根拠は何もないが、そうでなければ文学も哲学も本質的なことは何もわからない】保坂和志

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松沢春伸の日記

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