2013.12.30 551 『昨夜はVorz Barにて今年のライブ納め』

12 31, 2013 | 日記2013

0

・昨夜はVorz Barにて今年のライブ納め。青谷明日香さん、カツシさんと。

・十代からの友達の友達が岩手から来てくれて、話をする。しばらく会っていないその友達もどうやら元気でやっているようで。

・ドラムのカツシさんとは初めて演奏するけど、別にリハも遊ぶ程度で終わらせて本番に入ったが、やはりその方がおもしろい。演奏者自身が、どう進んでいくのかわからない状態から逃げないで、その場その場で切り開いて進んでいく、その感じ。これが聴いてる人に伝わるどうか、はそれほど問題ではなく(感じる人は感じてくれているだろう)、演奏する側がそういう状態をおもしろいと思えるか、それを体現できるか、そっち。

・やはりぼくはどう転ぶかわからんものがおもしろい。例えば今後いろいろな人と演奏することになるかもしれないが、最初から最後まできっちり決まってないとやりたくない、という人とは一緒にやれないだろう。とおもう。ま、そういう人は初めからぼくに興味をもたないだろうけど。

・打ち上げ後、ボーズバーで仮眠して、八時の電車に乗り山形に戻る。今回は乗り過ごしもしない。セリ屋から連絡が入って、どうも順調にすすんでいないらしく手伝いにいった。

2013.12.29 550 『やってることの価値を注目度とか知名度みたいな数で測らずに』

12 30, 2013 | 日記2013

0

・仙台に向かう電車の中でディランの東京公演のチケットを購入。

・今日の付箋。パラパラとめくって。

【やってることの価値を注目度とか知名度みたいな数で測らずに、質で測れるような活動がどれだけ続けられるかっていうようなことかな。】 保坂和志『考える練習』 p48

12/29(日)VORZ BAR 忘年会SPECIAL LIVE

12 29, 2013 | Liveのお知らせ

0

12/29(日)VORZ BAR 忘年会SPECIAL LIVE
青谷 明日香 / 松沢 春伸 with KATUSI
open:19:00  start20:00  admission:2,500yen 

Vorz Bar

ありゃ。
今年最後のライブの告知を忘れてしまっていた。
何ということでしょう。
本日。

2013.12.28 549 『人間たちの思いなど届くはずもなく、吹雪く』

12 29, 2013 | 日記2013

0

・雪が降り。時に小休止。「この程度で済んでくれれば」などという人間たちの思いなど届くはずもなく、吹雪く。気持ちが萎えてしまうような時間帯に、ふいに現れる太陽。その瞬間世界が変わる。

・いいとか。悪いとか。すぐに評価をする言葉が見つからないもの。見た人が「今わたしの中で起こっているもの、これはどういう感情で、どう言葉にすればいいのだろう?」と迷うような表現。

・感動した。という言葉は、その感じに近いのかもしれないと思う。「どんな言葉にすればいいのか、よくわからないけど、わたしの中の何かが揺さぶられた、これを誰かに今伝えるとしたら、『感動した』という言葉になるのかな」みたいな。

・けれど、これも怪しいもんで、筋書き通りの視聴者を泣かせるためにつくられた映画をみたり、本を読んで人がいうときの「感動した」は、何か違う、から、難しい。映画のCMでやたら「感動しました」と声を張り上げている人がたくさんでてくる映画は、観ないでおこう、と思ってしまう。

・そうか。書いていて思ったけど、最初のほうは、言葉が見つからず「感動というほかない」状態なのだから、感動させるテンプレートにいいように乗せられて「感動した!」と声を張り上げたりできない状態なのだ、きっと。静かに「自分の中に起こっている何か」と向き合う。それらは静かに静かに身体に刻まれる。「感動した。泣いた。ああ、すっきりした」というのと全然違って。

2013.12.27 548 『ジャンルなど軽々と越えて飛び火する』

12 27, 2013 | 日記2013

0

・久しぶりに、夜に音楽を聴きながら。久しぶりというより、何日かぶり、それだけの日数のはずだけれど、ここ数日のバタバタさがそう感じさせるのか。今日はトム・ウェイツ。

・日曜日のタージのライブで、そういえば、大学生とジャコメッティの話をしたなあ、と思い出した。美術を専攻している学生と話をした(ひとりは彫刻を専攻していてジャコメッティの本を読んでいたから)。彼らがどういうものに影響を受けて、あるいは影響を受けずに創作したり、学んだりするのだろうか? に興味がある。のではなく、実は別に興味がない。

 何かを共有できることは、嬉しいことだけれど、、、嬉しいけれど、同時に、どうでもいい。は? 何をいっているのだろう? 

 語りあうことは刺激を生むけど、その受けた刺激は創作に向かうべき刺激であって、語るためのものではない。語り合ったあとは、それぞれが、それぞれの向き合うべき時間と向き合う、というそのための「語る」時間。「語る」ために「語る」のではない。それはそういうのが好きな野郎どもに任せておけばいい。

 だから、ぼくは彼らと何かを共有できることに興味があるというより、彼らはぼくに何を見せてくれるのだろうか? ということを思う。語る、ことでなしに。


・本当に凄い力をもっている「何か」はジャンルなど軽々と越えて飛び火する。音楽に影響されて、小説を書いたり、小説に影響されて、哲学したり、哲学に影響されて、舞い踊り、描き、そしてまた、、、。書く、描く、歌う、舞う、思考、、、、、、。

・ストレッチをしている。筋肉痛。強張っている筋肉をほぐさないと。 

・鳥の鳴き声がしたので、見上げるとヒヨドリだった。そして十羽ほどの白鳥がV字を崩しながら飛んでいくのをみた。まだセキレイはやってこない。

2013.12.26 547 『あんまりダシでねがら、今日はぶだにぐもへっだんだ』

12 26, 2013 | 日記2013

0

・セキレイの鳴き声。セキレイは飛び、鳴く。はっとして声の方に目をやったけれど、姿をみることはできなかった。

・夕方。残業前に炊き込みご飯のおにぎりとワラビ汁がでて、特にワラビ汁があまりにうまくて、ニシンの切り身が入っていたので「ワラビ汁って、ニシンでダシとんの?」ときいたら「んだ、ワラビ汁んどきはニシンでダシとるんだげっと、それだげだど、あんまりダシでねがら、今日はぶだにぐもへっだんだ(今日は豚肉もいれてみた)。」といわれて、なるほどと思った。今年食べた汁物で一位だろうか。

・レインボーストーブが今日も暖かさと、明るさをくれる。その上に乗せられたやかんが音をたてる。湯気。

・眠い。頭が揺れる。

・と書いていて、、、その後、何分か寝ていたらしい。今こうしてまた書こうとしているけれど、難しそう、やめよう。眠ろう。

2013.12.25 546 『晴れ。セリの緑に注ぐ光。水に揺れる光』

12 26, 2013 | 日記2013

0

・予想通りの筋肉痛。腱鞘炎。筋肉痛はいいとして。腱鞘炎のケアをしなければ。

・晴れ。セリの緑に注ぐ光。水に揺れる光。どちらも美しい。

・今年はまだ鳥の姿をみない。セキレイはまだやってこない。人が隣にいてもぴょんぴょんはねながら餌をついばむ姿をまたみたいのだけれど。

2013.12.24 545 『そして、景気がよくなることを「世界がいい方向に向かっている」と考える人たちのことも全然わからない』

12 24, 2013 | 日記2013

0

・今年もセリ屋の手伝いが始まる。雪は降っているものの、それほど寒さは感じない。田んぼの水に浸かっているほうが温かい。それに、収穫の作業はだいぶエネルギーを消費するから、あつい。

・腱鞘炎を心配していたけど、初日からその傾向。悪化させないこと。

・はっきりとみえた。遠くの山の稜線。雪が積もって白くなった稜線。雪が途切れ、太陽がセリ田の水面を照らした時間に。

・明日はきっと筋肉痛だろう。

・何十万もする時計の売れ行きがよくなったから、景気が良くなったとか、何故にみんなはそんなことに反応しているのだろうか? これは、ぼくがあまりに馬鹿で、あまりに鈍感だから、わからない、ということなのだろうか、本当にわからないのだけど。

 そして、景気がよくなることを「世界がいい方向に向かっている」と考える人たちのことも全然わからない。というか、商売をしながら、自分の商売のやり方や、その内容を考えずに「景気? 良くなってないですね〜。現場では全然感じないですね〜」とかいって、景気のせいにしてる人たちのことのほうが全然わからない。どっちもどっち、というか、あとの人間の方がたちが悪い。とすら思う。

 そんなことに左右されずきちんとやっている人はやっている。そして、そういう人の所には(金の動きの上下はあるにしても)人は集まる。多い、少ないではなく、ちゃんとその人がやろうとしていることを理解しようとしてくれる人が集まる。多い、少ないの問題ではない。表現にしたって同じこと。

2013.12.23 544 『多数派のままではいられないということを痛感すること』

12 23, 2013 | 日記2013

0

・昨夜はタージの忘年会ライブ。いい夜だった。反省はしない。打者が打席に入るのときに集中を高めていくのと同じように、入りかた、準備をもうすこし考えよう。

・今日の引用。

【生きるということは本当のところ、多数派のままではいられないということを痛感することで、要領のいい人たちから「ぐず」と言われるような遅さで考えつづけることでしか自分としての何かは実現させられない。拠り所となるのは、明るさや速さや確かさではなくて、戸惑い途方にくれている状態から逃げないことなのだ。】 保坂和志『人生を感じる瞬間』 p273 あとがきより。

20133.12.22 543 『私はあの油虫のようなものだ』

12 23, 2013 | 日記2013

0

・今日の引用。

【「苦役の始まり、終わりのない苦役、死刑囚の苦役。」歌うような調子でこう言いながら、むしろいそいそと彼は椅子を定位置におきタブローを画架に据える。】 p87

【私は一匹の油虫が壁をはうのを長いあいだ見ていたことがある。虫にとっては壁は巨大な空間だ、その壁の上を虫は盲滅法に歩いて行く。ところが道がないから歩みはあちこちにそれ、そのうちにまた元のところに戻ってしまったりするのだ、私はあの油虫のようなものだ。】 p100 矢内原伊作『ジャコメッティ』より。

2013.12.21 542 『またひとり。ぼくの中に棲みはじめる。今回の住人は、やたら濃い。濃すぎる』

12 21, 2013 | 日記2013

0

・今日も矢内原伊作「ジャコメッティ」を読む。

・またひとり。ぼくの中に棲みはじめる。今回の住人は、やたら濃い。濃すぎる。ぼくは、ぼくの中に新しく棲みはじめたこの住人を、制御することはできそうにない。むしろ彼に突き動かされるだろう予感。

・「エクリ」もそうだったけど、今回も、読んでいて、それがたまたま最近自分が考えていたことと呼応していて驚く。例えば、日記に書いたようなことを、数日後、本の中に(別の誰かの言葉で)発見するような感じだ。別にどうでもいいが。出会う時には出会うものだ。きっと。

・今日の付箋。

【「今日のほとんどの画家は、主観をすてて自然を忠実に模写するかわりに、ひたすら主観を表現しようとする。絶えずこれまでになかった新しいものを求め、他人に似ることを恐れて個性的であろうとする。結果はどうか。今日の展覧会で見たように、現代の絵画は千差万別のようでいて不思議にどれもこれも同じように見える。個性的であろうとしてかえって非個性的になっている。新しいものを求めながら古いものを繰り返している。殊にアブストレの絵がそうだ。アブストレの若い画家たちの多くは自然を模写すれば通俗的になると思い、通俗的になるまいとして主観的個性的な絵を描こうとする。ところが実は、それによってかえって通俗的になっているのだ。事情は全く逆だ。セザンヌは個性的であろうなどとは少しもしなかった。彼は主観を捨てて自然を忠実に模写しようとしたのだ。しかも結果においてセザンヌの絵ほど個性的なものはない。」】 矢内原伊作 『ジャコメッティ』p.81,82より。 ジャコメッティと矢内原の会話からジャコメッティの言葉を。

2013.12.20 541 『こういう本をちゃんと印刷しつづけるというのは、本に携わる人の義務じゃないのか?』

12 20, 2013 | 日記2013

0

・曲をつくろう。と。カフェに向かう。雪の粒が大きい。粒といえないほどに大きい。

・ノートを開く前に、本を開いたら、それがあまりにおもしろくて(初読で)、結局、ずっと本を読んでいた。矢内原伊作「ジャコメッティ」(これまで読んでいたのは、ジャコメッティの「エクリ」)。おもしろい。おもしろい? どういえばいいのかわからないけど、凄い、とか、おもしろいとしかいえない。ジャコメッティの人物像が、書かれている文章からあまりに伝わってくるので、おもわず笑ってしまった。

・笑うというのは、楽しいから、だけではもちろんなくて、凄すぎて笑ってしまうとか、そんなところ。あまりに凄いと、あまりに振り切れていると、笑いの(悪い言い方をすれば、笑われる)対象になってしまう。凄いな~、おもしろいな~、大変だな~、泣きそう、と思いながら、、、。いろいろ感じながら、結局、笑う。

・この本はもう絶版で、Amazonから中古で買ったけど、こういう本をちゃんと印刷しつづけるというのは、本に携わる人の義務じゃないのか? 

・「あまりに凄いと、あまりに振り切れていると、笑いの(悪い言い方をすれば、笑われる)対象になってしまう」と上に書いた。例えば、岡本太郎の受けとられかたを考えると、どうしてもそう思う。彼ほど、人によって、受ける印象が違う人はいないんじゃないだろうか? 「イカれたおっさん(岡本太郎という名前を出した時に「あの、爆発のイカれたおっさんやろ!?」と関西の女性にいわれたことを思い出す)」と「不世出の芸術家」。この両極端!? ものすごい分かれ方をする。ぼくはその両方を感じながら、笑い泣く。泣き笑う。

・今日の日記はなんだか、だいぶ時間がかかった。

・そういえば。最近はジョアンナ・ニューサムばかり聴いている。

2013.12.19 540 『囚われ続ける。という自由』

12 19, 2013 | 日記2013

0

・考えたくなくとも、どうしても考えてしまう。歌おうとしなくとも、どうしても歌ってしまう。何かに引きつけられるように。組み込まれたプログラムか? というほどに。それを降りることだってきっとできるはずだ。歌わない。考えない。けれど、どうしたって、そこを離れることができない。これは自由か? ひとつの自由だろう。「囚われ続ける。という自由」。

・どうやら。ぼくはそこから抜け出すことは出来なさそうだ。なので、だから、ぼくは、ずっと歌っていくと思う。いや、いつかわからないが、その場所から、転げ落ちることもあるのだろうか? ???。

・世界を感じたいと思う時に。それが、耳に依るのか? 目か? 口か? 

・最近日記に景色のことを書いていないな。と、しばらく思っていた。けど、それは、外を感じていないわけではない。「言葉」のことばかりを考えているから、どうしても、景色さえも、そのまま受け入れて歓ぶのではなく、言葉に変換しようとしてしまう(できっこない)。それでも、きっと、また、田んぼに映る太陽の光を見るような仕事を始めれば、流れは変わるだろう。(別に今の流れが悪い、というわけではない。これはこれで必要な時間なんだ、きっと。むしろ、この流れのほうこそ重要なんじゃない?)

2013.12.18 539 『私は何一つ求めない。死にものぐるいで仕事を続けることのほかは』

12 18, 2013 | 日記2013

0

・マディ・ウォーターズ「Soul Singer」。を聴きながら。書く。

・カフェにて。ジャコメッティ「エクリ」を読了。複数同時に読んでいるので、時間がかかった。今日は最後の対談の章を読んだ。付箋だらけになった。ぼくにとって勇気の書だ。迷い、何処に足をすすめていいものか、わからなくなってしまった時、ぼくはこの本を開くと思う。今後、何度も。何度でも。そして、その度にぼくは思い知るのだと思う。重要なのは「何処に?」足を進めるか、ではない、ことを。

・今日の付箋。

【確かに私はこの冒険を生きている。してみれば、成果があろうとなかろうと、それが何だというのだ? 展覧会に出品したものが成功していようと失敗していようと、私にとってはどうでもいいことだ。いずれにしてもそれらは私にとっては失敗なのだから、他の人々が眺めてさえくれないのが当たり前だと私は思う。私は何一つ求めない。死にものぐるいで仕事を続けることのほかは。】 ジャコメッティ『エクリ』p.402より。

・本当はこの前に置かれてある文章をふまえて、上に引用した文章を読むから、うわ〜、と感じる。長くなりすぎるので、この部分だけを。

・勝手な意見だが。最後の「仕事」という言葉は、「創作」のほうがしっくりくるように思う。どうしても日本語で「仕事」と書くと、金のことになるけど、この場合のジャコメッティの行為は、対価として金を得ること、の外にあるのだから。

2013.12.17 538 『もう一度。振り切れ。振り切れ。振り切れ』

12 17, 2013 | 日記2013

0

・雪の音でもなく。雨の音でもなく。屋根につもった雪を太陽がとかして、地面に落ちる音。

・何かに接して、「グッとくる」というとき、の、それを感じる過程(これがこうでこう、みたいに)をたぶんいくら言葉で構築しようとしても無理で、大体「グッとくる」って、いう言葉自体のふわっとした感じ。これおもしろい。これだけたくさんの言葉が存在するにも関わらず、あの感じを「グッとくる」という言葉が一番あらわしていることの、凄さ。おもしろい。

・こじんまりとまとめる(「まとまる」じゃなくて、「まとめて」しまう!)。褒められるようなほうにかたむく。どうしても、そういう方向に傾いてしまう自分の中の何かを、振り切る。あるいは蹴っ飛ばす。

・いつかも書いた。もう一度。振り切れ。振り切れ。振り切れ。

・もう一度、ピナ・バウシュ観よう。

2013.12.16 537 『自分の「たが」を外す。そこに至るための』

12 17, 2013 | 日記2013

0

・まだまだ。まだまだ。もっと。もっと。すすむ。

・なんの表現にしても、何かを切り開けたと感じるのは、ほんの一瞬で、その感覚はすぐどこかにいってしまう。その一瞬は作品に痕跡を残さないかもしれないが、実感として自分の身体に刻まれる。その一瞬を感じ取りたくてまた挑む。その繰り返しだ。

・自分の「たが」を外す。そこに至るための、自分との喧嘩。あるいは周囲との遮断。ただ自分の身体との対話を楽しむ。集中。

2013.12.15 536 『めんどくさいことを、ちゃんと、めんどくさいとぼやきながら』

12 15, 2013 | 日記2013

0

・朝。カーテンを開けなくとも雪が積もっているだろうことがわかる。それだけ明るい。カーテンを開けると、雪はまだ降り続けていて、景色も昨日とは一変していたけど、晴れていて朝の光があった。雪に反射する光。雪国に生まれなければ感じることができないものはあるか? と問われたら、真っ先にこの光をあげるだろう。語れないものがそこにある。ただただ感動する。

・もっともっと、創作と練習に時間を割く。べき。

・宮崎駿が「めんどくさい、ああ、めんどくさい」といいながら映画をつくる姿勢。向き合うことはめんどくさい。めんどくさいことを、ちゃんと、めんどくさいとぼやきながら。やる。

・遊びの感覚。こどもが遊ぶようにやること(囚われることなく。振り払って)。の重要性。とは別に。前に進もうとする時は、そこ(遊ぶ感覚)とは別の場所にいかなければならないというような感じもする。要するにめんどくさいことをやる。ちゃんと向き合う。ということ。

2013.12.14 535 『長軸マッチに火をつける』

12 14, 2013 | 日記2013

0

・長軸マッチに火をつける。掃除、芯を交換したレインボーストーブに火をいれる。マッチの火が消えないうちに、ランタンに火を入れる。その灯りの中で書く。

・神戸で暮らしている幼なじみが、訪ねてきてくれた。お土産のなんとか饅頭を持って。一月以来。お互い、最近の状況を確認したり。娘さんは二歳になったらしい。

・昨日書いたことはいずれまた、書こう。いずれというか、そういうことは常に頭に流れていることだけど、いざ言葉にしようとすると、全く形にならない。

・ぼくは整理整頓とか、予定を立てる、ということがまずできない人間で、計画性なんて、もちろんない。けど。音楽に向きあう時間は、曲を生むために使う時間と、生んだ曲を身体に馴染ませることに使う時間(練習といえばいいのか)をわけたほうがいい、ということを一昨日くらいに気づいた。

 気づくの遅っそ。遅い。ぼくは、時間を管理して、ここはこうして、次はこうして、ということが本当にできないから、ギターを触ったら、練習も、作曲も、区別なく起こってしまう。それは、それでいいかもしれないけど、創作の時間と、練習(とはいえ、すこしは創作も含む。何故かといえば、その場でうまれてくるものがあるから)の時間は分けた方がいいだろう、という実感。おそっ。この計画性の無さ。これは、性格というか、完全に欠落している。欠陥といっていい。

2013.12.13 534 『ダメだ。今日は。書けない。寝る』

12 13, 2013 | 日記2013

0

・小説を書くということは、音楽でいう、作品をつくることか? それともライブか? ということをずっと考えていて、ぼくはずっと「そりゃ、ライブだよ」と思ってきた。と、書く、この時点であまり賛同を得られないかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 少なくとも、ぼくが敬意を抱いている小説家たちにとって、書くことは、ぼくの考える「ライブ」に近い、と思う。そうじゃないタイプの書き手にとって、書くことは「ライブ」ではなく、音源作りに近いのかもしれない。(ああ、これは伝わらないかもしれない)。(書く人によって、立ち位置は変わって、小説を書くということが、音楽にとっての「音源づくり」になっている人も、たくさんいる。ということ。)


・おそらくほとんどの人がイメージするのは。小説を書く、ということは、音楽にとっての、音源づくり(例えば、CDづくり)、になるのではないか? ということ。そこが、つまんない。

・書く、という行為を、結末から逆算された過程をうめていくもの、ということではなく、頭から、その場で繰り出していく、ことと考えれば、それは「ライブ」だろう。(難しいのは、この「ライブ」という言葉の定義というか、何をもって「ライブ」というか? ということを共有してしなければ、話にならない、ということだ、な、きっと、、、。)

・ぼくはライブの人だ。まだ音源を完成させたことがないから、わからない部分もあるけれど、それが完了したとしても、ぼくはきっとライブの人だ。けど。小説は、本になろうがなるまいが、(一応)形(言葉の刻まれた、紙、データ)になるけど、ライブは「形」としては残らない。

・残る、残らないは重要じゃなく、在り方、考え方、臨み方、として、ぼくにとって「ライブ」は、、、。

・だから。音源をつくる。ということがどういうことか? をうまくつかめない。

・ダメだ。今日は。書けない。寝る。

・あ。違う。音源をつくることも、メモ程度に考えているおもろい人たちがいるのだから。ますます。わからんくなる。けど。「書く」ことが「ライブ」になり、「ライブ」が「書く」ことになる。ところにいきたい。だから、じゃ、音源は何だ? わからん。そこだけ、あぶれる。「ライブ録音」という結論?

『「Bar Tarji」この店の二人と出会ってなかったら、何処で歌っていただろう?』

12 12, 2013 | Liveのお知らせ

0

12/22(日) Bar Tarji 忘年会 LIVE

出演 アマリリス / maquaroni / 太田昌子 / 富塚勝 / 笹田美紀 / Nothing OS / TORA
HOTKINA / ダイスケ / BRONCO / 松沢春伸 / Kechon Kechon Jug Band / 少太

Open 15:30 Start 16:00 Charge ¥1500(ドリンク別)

そういえば。
ブログの方で、あまりライブのことをのせていなかったように思う。
まずはここから。
もう何回目だろう? 五回目? 六回目?
ぼくはこの場所でいろんなものと出会って、衝撃を受けて、学んで、吸収して、(したのか?)。
「Bar Tarji」。この店の二人と出会ってなかったら、何処で歌っていたのだろう?
ま。それはいいとして。
ぼくの。山形のホーム。
時間は大体九時くらいだろうか。

2013.12.12 533 『これまで自分の曲にちゃんと向き合ってこなかった』

12 12, 2013 | 日記2013

0

・これまで自分の曲にちゃんと向き合ってこなかった。ほったらかしにしていた。ほったらかしのまま歌ってきた。ので、今向き合っている。ぼくは楽譜かけないし、読めないし、歌うたびに曲が変わってしまう。それがいい、悪いは別にして、原曲という概念をあまりにないがしろにしてきたというか(それは、音源がないということもあるけど)、なんというか。

・何故こんなことを思うかというと、人の曲では遊べる(解体して、作り直す)のに、自分の曲ではそれがあまりできない、ということを感じているから。他人の曲は、その曲を流しながら、自分も一緒になって歌ったり、演奏したりして、そこから崩していくことができるけど、自分の曲はそれができない。もと、元、基、となる形がない、というのが、ひとつの要因だと思う。ジャズのバップにしたって、もとがあってのそれだ。ビッチェズブリュー的な、本当の意味での一回性に依る演奏は別にしても。

・なぞりながら、基となるもの(音楽であれば原曲)を逸脱していく。という過程って大事で、それは、きっと音楽に限らず、言葉(文章)だってそうだ。

・それで今、歌うたびに毎回変わってしまう自分の曲たちの、一応の基になるような形を探すために、一曲一曲、向き合っている。面倒だけど、これがなかなかおもしろい。じぶんでいうのも変だけど、「何この曲、難っ!?」とか思う。よくこんなのつくったねと思う。ちゃんと向き合おうとすると、本当に難しい。

・とか書きながら、別にそんなのなくてもいいんじゃないか? とも思ったりもするけど。今回はそういうことをやってみる。

・けれど。基をつくるといっても。演奏の中に現れる運動性(一回性)を削除するようなことはしない。あくまで、一回性(ライブ性)のなかでうまれてくる何かを頼りにつくるということ。何を書いているのだろう。よくわからないが。

2013.12.11 532 『髪切って首寒い』

12 11, 2013 | 日記2013

0

・大人数で、やんやいいながら、あれでもない、これでもない、とぶつかりながら、現れた何ものかは、出発地点のものとは全然ちがって、それがいい、し、それも、ひとつの点でしかなく、そういうことをひとりのうちでやる。

・何日かけても、全然作業がすすまず、ふとしたときにポロっとこぼれおちたものが、「あ、これだ」というようなことがあって、がくっとしたりするけど、きっと、そのポロっというのも、その前の全然すすまないたくさんの時間がなければでてこないのだろう、きっと。

・だから別にすすまないことを、悩む必要もなく、笑ってそのすすまない作業に入り込んでいくしかない、きっと。

・髪切って首寒い。

2013.12.10 531 『あ。あかり、みえますか。みえ。みえません』

12 11, 2013 | 日記2013

0

・どもる。吃る。つまずく。躓く。

・あ。あかり、みえますか。みえ。みえません。あしを、あしがうまく、はこべません。つまずいてころびました。ひざ、ひざ、を、すり、むきまし、た。でもあ、あるきま、す。

・何も語れず。何も歌えず。何も掴めず。語ることで、歌うことで、掴もうとすることで、「何か」は遠くなる。それでも。語り。歌い。手をのばす。

013.12.9 530 『イベントが終わった時にBGMでかかった古いブルースが一番ロックしていた』

12 09, 2013 | 日記2013

0

・昨夜。初めてのライブハウスに音楽を聴きにいった。音楽がどうのこうのより、その音を聴きながらいろいろなことを考えることができた。

・テンプレートができているもの(この言い方は水道橋博士の受け売り)。をどれだけなぞっても、もはやロックにならない。何度も書くけど、ロックという言葉はもともと「在り方」をさす言葉だったはずだ。ジャンルとして確立されて、それをなぞっている人たちを、なんとかジャンルに分類しようとしたら「ロック」というのかもしれないけど、在り方として、それは「ロック」といえるのだろうか。ロックを始めた人たちが一番敬遠し、嫌った「権威的」ものになってしまっていないだろうか。

・結局。誰も喧嘩を売っていない。何に? 在り方に。

・ロックというのはこういう格好をしていて、こういうリズムで、、、、、、とかなんとか、あげればきりがないだろうけど。べつにいいや。何でもいい。けど、少なくとも、どこにも喧嘩を売ることなく、そのジャンルの出来上がったイメージに安住している人たちの音を聴いてもぼくはグッとこない。

・そういえば。思い出した。そのイベントが終わった時にBGMでかかった古いブルースが一番ロックしていた。

・こんなことを書いている暇があるのだったら、自分の創作に専念しろよ。ばかやろう。———自分へ。

2013.12.8 529 『ひとり』

12 08, 2013 | 日記2013

0

ひとり。
やる。
こわさ。
をこえて。
ひとりでやる。
表現者はひとり。
だ。
いつまでも。
どこまでも。
ひとりだ。
ひとりでやらねば。
ならない。
寄り添うひと。
がいたとしても。
どこまでもひとり。
もがき。
迷い。
喚き。
泣き。
ながらも笑う。
ああ。
そうだった。
誰かがいった。
のだ。
「血を流しながら笑え」
さあ踊ろう。
夜だ。

・前提は。ひとりでやること。ひとりでやれること。ひとりで舞台にたつこと。舞台にはひとりでたたなければならない。

・泣き踊る。顔は笑っている? か?

2013.12.7 528 『自分と無縁の時代や自分と無縁の土地に対して』

12 08, 2013 | 日記2013

0

・今日の引用。

【自分と無縁の時代や自分と無縁の土地に対して、私たちがどれだけ想像力を持つことができて、どれだけ責任を感じることができるのか? 「想像力を働かせろ」それがチェーホフが言いたかった「百年」の意味だ。】p230

【小説もまた本質においては言葉を超えたものであって、小説に流れる時間のうねりのようなものによって読者は遠いところまで連れて行かれて、その時間の渦中にいるときだけ世界についてのイマジネーションが与えられる。】p214

保坂和志『人生を感じる瞬間』より。

2013.12.6 527 『自分でもよくわからない。ぼくは「歌詞」が聴けない人間らしい』

12 07, 2013 | 日記2013

0

・自分でもよくわからない。ぼくは「歌詞」が聴けない人間らしい。聴くことができない。何故? といわれてもわからない。日本語ですら、それが音とともに発せられる(要するに歌だ)と、耳が言葉にチューニングが合わず、音楽を構成する言葉とは別の要素に向いてしまう、ということかもしれない。

・何故こんなことをおもいだしたか。今日ラジオでユーミン特集のようなものをしていて、その歌詞にその時代のどれだけの女性や男性が影響を受けたか? というようなことを取り上げていて、話の間にユーミンの曲が流れるのだけど、ぼくにはわからない。良さがわからない。というのでなく、言葉自体がわからない、というか、言葉が言葉として、意味として入ってこない。だから、共感しようがない。

・例えば、それが、右脳で聴くとか、左脳で聴くとかそういう話にまとめてしまえば、そうか、と思う所もあるけど、科学的に説明されたところで、別に。

・それでは何故?。「風立ちぬ」の「ひこうき雲」に反応したかというと、映画エンディングソングという、配置もあるだろうけど、それ以前に、その曲の声であって、それは言葉ではない。声のもつ何かしら、であって、そこに込められた「意味」ではない。

・「え? その受けとり方って動物っぽいですね?」といわれたら、違う、ともいいきれない。ぼくの反応の出どころはどこか動物的かもしれない。身体に響かないものを好きになれない。とか。

2013.12.5 526 『ある空間にぼくの身体が配置される』

12 05, 2013 | 日記2013

0

・ある空間にぼくの身体が配置される。

・そのことがまず第一にあって、如何にうたう? という自分の「意志」のようなものは、空間以前にあるのではなく(だからこそ、所変わればうたも変わる)空間との関わりによってうまれる。最近そのことを実感している。

・「場所が変われど、毎回毎回同じものを演奏していれば客は歓ぶだろう」などと考えている人たちのことはおいておく。

・音楽は音源作りが主であって、ライブはその「お披露目会」と考えるような人たちも、同時においておく。

・その時にうまれる演奏は、「自分」がではなく「場所」がもたらしたものということだっていえるかもしれない。この時の「場所」というのは、その場所を共有する客、ではなく、言葉のままの「場所」で、どういう立地で、建物のまわりに何があり、どんな木があり、どんな空気が流れ、ステージはどんな明るさで、あるいは暗さで、温度で、、、。というような、、、。

・最近。Podcastというものを知って、昨日今日、鈴木敏夫の番組をしらみつぶしに聴いている。仕事中。おもしろい。おもしろい。

2013.12.4 525 『逆説的に「縛られている」からこそ「個」が見える』

12 05, 2013 | 日記2013

0

・オリジナリティ。個性。という言葉にそれほど興味がなくなっている。

・個性。という信仰。

・個性という信仰に縛られた人たちの語る、求める、「個性」は本当のそれとは違うように思う。

・誰かと誰かが、同じ曲を同じように演奏しても生じてしまう「ズレ」。身体を通す。ということはそういうことだ。

・誰かと違うことがしたい。とかいう必要もない。そんなこと考えて行動していったら、どんどん本当の意味での「個性」は遠ざかる。

・伝統芸能。というものにとって個性とは? それは伝統の「形」に独創的なものを持ち込んだ人のことではないように思う。伝統の「形」を受け継いでいくものだからこそ各々の「身体」に。逆説的に「縛られている」からこそ「個」が見える。

・じゃあ。ぼくのやることは?

2013.12.3 524 『辿る糸。は。ほどけない』

12 04, 2013 | 日記2013

0

・辿る糸。は。ほどけない。

・糸から成る糸。から成る糸。から成る糸。糸を「撚る」。よる。それぞれに名前はあるか? 名前はいるか?

・朝靄の中、カラスがケタタマシク啼く。

・今日も明日もわたしは。あなたは。それぞれの日々の中で。啼く。ただ啼く。届く? 届かない? どちらでもいい!! ただただ、、、。

Next Page »

RSS
プロフィール

Author:harunobiwonder
松沢春伸の日記

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ