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2013.8.30 429 『ただその場で足踏みしているしかない』

08 30, 2013 | 日記2013

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・明日はライブ。振り回される。自分に。受けて立とうじゃないか。

・高熱。扁桃炎。喉激痛。とか、そんな、病みあがりにアン・サリーさんライブを迎えたのは、このあいだのことで、けど、うたえばうたえてしまう。しまった。身体の具合がどこかしら悪くて、どうしようもない時に限って、自分を壊したがる、その衝動が、何にも邪魔されずに襲いかかってくる。それが来てしまったら、ぼくはどうすることもできずに、それに応えるしかない。

・褒められたとして、素直に喜べないのは、その表現をしたのが自分なのか、自分でない誰かなのか、わからないから、ということもあるような気がする。いつもおもう。自分の中にその音はなかったはずなのに。という疑問。いや、疑問などどうでもいい。実際にでてきたのだから。お前は一体誰だ? という瞬間。

・表現する人間というのは、そういう瞬間を経てすすんでいく。成長する。のだとおもう。その体験が身体に刻まれているから、降ってくる何かをその場でつかまえることができる。自分のギリギリのラインを少しでも広げようとおもったら、そういう瞬間、自分でも計れない自分を体験するしかない。そこがないと、いつまでも同じことばかり繰り返して、ただその場で足踏みしているしかない。
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2013.8.29 428 『夢うつつで声を聴く』

08 30, 2013 | 日記2013

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・身体が痒い。飲みはじめたサプリメントが合わないのか。毛虫に刺されたせいか。じんましん。

・ラジオの子供科学電話相談をきいていると、小学生の六年にもなると、質問が純粋な疑問というより「この質問どう? いい質問じゃない?」みたいなところがあって嫌気がさす。それにしても四、五歳の子供の声というのは何であんなに聞いているだけで泣きそうになるのか。普段は四、五歳の子供の「声」だけを聞くということはない(身体とその動きも見ている)けど、ラジオだと純粋に声だけになって、「うん」と頷く声だけでぐらっときてしまう。これはまずい。

・夢うつつで声を聴く。聴くともなく聞く。誰の声かわからない。内容も定かでない。けれど、心の真ん中に刻まれるようにその声が響いてくる。

2913.8.28 427 『三十歳にもなって、、、。などとぼくは一切おもわない』

08 28, 2013 | 日記2013

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・トラックの荷台に乗って、風を受けながら移動する。空の青いこと! 田んぼの水に映る太陽の光のまぶしいこと! 朝一の移動で昂揚する。きょうは、もうなにもいらないとおもった。

・三十歳にもなって、、、。などと一切おもわない。年をとろうが、こんなありふれた小さなことで感動していられる、アホな人間でいい。

・何か、表現に接して、それを「いい」といっておけば、自分のセンスが保証されるような気がして、「いいよね〜」とかいう人たちがいる。うそくさっ。計算。くだらない。自分の身体を全然信用していない。大体そういう人って話せばわかる。どうか、そういう人たちがぼくに近よりませんように。

2013.8.27 426 『指針になる言葉』

08 27, 2013 | 日記2013

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・何かを感じる。受けとる。には、外に出るのが早い。散歩もいい。景色から受けとることもあるし、歩く、という行為の中で、生まれてくる考えもある。単調な運動。足を運ぶ、その行為のくりかえし、の中でどこかから降りてくる声。声にならない声。

・昨日書いたこと。二日前に書いたこと。言葉にする、ことで自分の指針になる言葉。ああいう言葉が出てきたことで、随分考えがまとまった。というか、まとまることがいいことか、は別にして、少し先に進めたのではないかとおもう。「こうやった方がいいんじゃない?」という意見がどこかからでてきたとして、その言葉はどこを向いているか? 「そのほうが皆に伝わるよ」であれば、「知るか」でいい。表現というのは、受容と供給のバランスとは別の、もっとひとりぼっちの、それでいて、過去へも未来へも向いてる橋のようなもの。

・うたをうたっている。ということをあまり人に伝えないし、いったとしても、別に誰かの前で積極的にうたうわけではないので、こないだのように、ぼくがお手伝いしている集まりでうたったりすると、「春君のちがう一面をみた」とかいわれるけど、ぼくは、どうやったって(その人たちのいう「違う一面」を持つ)そういう人間だし、それはギャップでも何でもない。ただ、話すべき場所でないから話さないだけで、うたうべき場所でないからうたわないだけだ。どこにいても自分を主張したくてたまらない人間がいるけど、そういう人間でないというだけの話。

2013.8.26 425 『意味とは別の場所で』

08 27, 2013 | 日記2013

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・「言葉がわからないからわからない」。と他言語の「うた」を聴いていう人がいる。彼らにとって、「うた」は「意味」なのだろう。けれど、鳥の鳴く声を聴いて、「あいつらは何をいってるかわからないから、わからない」というだろうか。木の葉に太陽の光が反射してピカピカ輝いているのをみて、そこに意味を見いだすだろうか。蒸し暑い空気のなか、ほんの一瞬、風が肌を滑っていくその感触、心地よさに後付け可能な意味などあるだろうか。「うた」だってそういうものかもしれない。

 人間だから、というより、言葉によって人間になる、としても、わたしたちにとって「うた」は、単に言葉というだけじゃなく、自然の側に近いのかもしれないとおもう。自然の側というと人とそれを切り離してしまうようにも思うけど、上に書いたことのようなものとしての、自然の側。川の流れをみたり、風を感じたり、鳥の鳴き声を聴いたり。そういう風にいうときの「自然」の側。


・二種類。ある。ひとつ。言葉に還元できるもの。これは、技術的なものを含めて「ここがこうで、こうだからおもしろい」といえるもの。もうひとつは、動物的なというか、その名残としての反応。言葉の前、なのか、言葉の先、なのか、それはわからない。身体が反応するもの。その受け取った「何か」をわざわざ言葉に還元せずとも、ここには「何か」があったのだから、それでいい、と思わせる、いや、感じさせるもの。意味とは別の場所で感動すること。

・ぼくはどうしても、意味ではないところでうたを享受しているし、他のいろんな、たくさんのジャンルの表現にしても、そうやって感じ取ろうとしているらしい。言葉という一番人間的なものを使った表現でさえ、どこか言葉でない部分を感じ取ろうとしている。

・にも関わらず、こうして日々言葉を紡ぐ。言葉を紡ぎながら、どこかでそれを放棄することを望んでいる。

2013.8.25 424 『アン・サリーさんのライブ。in安国寺』

08 25, 2013 | 日記2013

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・ロウソクの灯り。焚き火の爆ぜる音。虫の音。湿り気を帯びた肌寒い空気。うた。ギター。トランペット。ピアノ。森の木々の揺れる。——ひとつ。

・昨日は。Taiken堂。アン・サリーさんのライブ。in安国寺。のお手伝い。

・打ち上げで、ギターの小池龍平さんがギターを弾きはじめて、それをみて先輩からのわかりきった注文。「春もやれば」。で、車にギターをとりにいって、歌った。歌いながらふと左をみたら、小池さんに抱えられたお子さん(一才に満たないだろう赤ちゃん)がものすごく驚いた顔をしてぼくをみていたので、ぼくも驚いて笑ってしまった。

・ああいう場所(普段はただ手伝いをしているだけだから)で歌うとなると、どうしてもピエロにならざるを得なくて、大変というか、それはまあいつものことか。

・アン・サリーさんの娘さん達と、スタッフの娘さんがトランプの神経衰弱をしているのを眺めていて、そのあまりの覚える気のなさに、笑う。おいおいといってみる。

・とてもいい夜。だった。

2013.8.24 423 『「表現」は「受容と供給」の外にある』

08 25, 2013 | 日記2013

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・「表現」は「受容と供給」の外にある。「芸術」は「受容と供給」の外にある。「いいね」といわれても「きらい」といわれても、返す言葉は「へえ」とか、そんなものでしかない。

・いや、というより、外になければならない。はずだ。

・周りの人になんだかんだいわれたって、その言葉が「受容と供給」側についている言葉だとしたら、いちいちつき合う必要はない。「知るか」という勇気。震えながらも無視する勇気。

・メッセージ性の強い歌、大きな歌、は実はたやすくつくれる(その歌に本当の意味で人を動かす力があるか、は別として)。難しいのは小さな歌で、それをつくるには、「見えて」いなければならないし、「聴こえて」いなければならない。

2013.8.23 422 『スケッチブック 2013.8.23』

08 24, 2013 | 日記2013

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・スケッチブック。

・隣で点滴を受けるばあさんは、点滴が始まって三十分ほどたつと眠りはじめ、いびきをかきながら二度大きな屁をこいた。それでも眠りから帰らない。いびきは止まない。


・ガラスの向こうの通りに目をやると、坊主頭の大柄な外国人が大きすぎるポロシャツを着て通り過ぎていく。左から右へ。ゆっくりと大きな歩幅で。

 「コーヒーのおかわりはいかがですか?」「ありがとう」。また本を読みはじめる。しばらく。顔を上げて通りの方へ顔を向ける。坊主頭の大柄な外国人が大きすぎるポロシャツを着て通り過ぎていく。左から右へ。ゆっくりと大きな歩幅で。くりかえしている? 

 「コーヒーのおかわりはいかがですか?」「じゃあ半分だけ、、、」。また本を読みはじめる。しばらく。何かが気になって通りの方を見ると、坊主頭の大柄な外国人が大きすぎるポロシャツを着て通り過ぎていく。左から右へ。「まただ」とおもった瞬間、おとこはこちらを向いて、一瞬目が合う。時間をわしづかみにされてむりやり引き戻される錯覚。おとこはゆっくりと大きな歩幅で歩いていく。

(これはスケッチとは呼べないだろうな)


・右隣に座った男は煙草を吸いながらコーヒーを飲み、貧乏揺すりをしながら、ときどき「フガッ」と声をだす。

・三、四歳ほどのおとこの子が補助輪付きの自転車を放るように勢いよく降りたので、自転車はそのまま歩道の傾きにそって転がっていく。おとこの子は長靴をはいていて、きた方向へ駆けもどるとしゃがんで何かをのぞきこむ。後方からおじいちゃんが傘をさしてゆっくりと歩いてくる。おじいさんも長靴をはいている。

・「この症状にくすりは効きません。身体の力で回復するしかありません」。くすりはない。身体だけ。

2013.8.22 421 『小さな緑色の靴』

08 23, 2013 | 日記2013

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・アメリカシロヒトリは一年に二度産卵期をもつ。今がその二度目の時期で、桜の枝と葉にネット上の巣をつくり、そのネットに守られて幼虫たちがそだつ。葉を食べるので、巣のある部分の葉はほとんどなくなってしまう。顔を近づけると小さな幼虫がたくさんうごめいている。名の通りアメリカからの外来種。戦後日本に入ってきた。

 セイタカアワダチソウも小さなものが道ばたに少しずつ咲き始めている。これもアメリカからの外来種。もう少し季節がすすめば、高速道路脇の斜面はセイタカアワダチソウの黄色で埋まる。


・待ち合い室で隣に座った小学生の女の子は藤沢周平特集の本を読んでいる。その父親はスーツ姿で、寝癖がはねている。

・二歳くらいの男の子は靴を脱ぐのが嫌だといって泣きわめいている。小さな緑色の靴。お母さんに抱き上げられて、診察室に入っていった。泣きながら。左手に靴を持って。

・「ねえ痛い?」と聞いたのは男の子で、「ちょっとだけチクッとするかな」と看護婦はいう。採血後に「ちょっと痛かった」とはいったけど、声を荒げることもなくじっと堪えていて、そのころのぼくだったらわめいただろう。

2013.8.21 420 『若さの恥辱と、年寄りの不潔』

08 22, 2013 | 日記2013

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・付箋。

【いかに泥くさくても、みにくくても自分自身の生活の土台から、すべてをつかみとり、推しすすめていくべきです。】p34

【じじつ奇妙と思われる、新しい絵を見てから、今まで安心して楽しんでいたふつうの絵がなにかつまらなく見えてきたという人が多いのです。人は気がつかないでいるかもしれないが、芸術は生活に物理的といえるほど強大な力と変化をあたえるのです。知らないあいだに、すべてのものの見方、人生観、生活感情が根底から引っくりかえり、今まで、常識や型にしたがって疑いもしなかった周囲が、突然なまなましく新鮮な光にかがやきはじめます。自分では、あくまでわからないと思いこんでいても、すでに正しく理解しているのです。】p36、p37

【若さの恥辱と、年寄りの不潔】p51

【新しいものには、新しい価値基準があるのです。それが、なんの衝撃(ショック)もなく、古い価値観念でそのまま認められるようなものなら、もちろん新しくはないし、時代的な意味も価値もない。】p53

・岡本太郎「今日の芸術」より。

・八年ぶりくらいだろうか。パラパラと読み直してみる。今の方がスッと入る。初読当時のように興奮することは少ないけど、今のぼくはここに書かれてある言葉を当時の自分より圧倒的に自分自身の問題として捉えることができる。近くで太郎さんが話してるみたい。

2013.8.20 419 『もっと広く、もっと深く、もっと遠くにある』

08 20, 2013 | 日記2013

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・「風立ちぬ」堀越二郎の「もっと広く、もっと深く、もっと遠くにある」という言葉。彼にはそれが見える。見えてしまう。あるいは聴こえる。聴こえてしまう。

・堀越二郎はズンズン歩く。通り過ぎる景色は景色でしかない。

・「雨がいい感じで降っているから気をつけて」と女はいう。「はい」。ドアを開けて外にでた小さな女の子が、母親の手をふりほどいて、雨の中、足ぶみしながら踊るようにはしゃぐ。こどもは歓びを身体ぜんたいであらわす。踊るように。

2013.8.19 418 『夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない』

08 19, 2013 | 日記2013

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・今日の付箋。「風立ちぬ」パンフレット。「企画書——飛行機は美しい夢——」宮崎駿。より。

【(略)私たちの主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。

 自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憧れは人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。】


・ここに書いてあることが、いいとか、なんとか、でなく、「狂気を孕む夢」をもつ「独創性と才能にもっとも抜きん出た」人を描くという選択、というか、初めからそういう人物を描く、ということの選択。「多くに共感される」ことを求めるならば、そこらへんの、多勢受けする夢と挫折をかいていればいい。ああ、共感、良かったねえ。と。それとは全然違う。ここにそれはない。彼の(宮崎駿の、堀越二郎の)目線はそんなところを向いていない。そんなことわかりきっていながら、それでも、あえて、この映画を「多」に向けて見せつけようとする、彼のやりかたは、凄い。おそろしい。

・と、書きながら、岡本太郎が周りに反対されながらもテレビに出演しはじめた心境をどこかで書いていて、それを読んで、面白い人だと感じたことを何故か思い出している。

・あまりに独り。

2013.8.18 417 『浅い眠り。次々に夢を観る』

08 19, 2013 | 日記2013

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・本棚に蜜蝋を塗る。完成。ホームセンターにいく。サンダーを買う。二つ目の本棚の材料を買う。青森の代表は、宮崎のに負けた。二つ目の本棚をつくっている。

・月の軌道が低い。左上部がほんの少し欠けている。宇宙の無重力というのは重力がない、のでなく、星と星の重力が拮抗している状態なのです、と誰かがいった。

・浅い眠り。次々に夢を観る。目覚めているのか。何処にいるのか。わからない。チューニングに時間がかかる。

2013.8.17 416 『それを知りたかったら、こちらにいらっしゃい』

08 19, 2013 | 日記2013

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・本棚を作っている。本が溢れ出して、どうしようもないので。今回は今までのように適当につくるのでなく、緻密につくってみる。壁一面に本棚をつくってみる。「壁一面の本棚」に、憧れていたので。

・緻密なものができない。たち。性格。だから、自分の習性に逆らって、緻密なことをやってみる。それが難しく、それで、おもしろい。

・緻密さと、大胆さ(というより、雑さ)が同居している。緻密そうで雑。雑そうで緻密。そして、どちらでもない。どちらでもいい。

・高校生のとき「お前は、考えてないようで、考えていていて、考えているようで、考えていない」といわれたことがある。先輩に。それをいまだにおぼえていて、ああ、そうだな。と、おもう。

・「考えるのでなく感じろ」というのは、考えているからできること。で。「考えるアンテナ」を張っているから、それを捨てて「感じる」ことができる。だから、考えなくちゃいけない。ブルース・リーは考える人。それが言葉にはならないとしても。

・けれど、それでも、女性の「感じる」強さに「うおっ」とおもうことがある。「考える」ことを通り越してズバッとくるあの凄さは、ぼくにはない。そこは、とても凄いとおもう。ぼくにはできない。あれはなんなのだろうと、いつもおもう。その鋭さにいつも困惑する。

・「雑」なようでいて「雑」でない。周りにいる人には「雑」としかおもわれないかもしれないけど、その場で生まれる何かに寄り添ってやる、というのは「雑さ」と紙一重で、「雑」ではない。全然違う。けれど、そこに計算はない。そういうものがやりたい。それをなんと言葉にされようが関係ない。

・雑の、雑にみえることの、その先。それを知りたかったら、こちらにいらっしゃい。

2013.8.16 415 『本日、二度目の「風立ちぬ」』

08 16, 2013 | 日記2013

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・本日、二度目の「風立ちぬ」。妹と。ふたり。二度目ということの発見もある。一回目とは違う劇場で。パンフレットを買ってみる。これがなかなかいい。

・原作がある作品(混ぜたのだから、実際に書いたのは宮崎駿だとはいえ)を映像化するということ。宮崎作品では初めてらしい。いくら、自分で脚本を書いたとしても、原作の物語の流れがしみついてしまっている以上、それをふりほどくことは困難で、本来筋書きを持たずに書き進める人間がそれをやること。の、おもしろさ、と、つまらなさ。違和感はそこにあるのかもしれない。次の作品は、その場でうまれる流れに、自身も溺れながら、もがきながら繰り出していく、そんなものを観たい。

・主人公の声はやっぱり庵野さんにしかできなかったのではないか。この声がもし、そのへんの「うまい」人だったとしたら、ものすごくつまらなくなったんでないかとおもう。「うわっ」と思わせてくれる描写の少ない、平坦な流れがつづく中、彼の声だけが遠くに響いていて、それで映画が張っている。という感じ。

・何故このアングル? とか、人の動きの細やかさにうわっという場面がいっぱいあって、それは二度目の感動が大きい。

・全ての効果音を人の声で。声というのはこわいもの。と感じる。

2013.8.15 414 『田んぼに合鴨が泳ぐと、風景が一変します』

08 16, 2013 | 日記2013

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・どこから? は問わない 
 降ってくる 声を
 ただ聴く
 
 どこから? は問えない
 降りてくる 歌を
 ただただ聴く
 
 わたしの身体をとおして
 それは翻訳される


・トイレでパラパラ読む本。とおもって買ったNHKラジオテキスト古野隆雄「農業と人生を面白くする」より。

【昔から、私たちはイネを作ると表現せず、田を作ると表現します。人は田を作ることはできても、イネを作ることはできません。】 p10

【田んぼに合鴨が泳ぐと、風景が一変します。基盤整備前の我が村の田んぼは、形も高低もいろいろで、畦には柿の木やクチナシや柳の木が植わっている所もあり、実に多様で楽しい風景でした。ところが基盤整理で地域の田んぼはほとんど100m×30mの長方形に統一され整然となりましたが、面白くない退屈な風景になりました。とても残念なことでした。

 ところが、合鴨はこの退屈な風景をがらりと変えてくれました。「私は足が悪くて、このように乳母車につかまりながら散歩をしています。田んぼの合鴨の成長を見るのが毎日楽しみです。放していただいてありがとうございます」ある夏の朝、見知らぬおばあさんから、合鴨に餌を与えている時にこんな挨拶をいただきました。】 p13、14

2013.8.14 413 『「うまい」とは別のところにいく』

08 15, 2013 | 日記2013

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・「ポニョを劇場で観たいなあ」といったら「あんた観たべよ」とふたりに一斉にいわれた。どうやらぼくはきょうだいとポニョを観たらしい。劇場で。「あんた、うるうるしてたじゃん」といわれた。そうか。どうやらぼくはポニョを劇場で観たらしい。「そうだっけ?」といいながら、ポニョを劇場で観たい、とおもう。

・ぼくは「うまい」とは別のところにいく。「うまさ」が必要だとしてもそれは「目的」でなく、その先に至るためのひとつの道具。

・「うまい」などといわれてよろこんではいられないのです。

・受け手として「うまいなあ」とおもうことは多々あるけど、その先を感じたことはほとんどない。うまさをひけらかして「どうだ、うまいだろ」というような奴には興味などない。その先というのがどういうもので、どういう言葉で表現できるのか、をいまのぼくは書けないけれど、感覚としてはある。感覚はあるから「こんなの、うまいだけじゃねえか」とはいえる。

・いつもおもうけど、「うまい」ということがぼくの中で「褒め言葉」として使われたことがほとんどない。スポーツ選手の技術とかであれば「うまいなあ」と素直にいえるけど、表現に関しては「うまい」であることは別に重要じゃない。でもある程度の技術がなければ先へ進めない、というのは当然。

2013.8.13 412 『蝉鳴く杉と桜の大木』

08 14, 2013 | 日記2013

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・蝉鳴く杉と桜の大木。その脇にある墓にお供え物をし、ロウソクと線香に火を点し、手をあわせる。ずっと昔から桜の木はそこで、蝉の声をまといながら、墓参りをする人々を見守ってきた。

・墓参りを終えて祖母の家に戻ると、変わらず日大山形が優勢だった。とはいえ、墓は祖母の家のすぐ裏にある(桜の大木も)ので、十分ほどしかテレビの前を離れなかったのだけど。日大三高の強力打線に一球一球「うお」とびくつきながらも、「あれ、これ勝っちゃうんじゃないの?」と家族皆がいいだしたのは、六点差がついた時ではなく、もっと終盤になってから。それで勝ってしまった。しまったなんていうと失礼だけど、ビックリして、興奮した。

・墓参りにはいこう。別に墓じゃなくてもいいけど。仕事があっても、休んで墓参りにはいく、とか、子供の運動会があったら、休んでいく、とか。でかい問題に取り組む前に、そういうところからやらないと、とおもう。

2013.8.12 411 『ぼくが「ライブ」と呼べる「ライブ」になってきている』

08 13, 2013 | 日記2013

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・リハ。というのが得意じゃない。というか嫌いだし、音の善し悪しなんてのもよくわからない。

・基本的に本番でやる曲をリハではやらない。逆もあり。リハでやった曲は本番でうたわない。なぜかというと、ぼくにとってライブとはそういうものだから。あえて理由をつけるとすれば、リハでやった曲は店のスタッフが聞いているわけだから、本番でもういちど歌うのがいや、というか、どうせなら別なのを、というか。スタッフも聴く人なのだし。

・しっかりしたリハをやってるひとたちをみて、飛び交う専門用語みたいなのが全然わからなくて、ほお、とおもいつつも、そんなにか? とおもう。ぼくは大体任せきりだから、少しはそういうの知ったほうがいいのかもしれないけど、そんなことより気を入れる場所はあるだろう、ともおもう。

・ライブがライブになってきつつある。理想というのとは違う。見えないものを見えないままに進む。事前のプラン(そんなものもともと持たないけど)を越えながら、前へ前へ、自分に振り落とされそうになりながら、必死に自分にくらいつく。ずっとこだわってきた「ライブ」という言葉。その言葉に与える自分なりの意味。ぼくが「ライブ」と呼べる「ライブ」になってきている。観ている人にもそれが伝わっているような気がする。一番おもしろがっているのは自分自身だが。

2013.8.11 410 『もう一度観にいこう』

08 12, 2013 | 日記2013

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・あるひとの日記を読んで。「風立ちぬ」で感じたことが腑に落ちた。

・物語(筋書き)をもたない、という作者が所々にはさんでくる「景色」の凄さ。吐きそうになる。ポニョは全編がドカドカといってたので、その半端じゃなさ、をそのまま受け入れて観れたけど、今回は突然「異常」が降ってくるので。

・主人公の「何をみているか」のその視線の揺るがなさ。針みたいに。夢。現実。その描き方。説明のなさ(説明ぽい言葉なんてあったらつまらないけど)。

・「感動する物語」を期待して観にきた人たちは「困る」と思う。そういうものをそもそも期待して観にいかなかった自分は場面場面に鳥肌がったったけど、これを「感動の物語」として受け取ろうとおもったら、それは具合が悪くなるだろうな、とおもう。評価が別れるなんてことはどうでもいいけど、それはそうか、とおもう。

・主人公の声にしてもそうで、ぼくはとてもよかった。うまいとかへたなんてことはどうでもいい。

・そして最後の荒井由美の「ひこうき雲」。

・日記を書いたひともいってたけど、予告の「かぐや姫の物語」の映像はすごかった。けど、どのテレビで見たのかは忘れたけど、かぐや姫だろう赤ん坊が寝返りを打つシーンをみて、そっちのほうが断然すごかったとおもう。ただ、寝返りを打つ、というそれだけの映像だけど、本当にビックリした。ビックリしたのでゲラゲラ笑った。

・もう一度観にいこう、とおもう。

2013.8.10 409 『シジミのみそ汁』

08 10, 2013 | 日記2013

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・ここ三日ほど。暑さで参っている。アスファルトからの照り返し。湿度の高い無風の状態。水分のがぶ飲みはいけませんよ、といわれても、あんたね、外仕事したことあるの? といいたい。理屈だけで通せるほど、身体はそんな風にできていないもの。研究者たちが炎天下の中外仕事をして、そのあと、冷たい飲み物をがぶついて飲むのをみたい。というか、そうなるだろう。身体をなめんなよ。

・なので、「なので」というのがなにかわからないけど、ほぼ日々フラフラとしている。フラフラというのは、ふわふわじゃなくて、、、。体調的にというようなことで、何かを考えたり、ぼけっとしたり、する時間をあまりとれてない。とれてない、というより、身体がそういう状態になってくれない。いや、それもおかしい。忙しいからだめなの。忙しいのが好きな人は、好きなだけ忙しくしていればいい。仕事なんか、というか、仕事より大事なことがあるから、仕事をする、というのが一応の考えだけど、それが度を過ぎると、大事なことがみえなくなるので、そんなんだったら、仕事なんていいや、というと社会に背を向けてる、だなんていわれそうだけど、だからなんだ、背を向けてるんじゃなくて、目と目を向き合わせて、その結果、ここじゃねえや、というそれだけ。のこと。何を書いていたのだろうか。わからなくなった。

・明日はライブ。いつものお昼のように。お昼ご飯を食べるように。おにぎりを食べながら、冷たい水割りのインスタントみそ汁を飲む。というようなそういう感じでやりたい。やりたい、というか、そうしかならない。多分。シジミのみそ汁。

・昨日蝉のことを書いたけど、セミほど飛ぶのに慣れていないというか、バタバタ飛ぶというか、目的地を定めずに、木があってぶつかったら停まる、というような虫ってなかなかいないんじゃないだろうか。「すうっ」となんて飛び方じゃない。鳴きながら、いろんなところにぶつかりながら飛ぶ、というか、しがみつくために飛ぶ、というか。そう考えると、少し愛着がわく。

2013.8.9 408 『「ある程度」すらいう気になれない』

08 10, 2013 | 日記2013

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・その人の何がひっかかって興味を抱き、何が嫌で気にとめる価値もない。という判断をするのか。判断というよりずっと原初の反応なのだろうけど。その感覚を頼りに生きているから、そこは言葉にならない、といいつつも、ある程度の言葉ではいえる。ある程度を越えた部分に関してはいえない、いう必要もない。興味が持てないものに関しては素通りするだけ。いちいち自分の意見をぶつけることもない。それほど暇ではない。「ある程度」すらいう気になれない。

・電話をしたら「ちょうど昨日ひとつできたところでした」といわれたので、注文してしまった。基本的にはつくっていなくて、主力商品の作業の合間につくるから、受注生産とはいっても、納品まで三、四ヶ月はかかるらしい。ハサミの話。刈込み鋏の話。というやりとりを電話でしたのだけど、声の感じからいうと、五十歳、六十歳? くらいの女性で、その女性の電話の応対がよくて、よくてといっても、丁寧とかそういうことではなくて、「話が合う」という感じで、だから注文した。そうでなかったとしたら注文しなかったとおもう。だって、高いし。

・11時をこえて、家にもどって、玄関を開けようとすると、蝉が何匹もばたついておもわず声をあげてしまった。方向感覚もわからずただ、バタバタとやられるこわさは凄い。必死。

2013.8.8 407 『歌が続くかぎりは、永遠も恐れるものではない』

08 08, 2013 | 日記2013

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・目の前にあることに集中する。精一杯になる。視野が狭くなる。他に何も見えない。生き物は多分そういう風にできていて、そうじゃなかったら、死に近づく。人間ももちろんそうで、遥か遠くのものより、「いま目の前にあるもの」に対して反応するし、「考える」ことにしても、いま自分に迫っているもの、を反射的に。思考する。だから、つまらんとこにいたら、つまらんことしかないよ。とか、べつにそういうのはどうでもいいのだけど、本当にどうでもいいのか、わからない。

・「逃げるというか、見限るの」とその女はいったのだった。それから「別にどちらでもいい」といった。それから「言葉の違いなんて」といった。それから「とにかく、、、。『ここ』ではない」といった。

・古井由吉「夜はいま」。『夜はいま』より。

【助けを求めているわけでなく、ただ無心に歌っている。それでも、もしもこちらがひとつ、身の動かし方を間違えたら、あの声は取り返しがつかなくなる。とにかく、じっとしていなくてはならない。こちらこそ宙に迷った、恣意に近いこの場所を、なおかつ刻一刻、かつがつに保持しなくてはならない。歌が続くかぎりは、永遠も恐れるものではない。】 p45

・意味など全然わからない。意味とは遠く。それでも、何故か。引用。星を眺める。に近い。

2013.8.7 406 『と書いておけば、逃げられないだろう。だろう? 自分よ。』

08 07, 2013 | 日記2013

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・汗をかきすぎて、紺色Tシャツが白くなった。こんなことはまずない。と、こんなことを書くこともまずない。空っぽみたいになってる。こないだのライブから。

・いよいよ「Bar Tarji」という場所が、本当の意味で自分のホームになってきた。これは、気がする、という話でなく、身体がそう感じている。「んん、そうだな、もう何年もやってきてるし、そろそろ自分にとってホームといっていいだろう」というようなことでは全然ない。けど、この言葉を越えた感覚をどうやって言葉にできるのだろうか。身体が「そう、ここここ」と感じる場所になっている。

・どういうことか。一番クレイジーな自分が顔を出す、ということ。そして、それをたのしんでいる、ということ。

・いや、クレイジーさでいったら、違うかもしれない。けど、とにかく、あの場所で、ぼくは、自分のことに没頭出来る。「出来る」って!? 客のことは考えない。いや、考えないながらも、どこかで感じている。

・特別でありながら、特別じゃない場所。日常のひとつの場面のようで、全く非日常の場所。

・こんなことを書く予定はまったくなくて、だから、どこが具合が悪い。ま、いいや。今日も引用を、と思ったのだけど。それはまた今度。明日からは早起きして曲作りをするのだ。、、、と書いておけば、逃げられないだろう。だろう? 自分よ。

2013.8.6 405 『幻はまた幻のまま活気に溢れ』

08 06, 2013 | 日記2013

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・よくよく呑んだ次の日。が二日酔いになるのは当然だけど、その痕跡が翌々日まで持ち越されて、、、というのを体験すると、ああ、と思う。

・その二日間というのは大抵世界が変に映るというか、身体がおかしいことになっている、のに、どこかは異常に冴えていたりして、だから戸惑うというか。そこで感じたことは大体、身体が正常に戻ると忘れてしまうようなもので。だから、それはそれでおもしろい。けど、すすんでそこに行こうとはもちろん思わない。だって、大変だから。

・今日の付箋。

【ほれ、いま、人のいない歩道橋の上で黒い、大きな鳥がひと声、赤児のような声で、長く叫んだのが、聞こえなかったか。この道はすべて幻だと。いますぐに、車ともども、消えてなくなると。

 しかし、ただのひと静まりすれば、幻はまた幻のまま活気に溢れ、もどかしく動き出し、渋滞を抜ければ時は滑らかに傾いて、微妙な喰い違いはそれぞれの心の底にすこしばかり残るかもしれないけれど、知らぬまに日盛りも過ぎ、皆、今日も一日の労苦を仕舞えて、迷わず家路をたどれる。】 古井由吉「夜はいま」 『新開地より』p28。


・ぼくの使える言葉では書きようがないけど。美しい。音楽のよう。読むというより、聴こえる。に近い。

2013.8.5 404 『はる、たのむからおきてくれ』

08 06, 2013 | 日記2013

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・ギターストラップを買ってのライブ。目線の位置。身体の動きの自由さ。座ってやるのとだいぶ違う。やりやすい、とかいうレベルでの違いでなく、身体の動きが違えば、出てくるものも全然違う。

・なかなか濃い時間だったとおもう。強度。また何かを掴めた。よし。

・「はる、たのむからおきてくれ」という声。目を開けると少太にいがぼくを必死に起こしている。どうやら途中で朽ちたらしい。文翔館のベンチ、というか、地面で。打ち上げから、も一度タージ、から、二人で肩くんでコンビニでチューハイ買って、文翔館。までは覚えている。

・古本屋とカフェが一緒になっている店で山下洋輔のエッセイと、古井由吉を一冊ずつ買う。

2013.8.4 403 『今日の芸術』

08 05, 2013 | 日記2013

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・十年。ぶりくらいに。岡本太郎の「今日の芸術」を。

・もっともまともで、もっとも純粋なことをいう人が異端とされる、というのは「世」がおかしいのか。

・あとで誰かが編集した「〜の言葉」とかいう本でなく、その人が書いた本を読む。ということの重要さ。

2013.8.3 402 『Small Talk』

08 03, 2013 | 日記2013

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・いつもいってる河原が大雨の影響で冠水したのではいれない。近くに海があればいいのに、とおもう。川と海では生まれる曲も違うだろうに。それだけ人は、多分、環境に影響されるものなのだし。

・明日は久しぶりのライブだけれど、どうなるものか。わからない。何の準備もない。準備をしない、ということを怖いと思わなくなった。いや、準備はある。日々のそれがそうだ。ライブだからといって、特別なことはない。だから、準備はあるけど、それがライブのための準備ではない。ん? 違う。それは準備ですらない。ただの日々。だ。

・その場で何が生まれて、何も生まれなくて、それはわからない。大事なのは、そこにいくまでの日々。

・星が見える。やっと。梅雨明けしたらしい。

・Sly&The Family Stoneの「Small Talk」を聴いて感動している。

2013.8.2 401 『実はそうでないところに音楽を音楽たらしめている何かが』

08 03, 2013 | 日記2013

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・大友良英「MUSICS」 第七章「空間」より。

【(略)いつもの自分の音楽を毎回同じように演奏したいって欲求のない音楽家がいたとしたら、場所がまったく違うのに、毎回同じ条件の音を響かせる必要なんてあるでしょうか。「音遊びの会」の子供たちの即興演奏はまさにそれです。こうあらねばならないという目標値がある音楽ではありません。毎回どうなるかは、自分たちでもわからない。もしも乾邸の演奏のときにステージと呼べるようなものが作られ、そこに方向のはっきりするPAシステムがでんと置かれていたら、あの自由な空気は生まれなかったでしょう。逆に、「音の海」のようなコンサートホールでPAや照明がなかったら、あの子供たちの集中力はでなかったかもしれません。確実に、子供たちは空間という条件に反応した音楽を生み出しているんだと思います。】p185 

【もともとの音楽の基本はアンサンブルのような気がオレはしてるんです。(略)音楽が他の表現と一番異なるのは、実はこのアンサンブルの方法の独特さによるんじゃないかと。もちろんソロという形態もあるんだけど、音楽はなぜか本質的に共演者を求めるもので、それがひとりの場合もあれば、ものすごく多くの人間の場合もあるけど、どっちにしても音楽と、いわゆる自己表現のようなものは、実はずいぶん違うもののような気が強くしています。ベートーベンとかモーツァルトとか、あるいはコルトレーンでもいいけど、音楽って自己表現として読み取られることの方が多いんだけど、実は違うんじゃないかって。そう読んでもいいけど、実はそうでないところに音楽を音楽たらしめている何かがあるのではないかって。】p186、187

2013.8.1 400 『「生かし」同時に「殺す」』

08 02, 2013 | 日記2013

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・『風立ちぬ』。

・鳥肌。鳥肌。鳥肌。

・荒井由美の声の『異』。鳥肌。水の中で燃やされる。そのぐらい。衝撃。

・荒井由美のことに限らず。凄い声というのは、「いい」のでなく、「悪い」のでなく、凄い。「生かし」同時に「殺す」。単に「心地よい」ことのいかにつまらないか。

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