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2013.7.29 397 『「お母さんはシェークスピアを読みましたか?」』

07 30, 2013 | 日記2013

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・昨日、サッカーがおわってテレビをそのままつけていたら「今でしょ」の人がでた。初めてちゃんとみたけど、まともな人。とても。今の時代の「先生」というありかたの中では異端だけど。「何かの役に立つから本を読む、というのは最低」「わからない、という時間が尊い」「わかるのでなく、わからない問いを持ちつづけること」「本は何度も読む」「読む人間がかわっていくと読み方がかわる」。「3K」コンビニと、コピー、とあとひとつなんかが人をだめにした。といってた。思い出せない。自分の手で書くこと。書き写すこと。他にもいろいろちゃんとしたことをいってた。子を持つ女親の質問に応えるという形式。質問をした女性に「お母さんはシェークスピアを読みましたか?」と聞いて、女性は「読むわけないでしょ」。っていうこのきりくち。大事とおもう。

・大友良英「MUSICS」あとがきより。

【わたしが音楽をやり、それを言葉にするのは、なにか整合性のある答えを出すためではなく、問いを発見するためかもしれない。こうしなければならない……ではなく、こんなことが起こるのはなんで……という問いの連続が、次の演奏を生む。でも、その演奏は問いの答えのために用意されるのではなく、まあ、いってみれば問いが演奏を豊かにしてくれる……くらいに思ってるのかな。実はこのへんはよくわからない。問いがあるのはわかるけど、それは決して整合性のある答えを求めてるのではないってのだけはわかっていて、結局は、なんだか知らないけど演奏し、またときどきそれを文字にしてしまうって感じだ。】 p,225
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2013.7.28 396 『聴いてなくて、聴いている。フォーカス』

07 30, 2013 | 日記2013

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・大友良英「MUSICS」の終盤は怒濤。だった。感動。またひとり刻まれる。

・周辺視野。をおもう。サッカーを見ているからだ。パスを出すのが上手いひとはこれが発達しているのだろうか。ボールに集中しつつ、どこかで見えている。一度視線をパスを出す方向にうつすのは周辺視野じゃないし、それをやったら、視線で相手に感づかれる。「視野が広い」というのが、比喩的にでなく、言葉どおり、広い。どこか動物的なもの。

・音楽もある。それは聴覚的に。聴いていて、聴いていない。聴いてなくて、聴いている。フォーカス。

・周辺視野的に動く時と、それを破棄してピンポイントに集中する時と、どちらもある。そういうのを実感するのは、ソロの時ではなく、誰かと二人以上で演奏する時。

・ソロの時に意識するというか、強く出るのは「妄音」。全く出て来ない時もあるけど。

2013.7.28 395 『「ふるさと」はどこをいうのだろう』

07 28, 2013 | 日記2013

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・「ふるさと」「Home(かえる場所)」という概念。をどう考えていくか。遊牧民などの定住せず、移動しながら生活を続ける人々にとって「ふるさと」はどこをいうのだろう。

・いきものの持つ「逃げる」という本能の働き。「生」を脅かす危険をもつものからの、逃避。「反射」としての。対象が視覚や聴覚で捉えることができれば「反射」「逃げる」もおこるだろうけど、今回の対象は姿形のない、音も匂いももたない。ただ空気中に漂っている。逃げる本能も働いてくれない。逃げるために必要なのは「知る」こと。

・国道が川。雨がダッシャンダッシャン降って。川を泳ぐ車の水がはねて、私の車の上から降ちてくる。こんな光景みたことない。

2013.7.26 394 『165年』

07 26, 2013 | 日記2013

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・165年。といっていた。NHKのラジオで。「福島の放射能はどうなんですか?」と、質問したのは小学五年生の女の子。放射線の専門家だかなんだかが、それに答える。ホットスポットはあって、差が激しいけど、その専門家が行った場所(放射線量測定値が高い)に再び人が住めるようになるには、165年。「えっ!?」といった。女の子。

・専門家という人たちのいうことが正しいとか、間違っているとか、そんなじゃなく、特に自然を相手にした時には、そんな予測は簡単に裏切られる、ということを実感したにしても、こども相手に「165年」を提示したこの人は偉いとおもう。

・「あんたも、おれも、今生きている人は全員いない世界で、それでもまだ、その場所は人が住めない」ということ。そういうことが起きたんだよ、というのを年月で子供に伝えるのはきついことかもしれないけど、でも、そういうことが起きたんだもの。

2013.7.25 393 『反省はしません。遠い昔にそう決めましたから』

07 25, 2013 | 日記2013

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・「妄音」。言葉が与えられると急に近くなる。それはいつもあった。妄音は演奏音に先行するように浮かんで、実際の演奏音は妄音を裏切っていく。良くも悪くも、、、。そうすると、妄音は「さらに」別のところから降りてきて、わたしはそれに操られるように、うたう。そうか、「それ」に言葉を与えたことはなかったけれど、それは「妄音」という言葉で呼ばれるものらしい。

・カバー。すること。音楽のみならず、言葉も。「今日の付箋」として、それを書くのは、誰かにその言葉を伝えたい、という以上に、自分の身体をつかって、その言葉を書きたいからだ。それは音楽でいうところのカバー、コピー(ちょっと意味合いは違うけど)そういうことかもしれない。これをやってみるのと、やらないのでは全然違う。「読んで」理解することと、身体を通して、指の動きで言葉を再現する、ということには違いがあって、実際に自分の身体(キーボードなら指)を使ってなぞってみると、身体への「刻まれ方」が違う。ように思う。

・昨日の続き。付箋。

 「あなたはステージ上で演奏中に何を聴いて(聞いて)いますか?」(大友良英から共演経験のあるミュージシャンへの質問、アンケート)


・回答者。美川俊治(エレクトロニクス、ヴォイス)

 【(略)自分の音が良く聴こえる時は、他のメンバーの音も良く聴こえることが多く、結果として、「自分としてはいいと思える演奏」に繋がるようです。とはいえ、そう思える演奏は、なかなか実現することは難しく、「今日もすかたんやった」と思うことも多いのですが、反省はしません。遠い昔にそう決めましたから。】p106  (ですが、反省はしません。遠い昔にそう決めましたから、というところ。好き。)

・回答者。高良久美子(ヴァイブラフォン、マリンバ、パーカッション)\

 【(略)以前コンピューターを使った演奏家とデュオで即興演奏をしたことがあるのですが、演奏中に違和感を感じたので、その人を見たら、ただコンピューターの前に座っているだけ。家で作ってきた作品を流していただけだったのです。そこには演奏者としての意志がないわけです。それを事前に知らなかった私は、本番中に演奏する気力がなくなっていくのを止められませんでした。(略)】p113

・高橋悠治の回答もあるのだけど、どこかを略して、書くことができないような気がするのでやめる。この章の回答全部おもしろい。

2013.7.24 392 『水辺に立っている感じで、飛び込むのはたいへん。』

07 25, 2013 | 日記2013

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・今日の付箋。大友良英「MUSICS」より。

・「あなたはステージ上で演奏中に何を聴いて(聞いて)いますか?」(大友良英から共演経験のあるミュージシャンへの質問、アンケート)

——————————

・回答者、菊地成孔(サックス、キーボード、作詞、作曲)

 【(略)しかし、演奏音、非演奏音に次ぐ、第三の音響のエリアもありまして、それは「妄想」という言葉からの転用で「妄音」というか、要するに脳内のイマジネーションの音です。「演奏がこうなれば良い」という、次の瞬間への近視的な欲望というか。(略)妄音は常に一瞬演奏音に先駆けますが、演奏音は妄音を裏切りますし、妄音は演奏音を受けてまた発達しますから、絶対にひとつになることはありません。(略)妄音が(強く)発生せず、演奏音だけがメインに聴こえるような状態は「悪い状態」です。ぼくにとって。】p91

・回答者、竹村延和(コンピュータ)

 【(略)どういう時も道具が生楽器でない場合は、体で直接振動を確認するのが難しい為、ミリセコンドというごく僅かではありますが、スピーカーから戻ってくる音の遅れに、自分の過去のような、死骸のような、影のようなモノを常に聴いています。】p94

・回答者、天鼓(tenko)

 【(略)どうのように聴いているか。私の場合は、音の中にいるようにしています。魚は水の中にいて、泳ぐときに水を意識しない。その中の一部と化していまう、というような。人の出す音をただ聴いてしまうと、水辺に立っている感じで、飛び込むのはたいへん。(略)】p98、99

2013.7.23 391 『抗う術が見当たらない。沈む』

07 23, 2013 | 日記2013

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・ひとつの歓び。ニーナ・シモンに辿り着いたということ。十代の終わりに黒人音楽を聴きあさりはじめて。から十年以上。想像もしなかった。当時の自分にはニーナ・シモンを受け入れることはできなかっただろう。

・上に音楽好きの兄や姉がいるわけでも、親が音楽好きというわけでもなく、だから家のなかに「自然に」音楽が溢れている。なんて環境では全然なかった。ただひたすらに自分の感覚を頼りに探し歩く。そうして触れた音楽や言葉は「与えられたもの」というより、自分で「探した」という思いが強い。そして、ぼくはそれでよかった。先に生まれたものの小さな使命感というか。切り開く。なんて大げさなものではないにしても。

・「共感覚」。数字をみて色を感じたり、色から音を感じたり。高橋源一郎がいっていたのは、「詩って、ゆっくり読むとどれもつまらない。唯一、ゆっくり読んでもおもしろい、と感じたのは宮沢賢治でした」。彼は胎教として、奥さんの大きなおなかに向けて、詩をゆっくりと朗読していて、大抵の詩はゆっくり読むとつまらなくなる、ということを発見したらしい。けれど、宮沢賢治の詩だけはちがって「彼(宮沢賢治)は、言葉を紡ぎながら、音楽が聞こえていたのでしょう」と高橋源一郎はいった。というのを、何だか思い出したので、メモ。

・強力な睡魔に襲われている。抗う術が見当たらない。沈む。

2013.7.22 390 『「こういう味はそうやってしかつくれないんだな」と食べた人が実感したならば』

07 23, 2013 | 日記2013

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・ある種のたたかいは政治では解決できない。というか、根本を変えていくのは政治の出来ることじゃない。いくら政治の力で「小さいことに歓びましょう」といってもそれはできない。音楽や小説(芸術の力)にしかできないことがある。人の意識を底から支えるのはそういう表現の力。とは思うけれど、それは広く、多くというわけにはいかない。広く、多く(浅く)という側につくということは結局「体制の側」につくことだから。だから多分、今の日本に溢れているのはたたかいを忘れた「体制側」の音楽であり、言葉なのだろう。と思う。

・たとえば無農薬の材料だけでパンをやくことだって、ひとつのたたかいであって、けれどそれは、食べてもらうしかないので、広く、多くに伝えようとしても限界がある。でも、そのパンを食べて「こういう味はそうやってしかつくれないんだな」と食べた人が実感したならば、その食べた人の考え方はどこか少しかもしれないけど、変わる。たたかいというのはそういうこと。だ。終われない。

・音楽にしてもそうでぼくの「歌にもならない溢れた日々の」は小さくて静かだけれどたたかいの歌。だ。小さなことをうたって、これ以上になにかいるだろうか? を提示して、「そうだよね」という風に感じてくれる人がひとりでもいれば、何かが変わる。直接的なものだけがたたかいではない。——いや違う。な。多分。これほど直接的なものはあるのか?

・そしてそういう種類の静かなたたかいはこれまでもあったし、これからもずっとある。それは死なない。

2013.7.21 389 『五億年前 植物は海中から陸上へ』

07 22, 2013 | 日記2013

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・五億年前 植物は海中から陸上へ そして「花」という器官をうむ 生存戦略のための色 人間と昆虫の視覚のちがい 昆虫には紫外線がみえる 花に紫外線が反射 紫外線のいろをつける 周囲から際立つ 受粉を昆虫にたすけてもらう フラボノイド 紫外線から細胞を守るための物質——(テレビを見ながらメモ)

・立川談春さんの落語の一席目。終わり方に感動した。オチをつけずにおわった。あの演目はもともとああしておわるものなのか、彼の選択の結果なのかはわからない。尻切れとんぼのように終わる。そういう終わり方を選択するということはじつは難しい。最近書いている、起承転結(オチによって物語が閉じる、しまる)でなく、オチをあてにしないということは、それまでの話が強度を維持されている(場面場面がおもしろいという)必要がある。そして、そうであれば「別に終わりかなんてどうでもいい」ということ。

・保坂和志のデビュー作で担当から「文芸誌にのせるには少しながいので、推敲で、短くカットしてくれませんか?」といわれたのに対して、保坂和志は「じゃ、その文字数のところできってもらってかまわない」といった。という話を思い出す。ストーリーや起承転結に頼る小説ではこんなこといえない。

・それから、そういう考えを保坂和志に与えたという、山下洋輔トリオのフリージャズライブ。いや、違った。山下洋輔がみにいったフリージャズのライブだ。誰だったか思い出せない。演奏が何十分も続いたところで突然ひとりが演奏をやめて、ステージをおり、つづいてベース(だったか)がステージをおり、最後にドラムが「えっ?」という感じでのこって少ししたあと演奏をやめてステージを降りた。それをみて山下洋輔は「すごい演奏であればどこで、どう終わってもいいんだ」というようなことを感じてエッセイに書き、それを読んだ保坂和志が感動して、それが考えとなって、それで「じゃ、その文字数のところで、、、」でという発言になる。そして、今度はぼくがそれを読んで感動する。

・それでぼくは談春さんの一席目の終わり方に感動した。もしかしたら「まくら」の部分が長かったので、時間で切ったのかもしれない。「時間で切る」というのもすごいこと。

2013.7.20 388 『どうしても脱いでしまうらしい』

07 21, 2013 | 日記2013

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・午前中で仕事を終え、仙台へ「立川談春独演会」を体験しに。おわって酒を少し。電車が「火災」でとまったらしく。火災? 駅員がそういうのだからそうなのだろう。他に「かさい」に当る字、それが電車のとまる理由になるような字がおもいつかないので「かさい」はやはり「火災」なのだろう。

・そのせいで嫌いなバスで帰ることになってしまって緊張した。通路まで人で埋まってしまって少しパニックになりそうになったけど、そこはお酒もはいっているので、おちついてねよう、ということで起きたら終点近くまできていて安心した。バスを降りて反対側の歩道で黒人が狂ったように歌っている。歌かもわからないようなもので、あれはこわい。

・バスを降りたらなんとなく酔いがさめたので、タージに寄って軽く飲む。駅の西口にある喫茶店だった場所にレコード屋ができたらしい。なかなか品揃えもいいよ、とマスターはいった。DJもやってて、有名な裸DJらしいよ。とマスターはいった。全裸DJといったのかもしれない。忘れた。どうしても脱いでしまうらしい。

2013.7.19 387 『今日も、机に向かうと、全部』

07 19, 2013 | 日記2013

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・動画から受けるもの。音楽は聴覚だけでない。そして、聴覚を持たないものへ音楽は働きかけないのか。予想として、そんなことはないだろう。と。

・ラジオで高橋源一郎とゲストのやりとり。おもしろい。「小説家は小説の書き方を自分で見つけていくしかない」と、そんな風な。

・「書き方」や「歌い方」やなんでも。を「習える」と思っている。軟弱なやつら。さよなら。

・探し続ける。ことしかない。

・今日も、机に向かうと、全部とんだ。そして眠い。

2013.7.18 386 『「今こそ」もなにもなく、はじまりからおわりまで、ずっと「たたかい」だ』

07 18, 2013 | 日記2013

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・ニーナ・シモンが届いてかけると、おもったよりずっと凄くて、日中にカフェで考えていたことや、なんやらが全部飛んでしまったようで、それで、困っている。いや、別に困らない。何かを「体験する」というのはそういうことだ。から。

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・と書いたあとに時間をかけて書いたものを消した、、、。

・歌うべきことがある(言葉として、メッセージとして)という人間しかうたうことが出来ないのか。そんなことはない。音楽がそんな「術(すべ)」としてしか存在しない。などということはない。

・「ようやく表現すべき時がきた」と嬉々としている人たちもいるだろう。けれど、たたかいはずっとつづいてきたわけで、それをつづけてきた人間にとっては、「今こそ」もなにもなく、はじまりからおわりまで、ずっと「たたかい」だ。

・とはいっても、それ(音楽の在り方)を考えることとは別にひとつの局面ではある。選ぶことの。

2013.7.17 385 『おとこがひとり森のなかにいる。夜の森』

07 18, 2013 | 日記2013

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・音楽熱。祈り。

・再起動。目をとじて。ひらく。

・意志が先行する。でなく。先に場所。

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・おとこがひとり森のなかにいる。夜の森。枯れた木をひろいあつめ火を焚きつけると夜の暗さがすこしだけ緩む。大きな皮の袋からとりだしたのは太鼓で、火の前に座ると叩きはじめた。鳴り起こったのは奇妙な聴いたことのない音の流れ。わたしが? そう。わたしの聴いたことのない音。

 はじめにやってきたのは夜行性の小動物たち。木の陰にかくれておとこの様子を見つめている。やがてその奇妙なリズムにとけるように火をかこんで踊りはじめる。つぎは森の大きな動物たち。眠りについていたものも目をこすりながら少し様子を眺めると同じように踊りはじめた。眠る草木も目をさまし、石ころたちも転がり踊る。森の精霊や死んだものたちの魂まで。最後には森までも踊りだした。わたしは? もちろん。あの音を聴いてじっとしていられるものでしょうか。

 森じゅうのあらゆるものたちが踊り、その足音と笑い声は、静かな夜の海のうえで眠る大きな丸い月を揺らした。月光が揺れる。静かな夜の海。遠くで。

2013.7.16 384 『手をつけずにいたバナナはそのまま残っていた』

07 16, 2013 | 日記2013

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・ようやく「戻ろう」という兆し。「そっちじゃないよ、あなたのゆく道は」という声。途切れたぶんは遠ざかる。遠ざかってしまったぶんは取り戻せない。また新たに。だから、きっと「戻る」のではない。別の場所へ。

・聴くことからも遠ざかっていた。注文してしたニーナシモンはまだ届かない。今日。まだ歌は聴けそうにない。「聴きたい」と身体が要求してこない。だから、ピアノ。近くにあったのがそれだったので、「Portrait In Jazz」。二曲目の、お互いを探って、探って、仕掛けて、そこからの「あれ」。「あれ」っていってもどうしようもないけど、「バーン」とか「ドカーン」とか、そんな幼稚な言葉しか浮かばないのだもの、、、。とにかく、ミュージシャンとして、あんな一瞬を体験することができたら、「死んでもいいんじゃないか」というくらいの一瞬。何度聴いても凄い。

・大友良英の「Musics」を読んでいる。四章くらいからいい。このあたりから、一気に前のめりになるように、読む。

・畑に運転席の窓を全開にして車を停めていて、仕事終わりにドアを開けると、車内のビニール袋にいれていたゴミが散乱していて、おそらく野良猫かカラスでしょう。小さなビニール。今日食べたカップ麺の入れ物や、昨日のバナナの皮や、ガソリンスタンドのレシートや、コンビニのおにぎりの包装や、、、。

 猫だろうか、猫。カラスだったら声で気づきそうだし。猫、ということにしよう。何か食べられるようなものはあったろうか。手をつけずにいたバナナはそのまま残っていた。猫。バナナ持っていきゃよかったのに。猫。バナナは食べないのか。猫。

『ひねくれものは歌う』

07 16, 2013 | Liveのお知らせ

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・八月からライブを再開。やります。

 決まっているのは、ホームと勝手に思っている山形Bar Tarjiと鳴子の「郷鳴祭」。郷鳴祭は三度目。毎度誘ってくれる。誘われる限りずっと出たい。と思う。「人」です、「人」の繋がりです。

 それぞれ8月4日(日)と8月31日(土)。

Bar Tarji

郷鳴祭

 ひねくれものは歌う。

2013.7.15 383 『「未来」の影響を受けて「過去」が起こる。という時間の在り方』

07 15, 2013 | 日記2013

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・「過去」の影響を「現在」が受けるのでなく、「未来」が受けるのでもない、「未来」の影響を受けて「過去」が起こる。という時間の在り方。その線的でなさ。

・ソーダのペットボトルが目の前にある。ボトルには「そのまま飲んでも、おいしい ソーダ/0カロリー」という印字。こういうのを「いちいち」表示する、ということが売り上げに繋がるということだ。「目」に。原材料名「水、二酸化炭素」。これでカロリーが生み出せるのなら、人は食べなくていい。餓死することもない。馬鹿にされているのと同じくらい当たり前のことを「いちいち」表示されないとわからないようになっているのだろうか。それでもこうして表示する会社が増えているというのは、その馬鹿さにつけこんで「売れる」から。

・問いが「正しい」「正しくない」という答えをもたないとしても、「正しい」「正しくない」ということとは別に「選ぶ」ことをしなくてはしょうがない時がある。一生答えがでなくてもいい、という問いと共に生きることと、選択することは別。選択したことが「正しい」か「正しくない」かではなく、選ぶ、ということ。

・ニーナシモンのアルバムをまた一枚Amazonで注文した。「very best of」。映画の挿入歌で使われていたのを聴いて「あ、ニーナの声だ」と思って、エンドロールをみたら、タイトルがのっていたのでしらべて注文。いろんなベスト版があるけれど、選曲がよさそうなのでこれを選んだ。もちろん挿入歌で使われた歌が入っているものを。久しぶりのCDの注文。そろそろ音楽に戻る。

2013.7.14 382 『であればいっそ天に向けて』

07 15, 2013 | 日記2013

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・「自分でつくったきゅうり」などと書いて思うけど、別にぼくがいなくともキュウリは育つわけで、ぼくがやっているのは、「眺めている」とか「見守る(というと変か)」とか「そこに流れる時間をみつめる」とか、ただそういうことのような気がする。

 収穫した野菜を食べることの歓びももちろんあるけれど、その過程に歓びを感じる。結果(野菜の味、形、収穫量)から導かれて生まれる試行錯誤の時間も。おもしろい。

 「自分でつくるより買ったほうが安い」という考え方しかできない人にとっては結果こそが重要であって、そういう人はそこに至る過程を歓ぶことはどうやらできないらしい。けれど、そういう時間の真っ只中にいること。過程を、試行錯誤を。そういう時間の中に生きることは、、、なんといえばいい、、、か、わからないけど、それでいい、それがいい。それを歓びたい。


・誰かを抱きしめたい、とおもったが、私にはその腕がない。

・彼は火を託そうとしたが、手を差し出すだれのロウソクにも灯りは点かない。全く別の時間の、別の場所で、ロウソクが、ふいに一つ灯る。踊るように揺れている。

・少数の少数の少数。であればいっそ天に向けて。

2013.7.13 381 『ただ音を音として聴く』

07 14, 2013 | 日記2013

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•何かを書こう。というのが最近文章にでていて、自分につまんなくなる。

•音楽が何かつたえたいメッセージを運ぶための媒介でしかないとしたら、、、。

•と書いて、やっぱり何かを書こう、という感じがでる。でてしまう。

•言葉をもたない音楽ですら言葉に変換してしまう癖があるのが人間で、ただ音を音として聴くというのはある程度訓練が必要かもしれない。

2013.7.12 380 『大げさで、実体のないものより、自分でつくったキュウリの質量をその手に感じること』

07 13, 2013 | 日記2013

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・ナスの葉や茎を移動する虫はてんとう虫の幼虫で、葉についたアブラムシを食べる。ということが調べてわかった。てんとう虫は野菜をつくる側にとっては益虫で、だからそのままにしておくのがいい、ということらしく、そのままにすることにする。

・そもそも。なんで景気がよくならないといけないのだろう。よくならないといけないような流れとか雰囲気になっているのだろう。なんで? ときかれてもぼくは答えられない。他の人たちはそれに答えられるのだろうか。金ばっかり。その考えからどうやって抜け出すか。景気よりもっとあるはず。あんな悲惨な場面を見ているのに、また原発を、って、やっぱり頭がおかしい。強い経済。なんてのもわからない。そんなもの望んでいる人がどれだけいるのか。少なくともぼくの周りにはいない。

・前にも書いたけど、こういうのは人がいるんじゃない。システムがシステムのみで動いているように思う。人がそれをつくっているのでなく、その中心に人がいるのでなく、システムが人をのみこんでいる。

・これ以上なんもいらない。という場所。そういう瞬間。小さな場面をたくさん集める。大げさで、実体のないものより、自分でつくったキュウリの質量をその手に感じること。

2013.7.11 379 『桃の産毛が肌に触れると痒い』

07 12, 2013 | 日記2013

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・時々強く降る雨の中で、桃の摘果作業をする。桃の産毛が肌に触れると痒い。Tシャツは、帽子は、雨に濡れて重い。

・「このひとはどうやって食っているんだ?」というような人が好きで、だから別に「きちんとした仕事」をして、会社で偉くなって、なんてことに惹かれない。「働いている奴が偉い」なんてことも思わない。

・録画した「笑ってこらえて」をみた。ジブリ。感動した。変で、かわいらしくて、かっこいい。同じ「仕事」にしたって、ああいう人たちは「家族のために働いてるんだよ」などという言葉を盾にすることはないだろう。

2013.7.10 378 『選挙じゃないんだから、「多い」なんてことはどうでもいい』

07 10, 2013 | 日記2013

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・スタジオ・ジブリ関連のテレビはなんとなく録画するようにしていて、今日もしている。途中まで録画しながら見たけれど、絵の色を決める人が登場したところで、これはあとでじっくり見なければいけない、と思って、こうして書いている。

・やりたくもないことで、きついのは面倒だけど、やりたいことで、きついのは別にいい。というか、きつい、と感じるだろうか。それですすめるのならば。だいたいのひとがやりたくもないことで、きついから、きつい。ので。やりたいことをやったほうがいい。という、ただそれだけ。だ。

・たまにおもうのは、「家族のために汗水流して働いて」とかいうけど、それで、家族といる時間もとれず、働いている側は「家族のため」とかいう、多数の支持を得られる「言葉」をもって、それで、一緒にいる時間を取れないことも正当化されて、、、って。おいおい。と。

 選挙じゃないんだから、「多い」なんてことはどうでもいい。最近話しをする友人は、「家族サービス」という言葉が嫌いだ。といった。「サービスってなんだよ、どこかにいくとしたら、家族サービスでいくんじゃなくて、俺が行きたいから一緒にいこう、っていうよ」といった。大事なのはそういうことだと思う。「家族のため」も「家族サービス」という言葉も、どこか「家族そのもの」を置き去りにした場所から語られる言葉。のように思う。「働いてる奴が偉い」みたいな。くだらない。


・そういう「家族のありかた」みたいなものが変わっていくべき時なんじゃないか。とは思うけど、それが具体的にどう、とかはよくわからない。でも、「収入が増えるっていったって、それは、忙しくなるだけじゃねえかよ。そしたら、こどもと一緒にいれねえべ。」というような在り方が過去にもあったはずで、別にそれがいいとかいうわけじゃなく、選ばなくちゃいけない、ということなのだろう。多数でなく、だからといって別に少数でもなく、そんな数字に縛られず、ただ大事なほうをちゃんと選ぶ、というただそれだけ。その場所を揺らがない、というそれだけ。

2013.7.9 377 『空から虫が降ってくる』

07 10, 2013 | 日記2013

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・空から虫が降ってくる。巨人戦が山形で。それがだいたい六十年ぶりくらいだったらしい。見慣れた球場で、プロの選手たちがプレーしているのをみると、プロ選手の動きの凄さがよりわかる。坂本は綺麗にトンネルしたけど。五回をすぎたころには、夕日も沈んで、球場のライトだけになって、それで空は虫に覆われて、時々虫が落ちてくる。隣にすわっていたカップルの女は「もう無理」といった。

・スポーツのプロと音楽のプロは違う。全然違う。「売れそう」であればプロになれるのが今の日本の音楽業界の現状、、、。本物ももちろんいるけど。

・ゴーヤの一番果を収穫。雌花がどんどん咲き始めている。

2013.7.8 376 『土砂降りの雨。と打って。打っておいて、ぼくが思い浮かべた字は「どしゃぶり」だとおもった』

07 08, 2013 | 日記2013

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・土砂降りの雨。と打って。打っておいて、ぼくが思い浮かべた字は「どしゃぶり」だとおもった。ペンでは書くことが出来ない漢字も(土砂降りは書けるけど)、タイピングでは書ける。書ける、といえるのかどうか。どこか嘘くさい気がして嫌。とも思う。

・どしゃぶりの雨。ただでさえどしゃぶりで、大雨警報やらが出ているのに、ビニールハウスの中にいると、それがもっと激しく降っているように感じ、それは「どしゃぶり」どころではない。近くにいる人の話し声すらまともに聞き取れず、なんとなくかけていたラジオでアナウンサーの話す声も、流れる音楽も、聞き取れない。ビートだけは微かに感じる。

・宮崎駿はストーリーをもたない。起承転結だって持たないだろう。くだらない刷り込み。それによる「よい」とされるもの。その一つとしての起承転結。それはやはり刷り込みでしかない。引用でも書いたことがあるが、「つくる」ということは「最初から」つくる。

 は? といわれるかもしれないが、終わりからの逆算ではなく、初めの一歩を踏み出して、そこから先はつくる人間も自分に、あるいはつくっているその「何か」に翻弄されるようにつくる。そうであるから、宮崎駿は「魔女の宅急便」の主人公のイメージ画で「大きなリボン」をつけている少女、が浮かんで、喫茶店のナプキンにかきとめた時に、「これで映画がつくれる!」と思えた。もちろんその時にもストーリーが浮かんでいるわけではない。初動。その方向。それだけが決まっていて、あとはどうなることか、本人さえわかっていない。


・こういう考え(つくりかた)を、ぼくはすんなり受け入れることが出来る。何度も書くが、「ストーリー」、「物語性」、「起承転結」、というものではなく、場面場面の「強度」によって運ばれていく。そういうつくりかた。

2013.7.7 375 『問いはさらに遠くからやってくる』

07 07, 2013 | 日記2013

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・信頼する人間(音楽家、作家)が「凄いよ」とすすめるものに接して、どこがどう凄いのかわからないというような時。「まだ自分にはそれを受けることができないのだな」という思いになる。それが、信頼する人でなければ、「これのどこがいいんだよ、馬鹿野郎」ですむことだけれど。

今現在の自分の受け皿で受けきれないもの。そういうものがある。そういう時に今の自分の基準でそれを遠ざけてしまう、というのも違う気がする。とはいえ、無理する必要はなく、距離をとればいいのだとは思うけど。最初は「わからん」と思ってほっておいた作品にある程度の月日が経った時にもういちど触れると、「あれ? 凄い」と感じることがある。そういうときぼくは嬉しくなる。本でも、音楽でも。前提として自分が「凄い」と思う人たちが「凄い」といっているものに限るけど。


・読めば読むほど、問いはさらに遠くからやってくる。それは問い自体が深まるから。知れば知るほど知ることが出来なくなる。だから終わらない。過程しかない。

・キュウリの元気がなくなってきて、どうやら肥料過多かもしれない。ナスはここにきてどんどん成長して、たくさん実を付けている。ゴーヤは一番果が徐々に大きくなって、でもプランターの陰に隠れるように実っているから大きさの確認がしづらい。それ以外にも雌花が盛んに咲き始めていて、小さな小さなゴーヤの実がパっと見ても確認できるようになってきた。

2013.7.6 374 『「生きた心地がしないですよ」と彼はいった』

07 07, 2013 | 日記2013

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・現在の立川志の輔を基準に落語をみる。ということがどういうことなのか。落語のことはよくしらないけど、「ものが違う」ということは感じる。

・打ち上げの席でお弟子さんのひとりの隣に座って話をする。お弟子さんたちは、飲み物を運んだりするために端に座って酒はのまない。師匠の前では酒も煙草もダメ。師匠の前にお弟子さんが一人前座をとる。地方公演の時はだいたい二人のお弟子さんがつくらしく、どちらが前座をつとめるのかは、師匠である志の輔さんが、本番の五分前に決めるらしい。「生きた心地がしないですよ」と彼はいった。

・久々にたっぷり酒をのんだ。もちろんきっちり二日酔い。

2013.7.5 373 『と思った。のではない。』

07 05, 2013 | 日記2013

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・「それ」は朝四時すぎに山道のうえに転がっていて、ハクビシンかともおもったけど、近づいてみるとタヌキだった。タヌキの死体はこちら側の車線の真ん中に綺麗なうつ伏せで、置かれてある。置かれてある、というのは変な言い方かもしれない。けれど、「道路の端にあると、市がもっていってくれないから、道路の真ん中に置かないと駄目なのよ」とその人はいった。だから、タヌキはどこか別の場所でひかれて、そこに置かれたのかもしれない。綺麗なうつ伏せだった。

・ハクビシンはサクランボを食べる。どのようにして食べるのか、はわからない。ビニールハウスの棟と棟の間にはしらせてある雨どいの上に、サクランボの種が固まって落ちていることがあって、それはハクビシンの糞。十個くらいの種が固まってころっとある。なんの匂いもない。それで、朝、山の畑のすぐ脇の道路の真ん中になにか黒いものが見えたときハクビシンか、とぼくは思った。

 ハクビシンは白鼻心で、字から想像できるように、鼻から額にかけて白いすじ状の模様がはいっている。「それ」には白い模様はなかった。それで、ハクビシンじゃない、と思った。のではない。そう思う以前に、その言葉が頭に生まれる以前に、その顔が「タヌキ」だったので「タヌキだ」と思った。

 (というように、書きながら、書いたことを訂正する。そういうのは結構おもしろい。と思う)


・今日はこれから立川志の輔さんの落語会の手伝い。

2013.7.4 372 『こども時代より自由』

07 04, 2013 | 日記2013

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・言葉によって出来た枷を、別の言葉によって振り解く。

・こどもの闊達さ。を再インストール。

・こども時代より自由。

・自分が自分を置いてけぼりにする。遠くへいく自分を見つめる自分。どこかで自分に突き放されることを望む、自分。

・録画していた高橋源一郎の「旅のチカラ「“死”が与えてくれる力を探して~高橋源一郎 イギリス~」」をみたけれど、眠気に勝てずに途中で寝てしまったので、明日もういちど見よう。他に、録画していた「世界一受けたい授業」で宮崎駿の映画の作り方、みたいなのをずっと見ようとおもっていて、忘れる。忘れている。明日みよう。

2013.7.3 371 『どこか「つくりもの」めいていて』

07 03, 2013 | 日記2013

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・島にただひとりの二十歳以下の女の子がいて、その子がひとりでブランコにのっている。その背景にかかる音楽。それが、いかにも「彼女は寂しい」のだ。というつくられた印象を刷り込む。「ひとりというのは寂しい」ことだ。と。いうふうに。そういう風に感情をコントロールされて、ある一つの流れに誘導されてしまっている、その危険性はやはり認識しないといけないよな、とおもう。彼女自身「少しは寂しい」ということをいっていたのだから、それはありのままの感情かもしれないが、だからといって、「人はひとりでは寂しい存在だ」とか、友達がたくさんいてわいわいやることを「人間全員が望んでいる」ように、語られてしまうと、アホか。とおもう。

・こうして書いている今はまだ外が明るく、七時を少しまわったところ。

・小学生のこどもたちに「偽日記」を書かせた、と高橋源一郎はいった。「こどもの想像力」を目の当たりにしたらしい。デタラメの日記を書く、という課題を小学生にだした。ひとりを除いて、小学生たちの書いた日記(偽の)は想像力に溢れていて、驚いた。ひとりを除いて、というそのひとりの小学生は「読書家」だったらしく、高橋源一郎のだした課題の「意図」を感じ取れる子で、だから、そこに書かれていた文章はどこか「つくりもの」めいていて、その文章を高橋源一郎はおもしろいと感じることが出来なかった。ということらしい。

・わかる。わかる。けど、読書家だったこどもが大人になってその枠、枷を外すことが出来るかもしれないし、逆に、小学生時代にはおもしろいことをできた人間がその先ありきたりなことしか出来なくなることもある。ぼく自身の課題でもあり、何度も書いていることでもあるけれど、振り解くこと。勉強すればするほど、枷は増えて、自在な動きを邪魔する。それを振り解こうとするたたかいこそが重要であって、小学生時代の自在な躍動を「失わない」のでなく、もう一度「取り戻す」ということに近い。誰だって、一度は失くす。失くすことを強要されるのが、今の社会だから。

2013.7.2 371 『「ほんとうに聞かせたい」人を集める』

07 03, 2013 | 日記2013

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・地元の教育委員会主催「TAIKEN堂」にて高橋源一郎さんの講演会。講演の内容以前に、聞きにくる人の集め方。というか、それがとても気になる。役場主催ということではあれが限界か、とも思うけれど、、、。ひとことでいえば「もったいない」。

・本当に聞きたい人が集まる。あるいは、呼ぶ側の人間が、その人の話を「ほんとうに聞かせたい」人を集める。その濃さ。

・打ち上げで呑む。次の日の仕事のためにセーブしながら酒を呑む。ことにやっぱり向かない。

・ゴーヤがいつのまにか大きくなっていておどろく。

2013.7.1 370 『人間だけが、生殖行為と歌を切り離すことが出来る、のか、どうか』

07 01, 2013 | 日記2013

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・プログラム。人間が人間ではなかった頃の記憶。それを人間はまだどこかに残していて、だから、人間の目もきっと白くて色味のない実、よりも、赤く輝いている実や花に目がいく。植物が種(しゅ)を維持していくためにもっとも有効だと「思考した」結果の「色づく」という行為。人間の思考と同様に、サクランボの思考はあって、それは色づいて、「引き寄せる」ということ。人間だって、ある。引き寄せること、それが身体の思考のようにも思える。

・前にも書いたかもしれないけど、「うた」というものに対する、敬意というか、「上手に歌う個体」への、理由もない敬意。みたいなものは、やっぱり動物時代の名残なのではないか、と思う。けれど、そこから転換が起こる。人間は「上手」なだけでは済まされなくなった。というか、「上手くある」ことよりも重要なものが生まれた。それは「言葉」の作用だろうか、、、。

・毎日あらゆる畑でキジが鳴く。鳴き声を聞かない日はない。派手な身なりをしたオス鳥が言葉にあてはめると「ケーン!!」というように鳴く。もちろん、「ケーン!!」では表せない音なのだけど、あえて書くとすれば「ケーン!!」になるか。メスを誘っているのかどうか、わからないけど、たぶんそんなところだろうと思う。あれもオスキジたちの歌なのだろう。人間だけが、生殖行為と歌を切り離すことが出来る、のか、どうか、わからない。完全に切り離されているわけでもなく、鳥たちの歌と同じというわけでもなく、「言葉」がそれを複雑にする。のかどうか。わからない。

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松沢春伸の日記

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