2013.5.31 333 『何を書いたか一切覚えていない状態で』

05 31, 2013 | 日記2013

0

・風呂に浸かりながら思う。ライブをいつも同じクオリティーで出来る人。って好かん。「プロたるもの観る人が変われど、いつも同じクオリティーを提示しなければならない」って、アホくさ。毎度、毎度、同じことを繰り返して、客が変わったとしても、同じ印象を与えるような表現。それって、結局何もしてない、ということじゃない? 何も動かさないってことじゃないの?

・それが、表現する立場の人間に留まらずに、場所を提供する側の人間もそういう考え方だとすれば、もっとややこしくなる。というかつまらなくなる。

・なすやキュウリの成長具合がその日の気温や、湿度や、水の加減に作用されるのと似て、人間だって、いろんな環境に影響を受ける。それを無視して、毎度毎度同じものを提供することができたり、提供することを要求したり、というのは、どこかおかしい。そこでうまれるものなんて、機械で大量生産されるような、うまいともまずいとも、いいとも悪いとも、おもしろいともつまらないともいえないような代物。じゃないか。

・日記を書いていると思うことがある。「今日は何も動かないな」とか「お、今日はなんだか挑戦して、すこし何かが動いたかも」とか。けれど、日記だから、訂正は出来ても、削除はできない。動きのなかった記事もそのままの形で、日記として残る。つまらない、からといって、削除できるわけではない。

 ライブ、や表現をそういうものと捉えるならば、もちろん、日によって、出てくるものが違って当然。言い訳としていっているわけでも何でもない。もし、ぼくが聴く側にたったとしたら、毎度毎度、何の変化もない何かを提示されるよりも(というか、そんなのその瞬間にあきてしまうのだから、「次」も「毎度」もない)そのつど、の印象がとてつもなくズレて、一回だけでは、はかりきれなくて、「今日は何だかな」とか、「今日はすごかった」というようなものに接していることのほうがずっと面白いと思うのだけど。


・いつも同じクオリティーで、という発想は、やる側(演奏する、書く側)ではなく、それを受ける観客の立場にたって(それは「うけのいいように」といってもいいと思う)組み立てられる。けれど、ぼくがやりたいのはそういうことじゃない。ぼくはぼくのクリアすべきことをやって、そのなかで、何か見知らぬものが自分の中から(外から与えられて)うまれてきて、それがぼく自身を置いてけぼりにしていくような、そういうものを提示したい。

 それがおもしろいと思われるか、どうかなんて知らない。けれど、本当の意味で、観客(受け取る人、それは数としては少ないとしても)に何かを届けるならば、そういう「強度」こそが必要だと思う。そういうものをやるからこそ、全員なんていえるはずのない、その場にいる数少ない誰かが「この人はなんなのだろう?」という興味をだいて、「また聴きたい」と思ってくれる。のだと思う。

——————

・と、ここまで風呂上がりに一気に書いて、夕飯を食べた。何を書いたか一切覚えていない状態で。今見た。別にいいや。眠る。

2013.5.30 332 『「井戸の中の太陽」という名の一冊の本』

05 30, 2013 | 日記2013

0

・頭が混乱している。グラグラと揺れている。ある小説を読んだから。気持ちが悪い。コーヒーを二杯飲んだから。隣に座る女の組む足が文章を追う目の片隅に入る。目も、鼻も、耳も、健全に働いている。けれど、外の天気を判断するには、今は目からの情報に頼るしかない。ガラス越しには、匂いも届かず、音も聞こえず、ただ、雨の粒だけが落ちる。雨だ。雨に違いない。

 「30326粒です」「何が?」「雨が落ちました」「どこから?」「目の前の屋根から落ちました」「いつ?」「あなたが本を読んでいる間」。目の前に座っていたはずの、若い女二人は、今は六十歳を越えて、そのうちの一人は男になっている。店を出ようと立ち上がる。大地はまだグラグラと揺れている。扉を開けてガラスの向こう側に出ると、雨の匂いと、音が、ようやく鼻と耳を通して入り込んで。雨が降っていた、ということだけは本当らしい。


・【穴の空いたおんぼろギターと 酒瓶がひとつ それに「井戸の中の太陽」という名の一冊の本 それだけを手に、、、 ホーボートレイン 進んでゆこう 古い鎖を断ち切りながら ホーボートレイン 進まなければ 冷たい雨が降り注いでも 連れて行ってくれ 未だ見ぬ古き良き友のもとへ 導いてくれ 未だ見ぬ新しい世界へ 】 Hobo Trainより。

2013.5.29 331 『「何か」を自発的に殺されにいくようなことをしているのに』

05 29, 2013 | 日記2013

2

・いまだに、というか、おそらく、これから先もずっと理解できないだろう、と思う種類の人間がいる。何かをやるにあたって「習いたい(習わなければ)症候群」の人たち。例えば、歌をうたうにしたら「ボイストレーニング」にいこう、という奴ら。絵にしても、詩にしても、どこかに、金を払って、習いにいくという人たち。の考え方。全く理解できない。

・音楽であれば、聴くことが先だ。聴くことができれば、そこにいろんな手本がある。それを、真似したり、違うな、と思ったり、しながら自分の感覚と対話しながらやっていけば、それでなんとかなる。最初から誰かに「習う」って考えの人はそもそも、見たり、聴いたりしていない人たちだろう。だって、習うといったって、その先生が、ディランより凄いでしょうか? サムクックより凄いでしょうか? 単純にそういうことでしょう。

・大体にして、そういう場所にいる先生というのは、「何か」を殺すことしかしない。その人特有の「何か」を殺して、画一化することがその人たちの仕事であって、「何か」を自発的に殺されにいくようなことをしているのに、それに気づきもしないで、単に「技術」ばかりを得ようとする人たちを、ぼくは理解できないし、する気もないし、興味もない。

・だいぶ前に、メロン農家の人が海パン一丁で、作業をしていて、「何でそんな格好で作業するのですか?」という質問に「この方がメロンの気持ちがわかるから」と答えて、それに感動した、というようなことを書いたけど、やっぱりそういう人にならなくちゃいけないんじゃないか、と思う。こんなやり方は、どの「先生」も教えてくれない。今の社会の中では、否定されて、矯正されるようなものだ。だけど、そのメロン農家のおじさんにとっては、それこそが、メロンの気持ちを分かる方法であって、それ以外にない。のだ。形や、方法が違えど、表現するという場所にいく人は、その人の持つ特有の「何か」を殺されてはならないでしょう。どれだけ、人に「頭、大丈夫?」といわれたとしても、自分の中にある「何か」を、それを殺されてはならない。

・関連して、ずっと思っていることだけど、やっぱり、「受ける」ことを、きちんとしたレベルでできない人は、「発する」側にたてない。と思う。

2013.5.28 330 『次に何をつなげたら面白いかなというその原動力だけで』

05 29, 2013 | 日記2013

0

今日の付箋。

【——だいたい、何かを書いたり創ったり表現したりする人が「いま」という時代に信を置くことが間違っている。「いま」という時代が嫌いで、「いま」と距離を取りたいと思っている人を自分の読者や観客に想定しているはずで、そういう人たちの人数が多いはずがないではないか。何かを書いたり創ったり表現したりすることは、本質的に「未だ見ぬ者に向かって」なのだ。「多数=売り上げに向かって」ではない。】 保坂和志『小説、世界の奏でる音楽(中公文庫)』 「10、遠い地点からの p463」より。

【オーケストラで、もしひとりの奏者の立場で考えてみるとですね、自分は大きな建築物の、建造物のひとつの細胞にすぎないんですね。だから隣の人がやっていることと自分がやっていることの関係がまずわからない。それから自分が全曲の中で、曲の中でいったいどこにいるのか何の役割をはたしているのかもわからない。(NHK教育の「N響アワー」での加古隆の発言を保坂和志が書き起こしたもの)】 同 p486

【『肝心の子供(磯崎憲一郎)』の書き方は、ここで言われている演奏者の位置に似ている。著者(磯崎憲一郎)自身、「文藝」二〇〇八年春号での私(保坂和志)との対談で、

 「だいたいこの小説を最初に書き始めた時点で、孫まで出すなんて全く考えていなかった。設計図は当然何もない。一つの文章の次に何をつなげたら面白いかなというその原動力だけで書いているんです」

 と言っているが、この発言から理解される以上に、ということは著者としてすでに過去となった書いている時間を思い返して言っている以上に、著者は場面ごとにどこに向かって何のためにこんなことを書いているのかわからない状態で書いた。

 「しかし作者は作曲者であって演奏者ではない。」という反論は、存在には第一原因があるという形而上学的思考と通ずる実態を指し示さないフィクション、つまり実態を間違って仮定している誤解であって、作者とはまさに演奏者なのだ。以前も私は、牧羊犬と羊の群れの喩えを出したことがあるが、作者というのは羊の群れをうまくコントロールできない出来の悪い牧羊犬か羊の群れそのものであることが理想なのだ。】 同 p486,487

2013.5.27 329 『つくる歓びは、金に換算できない。できないんだよ、本当に』

05 28, 2013 | 日記2013

0

・仕事帰りに、麻糸と、支柱を買って、今日は暑かったので、ビールが飲みたいと、身体がいったような気がしたので、それで、コンビニでビールを買って、支柱立てをしながら飲んで、支柱立てなんていうのは、五分程度で終わるので、だから、それ以降の時間は、ただビールを飲みながら、苗が風に揺れたりする様子や、支柱と苗の結び目を見つめながら、「どれくらい実がなるもんかね」などと、想像しながら。そんな何でもない時間で、満足している自分。

・(自分も、どちらかといえば、というより、もろにそうだったのだが)野菜作りを始めるにあたって、かかる金や、それ以降にかかる時間(時給に換算したり、する習慣)を考えて、「そんなんだったら、野菜なんか、つくるより、買う方が安いでしょうよ」というような連中。そういう奴ら(ぼくもそうだったのだけど)を相手にしていると、行動の全てが金に結びつけられるように思えて腹立つ。つくる歓びは、金に換算できない。できないんだよ、本当に。

・今日は三十度を越して、真夏日、で、風があったから、それほど暑く感じなかった。いや、暑いけど、「三十度を越えます」と言われた時の、こちら側の身体の、心の準備を越えてくるほどの暑さは感じなかった。

2013.5.26 328 『久しぶりに、体調のいい休み』

05 27, 2013 | 日記2013

0

・久しぶりに、体調のいい休み。二日酔いでもなく、昼まで飲んでいるわけでもなく、熱にうなされているわけでもない、休みの日。それで、やっとタイヤ交換をして、それから、ホームセンターにいって、野菜の苗を吟味して、よくわからなかったので、となりにある本屋で野菜の本を立ち読みして、今度は農家のお店にいって、また苗を吟味したら、なんだかこっちの店の苗のほうがいいような感じがしたので、苗だけを買って、もう一度ホームセンターにいって、プランターやら、培養土やら、必要なものを買ってきた。

 本当はプランターでなく、庭の一画を畑にして、なんてことも考えていたけれど、いきなりは大変だし、タイミング的にも叶わず、とりあえず今年はプランターで野菜をつくってみる。家に戻って、荷物を降ろして、ビールを飲みながらプランターに軽石を入れて、培養土を入れて、苗を植える、たっぷり水をやって、本当なら支柱を立てるところだけれど、それは明日。それで、少し酔った。楽しくて。


・相撲を見ていたので、笑点はみれなかったけど、制限時間いっぱいになった時の、最後の塩を降りに向かう力士のそれまでとは違うピリッとした動きに、ゾワっする。

—————————

・最近は高橋悠治「きっかけの音楽」、保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」、フランツ・カフカ「カフカセレクション1」を読んでいる。「小説、世界の、、、」は、文庫化されての再読だけど、やっぱり付箋が異常に付いてある。端からみたら、気持ち悪いほどに。もしかしたら、初読(単行本)の時に比べても多いかもしれない。そして、やっと今日再読が終わった。何度でも読み返すだろう。

2013.5.25 327 『おとなのおもいどおりに行動するおとなしいドレイをつくるためにある』

05 26, 2013 | 日記2013

0

・キジバトが庭の桜の木に巣をつくろうとしている。キョロキョロと顔を動かして警戒しながら、枝に停まっている。その視線の中にビールを飲んでいる男が一人。映る。

・今日の付箋。

【おなじ場所で足踏みしている 見ているだけ 考えてはいけない 考えれば いまの地点にとらわれる ただ見つづけるうちに 顕われてくるものがあれば すでに違う場所に移動している】 高橋悠治『きっかけの音楽』p195「ふたたびどこへ」より。

【これは、一九七四年にかいた、こどものための合唱曲だ。
 
 よくある、こども用の音楽をつくるつもりはなかった。おとながかんがえる、けがれのないこどもの世界や、その反対に、一歩ずつおしえみちびかなければならない未開の状態であるこども時代を、こどもたちにおしつけるのが教育用の音楽だとおもわれている。教育はこどもが知るのには「早すぎる」こと、「ふさわしくない」こと、知る「必要のない」ことをかくし、おとなのおもいどおりに行動するおとなしいドレイをつくるためにある。それは自然にうまれてくる現実への関心をゆがめ、学習とあそびのくみあわせとしての行動パターンを抑圧してしまう。

集団の音楽は、学習過程であると同時にあそびなのだから、ことばとむすびつけて、現実への関心をかきたてることができれば、体の運動と一体になった思考のスタイルをつくりあげることができるだろう。この統一的スタイルは、社会とその教育の抑圧装置のなかで、成長するとともにうしなわれていくものだ。】 同p209,210「自然について=エピクロスのおしえ」より。

2013.5.24 326 『優しい時間。優しくなれそうな時間』

05 24, 2013 | 日記2013

0

・仕事の早出なども始まって、なかなかまとまって音楽に触れる時間も、本を読む時間もとれない。それでも、仕事に就く前の一時間くらいは、畑の近くの公園にいって、ギターを弾いたり、本を読んだりする時間をつくる。昼飯も一人で公園でとって、余った時間でギターを弾いたり、本を読んだり、そして大事な昼寝。気温の高い日が続くようになってきてはいるけど、窓を開けて、風通しをよくすれば涼しく快適に眠れる。

 それはいいとして、どうやって捻出するか。時間を。こんなことを考えなくていいような生活スタイルにする、もっていくのが一番手っ取り早いのだけど、今はそうもいってられないので、といってもギターや本に触れる時間が全く取れないのも嫌だ。嫌だというより、別に去年くらいまでならそれで良かったのかもしれないけど、今は自分に課しているのだから、やっぱり捻出しなくてはならない。さて。


・1、もっと早起きする(朝の時間から捻出するとしたら、この方法しかない。)。 2、仕事中も頭の中で曲をつくる(最近やってなかった)。 3、酒の時間を減らす(禁酒は厳しい。やれないこともないのだけど、、、)。 4、日記を早く書けるようにする(やめる、という選択肢はとれないので、もっと今まで以上に勢いに任せる、か。結構時間がかかる)。 5、日記を書く時間帯を変える。(夕食後に酒を飲みながら書くと、終わらなくなってしまう)。

 曲を書くのは起きがけの早朝が合うような気がするので、まずは早起き、か。あとは酒だ。朝の起きがけの作曲の時間は続けたい。その時間の中で何も出て来なくとも、それは続ける。何にもでない日、なんてざらで、そんなのもう慣れたのだし。何もしないで、何も出て来ないわけではなく、やっても出て来ない時はしょうがない。次の日にまたやる。となんだか、酒の問題をすり替えようとしている自分がいる。な。さて。


・日が長くなったことを実感できるようになる時期の、日の沈みかける、沈むギリギリ手前の、静かな穏やかな時間。が、たまらなく好きだ。ただ今その時間の中にいる。何もせずとも、その場所にいるだけで満たされる感じがする。何故か、この時間帯には幼少のころの映像が浮かんで来る。優しい時間。優しくなれそうな時間。

————————————

・明日あたりが満月だろう月の上を飛行機が通る。と、書いてすぐ、飛行機のあかりは月にすいこまれました。

2013.5.23 325 『(メモ)「構成するそれぞれは、名を持たないが、、、」』

05 23, 2013 | 日記2013

0

・一本の糸。は多数から成る。多数の糸から成っているけど、私たちはそれを「一本の糸」と呼ぶ。糸と呼ばれも認識もされない糸たちの集まりの故の一本の糸。何がいいたいかわからない。

・糸を構成するそれぞれの糸は、それが一本の「糸」に成ったときに名前を失くす。(メモ)「構成するそれぞれは、名を持たないが、、、」

・満月の少し手前の月と、少し冷たい風。それを受ける屋根の光る。

・何か書こうと思っていたことが在ったような気がするが、眠くて思い出せない。——と書きながら思い出した。夢だ。今朝の夢。スヌーズ中に見た断片。けれど、睡魔を受け入れて寝よう。今日は。明日は早出。で、畑の水やり。

2013.5.22 324 『本当に凄いものに出会ったら、人はそう簡単に「いいね!」だなどといえない』

05 22, 2013 | 日記2013

0

・言葉や音楽(表現)の全てが、自分の中からしか生まれてこないもので、他の誰とも似ていなくて、似ていない、誰もやっていない、それこそが「個性」であって、だから、誰もやっていないことをやりたい、それこそが個性だ! って、アホらし、、、。

 そういう観点からうまれてくるのはただの奇抜さか、「一般にはわからないだろうけど、俺にはわかる」というような偏屈で、その実何にもわかっていないような連中の優越感だけ。それは「皮を揺らしても心臓には届かず」というようなもの。「いいね!」だなんていわれたとしても、結局「いいね!」程度であって、誰の心にも傷を残さない。刻まれない。それは、ただ言葉の上を滑っていく。本当に凄いものに出会ったら、人はそう簡単に「いいね!」だなどといえない。


・聴けば聴くほど、見れば見るほど、読めば読むほど、そこにある「何か」をただなぞるということでなく、いかに「個」として際立っていられるか、なんてことは簡単には考えられなくなる。何をやったとしても「自分がやっていることは結局二番煎じ(三番、四番、五番、、、無数に、、、煎じ)じゃないか?」と感じるのだから。その「何か」に圧倒されて、影響を受けながらも、それでも別の場所を、と思い、迷いながらやる。それでもやる。そこからが始まり。

 誰もやらないことをやりたい、という台詞を吐く人が本当にいろんな、たくさんの、重要な表現に触れていて、それでもその言葉を発しているのだとしたら、それは尊敬する。それをやる、ということが、表現する人間に課せられていることでもあるから。


・と、書くと、矛盾のように感じるけど、違う。はず。何をしても二番煎じでしかないのではないか? という疑問を抱きながら、歩くしかない道があって、そういう人にしか行けない場所もある、ということ。多分。ろくに、見もせず、聴きもせず、ただ、誰もやっていないことを、、、という連中の意識とは違う。だなんて、いちいちこうして書く必要もないか、、、。

・カエルの声と寝よう。

2013.5.21 323 『ぼくにとって「外に出る」というのは』

05 21, 2013 | 日記2013

0

・風呂に入った後、近くの公民館で電話をする。何てことない景色だ。目の前にあるのは。前方には公園があって、手入れされていないヒマラヤ杉がその周囲を覆っている。小鳥が数羽飛びながら鳴いて、駐車場に停めてあった宇都宮ナンバーの押し売り野郎どもは立ち去った(田舎と思ってなめんなよ)。左手の道路を男の子と女の子、とお母さん(だろう)が話しながら歩いてきて、駆け始めた子供たちをお母さんはゆっくり歩いて追っていく。すぐ左斜め向かいにある幼なじみの実家はバリアフリー住宅にするために改装工事をしているけど、もう六時を過ぎているし、作業員の姿はない。

 ぼくは何度ここに腰をかけたのだろうか? おそらく何度も何度も同じようにこうして腰をかけたのだろう。そして、その時々にはどんな景色が見えていたのだろう。地区のお祭りで盆踊りを踊っている人、威勢良くビールを売っている人を見ている? 廃品回収をサボって働く大人たちを眺めている? 早朝、幼なじみと野球の練習をしていて壊した消防小屋の壁を見つめている? アルバイトの面接の電話をかけながら子供たちが走り回って遊ぶのを見ている? かつてそこに在った光景がぶわっと戻ってくるような感じがした。たまには公民館でただ腰掛ける。そうしよう。


・「外に出た方がいい」という言葉がどういう使い方をされているのか、わからないけど、ぼくがそれをいうとしたら「人と関わって、社会と関わって、きちんとその中の一員になりなさい」なんてことはどうでもいい。ぼくにとって「外に出る」というのは、川の流れを見たり、鳥の鳴き声を聞いたり、桜の花びらを散らす風を感じたり、とか、ぼくの拙い例えでは何とも伝えようがないけれど、でもそういうこと。自然を体験をすること、あるいはそれに圧倒される体験をすること。そういう意味での「外」には出た方がいいかなとは思う。

2013.5.20 322 『言葉も音楽も、自分の内側からしかやって来ない、と思っている人をぼくは信用しない』

05 21, 2013 | 日記2013

2

・友人にもらった本をバッと開いてみる。そこにあった文章。

【どもりは、あたりまえのことすらも、あたりまえには言えない。発声のたびに言葉と格闘しなければならないからだ。そして、ちゃちな論理というものを壊してしまう。言葉をまず肉体のものにする。どもりは同じ繰り返しをすることはできない。いつでも新しい燃料で言葉のロケットを発射しなければならない。月に当るか星へ飛ぶのか、そんなことは知らない。飛べば何とかなるのである。ぼくらには同じように聴えても、どもりも鳥も、いつも同じことはくりかえさない。そのくりかえしには僅かのちがいがある。このちがいが重要なのだ】 武満徹「エッセイ選——言葉の海へ」p225


・一日中家に籠っていたり、壁に囲まれた生活(会社であれ、工場であれ)をしていると、心(身体)が「動く」感じがなく、だから言葉も出て来ない(いや、言葉は書き始めれば書けるけど、書こうと思うきっかけとなる「何か」がやってこない)。そんな風に考えるようになったのは、ここ数年のことで、植木屋や、農家の手伝いをし始めてから。いわゆる外仕事。その中でも木や土を相手にする類いの。

 「わたし」が「自然」の中に溶ける。空や、風や、葉っぱの冷たさ、土の香り、虫や、鳥や、猫やあらゆる動物たちの営み、冬の冷たい空気を切り裂いて雲間から現れる太陽の暖かさ、神々しさ、その光を反射させて揺れるセリの田んぼの水——そんな光景を見たり、聴いたり、感じること。そういう生活が確実にぼくを変えた。言葉も音楽も、自分の内側からしかやって来ない、と思っている人をぼくは信用しない。

2013.5.19 321 『音楽家は音をきかなくなり 音を考えるようになる』

05 19, 2013 | 日記2013

0

・藤の花。ハナミズキ。田んぼに張られた水の上で揺れる夕日の光。水は揺れながら風を映す。季節の移り変わり、その度に新しく現れる色。

・左側の扁桃炎が、右側に移る。身体のだるさがずっとつづいて集中もしづらい。ひとまず近々のライブはないので、また少しずつ曲作りを進める。体力づくりも。

・【コンサートホール 練習や録音スタジオのように 外からの音がきこえない 外にも音が漏れない 隔離された場所でつくられる音楽家の仕事場がそういう隔離された場所であるならば 音楽家が仲間と会うのがそういう場所ならば 雑音に汚染されていない音を操作して 消毒された無菌の音楽をつくっているうちに 音楽家は音をきかなくなり 音を考えるようになる】高橋悠治「きっかけの音楽」p154 

2013.5.18 320 『私たちが木を見ているとき、私たちは木の時間を見ている』

05 19, 2013 | 日記2013

0

・今日の付箋。

【——荒っぽく、芸術と科学という二つに分けたときに、芸術を内的なプロセスやダイナミズムから説明せずに科学の側から説明するという行為そのものが芸術を衰退される。科学といっても、フェルマーの最終定理の解法をアンドリュー・ワイルズが総合したプロセスや、ポアンカレ予想の解法をグリゴリー・ペレルマンが総合したプロセスは私には、いわゆる「科学」でなく芸術家が気持ちを一点に集中させていくときの強度と同じものとしか想像できないのだが、私がいま芸術と対比させた「科学」というのは、冷めていて当事者でなくても説明のプロセスをただ辿ってゆきさえすれば理解を共有しうる知のシステムという意味だ】 保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」p433

・【私たちが木を見ているとき、私たちは木の時間を見ている】同p437

2013.5.17 319 『騙されるな』

05 18, 2013 | 日記2013

0

・一瞬。光が見えた。遠くに。それが、どれほど遠い(あるいは近い)のか、この暗がりの中では、距離なんてわからない。今はまた、自分の足の動きさえもはっきりと見てとれないような暗がりに戻ってしまったこの場所からもう一度歩くために。一瞬でも、光が訪れた、という実感。それだけでいい、それしかないのだから。

—————————————

・——と、ここまで書いて、お誘いが来たので呑みに出た。現在1:35。

・いい夜は、いくつあってもいいのです。小さな小さな「いい夜」をたくさん集めよう。それがいい。

・忙しいことがいいことだ。などとぼくは決して思わない。それは誰かがそういったのであって、そういった誰かの言葉を忙しく生きている誰かが自分の時間を否定しないために頷いただけであって、それは数の論理。騙されるな。

2013.5.16 318 『ひとりヒマラヤ杉に乾杯し、ギターを弾いた』

05 16, 2013 | 日記2013

0

・外は雨だった。リハを終え、一階に着いたエレベーターの窓から見えた外は雨だった。本降り。店の近くの公園でギターを弾きながら呑もう。と思っていたのに。一度Vorz Barに戻り傘を借りて、コンビニで500mlのビールを一本買った。公園には大きなヒマラヤ杉があって、その下は雨に濡れていなかった。剪定されずに、生い茂るとげ状の葉や、枝が雨を受け止めて、散らす。ヒマラヤ杉のおかげでその下でギターを弾くことが出来た。時々、雷は鳴り、空が光ったけれど、それでもヒマラヤ杉の下に雨は落ちてこなかった。ビールを開けてひとりヒマラヤ杉に乾杯し、ギターを弾いた。いい夜だ、と思った。

・chan-mikaさん。音楽と一緒にいることの歓びを身体で表現することができる人。素敵だった。hobo trainを歌っていたら、入り口のほうから一緒に歌ってくれる声が聞こえて、それはchan-mikaさんの声で。気持ちのいい瞬間だった。

・昨日の朝は疲れと扁桃炎による体調不良。で、朝一に点滴を打って仙台へ。点滴を打ってライブするのは三度目か。そういえば、人生初のライブの時もそうだった。体調不良の時のライブというのは何故かおもしろいものが出てくるように思う。身体に余計なちからが入らないというか、変に頭で考えずに空っぽになれるというか。なんなのだろう。

2013.5.15 317 『地下水が現れるようにどこからともなく来て』

05 15, 2013 | 日記2013

0

・そういえば、ライブの告知をしたつもりでしていなかった。もう当日だけど。

2013.5.15(水) VorzBar
【CHAN-MIKA x 長崎真吾 x KATUSI Live at VORZ BAR】
O.A.:松沢 春伸
open:19:00
start:21:00
admission:2,000yen + Drink Order


・今日の付箋。高橋悠治「きっかけの音楽」より。

【チョーギャム・トゥルンパが書いている アーティストと聴衆を分離して 一方から他方へとメッセージを送ろうとする これがアートの根源的な問題だ こうなるとアートは 見せつけ 自己顕示になる だれかが すごいインスピレーションのひらめきを 急いで紙に書きつけ 他の人たちを感心させたりびっくりさせようとする アーティストが 効果を計算しながら作っていくこともある こういうものは 意図や技術とにかかわらず どこかぎこちなく 他に対しても 自分に対しても 攻撃的になる】p144

【音楽が何か ではない 音楽は なにも特別なものではない 他のさまざまなことと変わらない 音楽をやっていようと 他のことをしていようと だれでも 目の前にあるちいさなことをやるだけだ】p144

【アフリカのリズムが西洋のリズムとちがうように 音楽のかたちもちがう はっきりとしたはじまりや終わりはなく 地下水が現れるようにどこからともなく来て 波がかさなるように立ちのぼり 即興のあそびとなり また消えていく それは楽譜をもたない音楽のありかたで いったん楽譜を読んで音楽を視覚化することに慣れてしまうと こういう音楽をつくることはできなくなる 音楽学が分析するアフリカのリズムの複雑さが演奏の経験とはまったくちがうように 楽譜に定着されたアフリカ音楽が粗く硬直しているだけでなく スタジオで録音された音楽でさえ よそよそしい響きをたててしまう】p152

2013.5.14 316 『いらない技術を捨てていく そこに生まれる 技術』

05 14, 2013 | 日記2013

0

・今日の付箋。

【略——だれでもが わずかな訓練でできて 不安定な楽器を あやつるのではなく さぐりながら 何度やっても決しておなじ結果がでない 思い通りにならない むらのある そのむらをたのしむ そんな 技術でない技術がありうるのではないか 音楽家としてみれば 技術を持っている上さらに獲得する技術ではなく いらない技術を捨てていく そこに生まれる 技術】p136,137 「高橋悠治 きっかけの音楽」より。

・わかるようで、わからない。わかってはいけない。けれど、惹かれる。

・朝方に刈った草の上で、夕方、たくさんの鳥が、数種の鳥が、表面に身体を現した虫をついばみにやってきて、そこに遮るもののない西日が差し込んでいる。目を細めて、その光景を脚立の上から眺める。「いいな〜」とただただ思う。

2013.5.13 315 『「五時半から練習なんで」といって帰った』

05 13, 2013 | 日記2013

0

・仕事帰りにいつもの河原にいく。先客がいて、それは中学生で、学校のジャージを着て、二人で、ロケット花火をして遊んでいて、だから、ぼくは、別の場所に移動した。それで、やっぱりあそこがいいと思ってその場所の近くに車を停めてギターを弾き始めたら、中学生は、そわそわと逃げるように、自転車で何処かにいった。誰かに報告される、とでも思ったように。

 二人が去ったので、その場所に移動して歌って、そしたら、二人が戻ってきて、花火のゴミを拾い始めて、それが終わって、こちらを見て頭を下げて、帰ろうとしたから、車の窓を開けて「別に誰にもいわないから、ゴミは拾ってけよ」といったら、「ありがとうございます」といって、去っていった。

 何が、ありがとうございます、かわからん、と思っていたら、二人が戻ってきて、窓越しに何かいうから、窓を開けたら「ギター聞かせてもらっていいですか?」というので「どしたの?」というと「何か気になったので」というから、「ギターやってんの?」というと、大きい方が「こいつは、こないだギター始めたんです」というから、ギターを渡して「何を弾くの?」ときいたら、ギターを渡されて戸惑って小さい方は「アニメの、、、」といった。それからギターを弾いて、少し歌った。いつもよりちょっと丁寧めに。

 「誰かにちくられっど思ってビビったんだべ?」と聞くと「はい。超びびってました」というから笑った。それから、中学生はロケット花火や爆竹で遊んで。その隣で音を聞きながら車の中で歌った。「さよなら」といって二人は帰った。一人は柔道部で、もう一人は学校外のプールで水泳を習っていて、「五時半から練習なんで」といって帰った。


・昨日は聞こえなかった。カエルの声など。ということは、近所でも田植えが始まったということなのだろう。などと、こうして普通にカエルの声と、田植えを結びつけることを、十代や、二十代のころは出来たろうか。別に当たり前のことなのだけど、そうか、田植えか、それで、カエルか。と、季節の移ろいによる周囲の変化に敏感でいただろうか。自分で驚く。

・暑さ、というより強い日光に晒されて仕事をすると、疲れる。日焼けっていうのは疲れる、身体にこたえる。寝よう。

2013.5.12 314 『表現は商売ではない。もちろん』

05 12, 2013 | 日記2013

0

・例えば「何故それをやるのですか?」というような問いがあったとして、「お客さんの笑顔を見るのが何よりの歓びです」などという、つまらない文句をいう奴になりたくないし、そんな奴らとつきあいたくない。それよりも「私がおもしろいと思うからやっている」「それ以外にしようがない」という人のほうがずっとおもしろいと思う。

 何か商品をつくるにしたって、働くメンツが経営者の顔色を伺いながらつくられたものより、そこにいる人が、それぞれ、その品物をつくることに歓びを感じながらつくっているような、そんなもののほうがずっといい。何かをやる歓び。歓びの中でつくられたものは、何処かに、誰かに、その歓びは伝わる。繋がる。


・「表現(でも何でも)」という場所で「お客さんの喜ぶ顔が、うんぬん」とかいうやつをみると、腹立つ。それに、そういう言葉をいっていれば、反論されることも少なくて、だから、そういう台詞をいっていればなんとなくよろしい、という世間にも腹立つ。「お客さんの〜」といわれれば、自分も客になりうる立場の人間ならば、「そうだね、、、」といわざるを得ないところがある。

 けれど、そもそも「何故それを始めたか?」「何故それを続けていくのか?」という根っこに戻って自分に問うた時に、そこには「客」が入る余地はない。あるのは、憧れや、それに一歩でも近づきたいという願い。

 もちろん本当に「客の喜ぶ顔が見たい」そう考えている、感じる人もいるだろうけれど、そういう人は表現には向かないのではないかと思う。エンターテイメントには向くかもしれないけど。というより、それは商売だ。表現は商売ではない。もちろん。


・ぼくはどれだけ評判が良くても、つくっている人たちの顔が見えない、感じ取れないようなものには興味がないし、例えば、今は少し雑で、未だ改良の余地のあるように感じられるものでも、その何か(品)に関わる人たちが、こだわりを持ちながら、それぞれが「おもろっ」と感じながらつくっているものだとしたら、ぼくはそっちを応援したい、と思う。

2013.5.11 313 『それと比較したら、とても貧相に見えるような自分の日々も』

05 11, 2013 | 日記2013

0

・だいぶ前から完成させたいと思っている曲をいまだにつくることが出来ずにいる。うたというより、ほとんどリズムによって運ばれる曲で、メロディーというよりは延々と繰り返されるコードの中での即興、というような曲。いままでこういう曲をつくったことがないだけに難しい、というのはわかっている。できなかったことをやる。これをクリア出来ればまた少し進めるのかもしれない。

・こうして日記を書くようになって、日記を書くのと同様に、曲をつくったり、ギターを触ったりということが「日々」となって。怠け者の自分が日記を書くだなんて、何年か前の自分には想像もつかなかったことだろう。けれど、こうして日々何かを書いたり、歌ったりすることが今の自分の「日々」になっていて、それはやっぱり続けていこう、というか続けなければいけないな、と思う。怠け者だからこそ、やろう、と思う。ここからだ。

・雨の音を聴く。雨に揺れる花の落ちた桜の葉を見る。毎朝六時に決まって鳴らされる斜め向かいの家の仏壇に捧げられる鐘の音、のように、日々淡々と、言葉を紡ぎ、音を奏でる。祈りに似たようなもの。

・日々を積み重ねていくしかない。フラフラと迷いながら、完成することなどを夢に見ず、とにかく日々を重ねていく。高橋悠治がいうように、やればやるほど「完成」など持たず、あるのは断片のような、そんな「日々」だとしても、それを積み重ねていくほかない。

・今日もひとり、夜の静かさの中で、深々と息を吸い、息を吐く。吐かれた息は暖かい空気の中では形を留めず、目に見えることなく、暗闇に溶けていく。襲って来る眠さに目をこすりながら、文章を書き、後になって振り返ればただの点でしかない日々を生きる。それでも、その点は、今こうしてここにいる自分にとっては「今ここ」なのだ。本物の職人たちの口にする「私たちには完成はなく、あるのは今ここ」というような、それと比較したら、とても貧相に見えるような自分の日々も、フラフラと不安混じりの拙い歩みで歩いていく他ない。

2013.5.10 312 『鳥の鳴き声のように、ふっと顕われては消えて』

05 11, 2013 | 日記2013

0

・「二十八度を越えた」とラジオの声はいっている。「やはり」と、思う。渇いた空気。風もない。今年最初の夏日だろうか。照りつける太陽の下、リンゴの花摘みをする。

・細やかな手作業。単純作業を続けていると、なにかを「思って」いる、のだろうけれど、それらは意識を集中させなければならないようなものではなく、鳥の鳴き声のように、ふっと顕われては消えていって、何かを「思って」いるな、と意識を向けた瞬間にはもう、それが何だったのかわからなくなっている。

2013.5.9 311 『いかに、「はみだすか」というのは、「いかに新しいか」とは、違う』

05 10, 2013 | 日記2013

0

・今日は柳家花緑さんの独演会。の手伝い。

・おもしろいというのは、どういうことか。落語のことはよく知らないけど、ぼくは音楽を聴くことと同様にそれをみる。

・いかに、「はみだすか」というのは、「いかに新しいか」とは、違う。けれど、その違いを今のところ言葉として、どういう風にも言葉にできない。

2013.5.8 その2 310 『Rockin' Chair In The Moon 2』

05 08, 2013 | 日記2013

0

・一昨日から、なんとなく、自分のすきな曲の寄せ集めのCDをまたつくっている。「Rockin' Chair In The Moon 2」。1とかぶる曲もあるので、実際にはこれが1にあたる。

・月夜のお供に。

・ちょっとした決まりごととして、その曲が入っているアルバムの同じ曲の位置には使わない。例えば、その曲がその曲の収録されているアルバムの最初に(アルバムの最後に)使われていたら、最初(最後)には使わない。なんだかそれでは簡単すぎる。なんだかそれでは卑怯くさい。

・わっく。これを読んでいたら、欲しければあげるからね。

2013.5.8 309 『書かれたものは、すべて書きかけの未完成のものであるほかない』

05 08, 2013 | 日記2013

0

・今日の付箋。高橋悠治「きっかけの音楽」より。

【——書きながら、考えることを自制する。考えても、考えすぎないように、書くことをはじめる。すると、書き終わることはない。書き終わるためには、書くというはたらきがそこで尽きるなにか、思いがけない答えが出てしまったというような事情がなければ、書いているこの場所からはなれるわけにはいかないからだ。それでも、いつまでも書いているわけにはいかないから、書くことは中断される。書かれたものは、すべて書きかけの未完成のものであるほかない。書く人はくりかえし、書く場所にもどってくる。書けば書くほど、書かれたものは、断片になり、書きたりないものになっていく】p97「書きかけのノート」より。

・ここに書かれた言葉はそのままカフカの小説のようにも感じる。こないだ仙台で買った「カフカセレクション1」を読んだり、保坂和志のカフカについて書かれた文章を読んでいるようでもある。高橋悠治のカフカ関連の二冊にも興味がわく。

・続いて。

【(略)わたしがここにいることをしらせたい 
 このほとんど伝達不可能な呼びかけ 
 如月さん 
 この呼びかけにこたえる身体は 
 なくなっても 
 なにかが 
 意味を越えて 
 もどかしく 
 まだ運動をくりかえしている
 
 では
 とりあえずの別れです
 つくられたものはとどまらず
 顕われては消えるさだめ
 生まれ滅びる
 そのやすらいこそがしあわせ】

 p91,92「弔辞——如月小春さん」より。

・この文章だけを書いても、実際に本を読んで受ける印象の何割かしか伝わらないだろうと思う。というのも、引用した部分以外にも文章があって、それが、突然全てカタカナで書かれたり、文字の頭の位置が固定されずに、書かれたりしていて、だから、こうやって、引用しても、これだけでは、単に意味に回収されてしまうかもしれないから。それでも「身体は なくなっても なにかが 意味を越えて もどかしく まだ運動をくりかえしている」という部分にはグッとくる。

2013.5.7 308 『心を引っ掻いた音楽は、言葉は、どんな爪をもってして、、、』

05 07, 2013 | 日記2013

0

・曲の構成というものに関しても、例えば、一番があって、その中にもメロ、とサビがあって、ブリッジがあって、、、などというのは、「なんだか、そんな風になっているな」ということであって、だから、いちいちその習わしに従わなくてはならない、なんてことはない。だって、小説には一番も、二番もない。うたというものが、ある形式の反復という形をとっているのはどうしてなのだろうか?

・風に揺れる桜の枝にはもう花は少ししか残ってなくて、少しというのがどれほどのものか、を言葉で書いてイメージ出来るかどうか、もっと詳しく書くべきか、などと書こうと思ったわけではなく、少し、と書いたら大体「こんな感じ」というものを、書く側も、読む側も暗黙の了解としていて、などということはいいとして。

 ——風に揺れる桜の枝には、少しばかりの花と、花と入れ替わるように若い葉が茂る。檜の葉もまだ生まれたばかりで、風に揺れる姿は、柔らかく、しなやか。公園の滑り台で遊ぶ男の子と男の子より年下の女の子。女の子は滑り台を離れて補助輪のついた自転車に走りよっていく。その様子をベンチで見守る男。グランドの砂埃は風に舞って、砂色の風が揺れながら走る。砂が目に入って、鏡を見ながら目をこする女の肩を抱えるように抱く男。を横目に見ながら駅に向かって歩くと、一歩あるくごとに風は強くなって、駅前の信号待ちをしているときには、雨は降り始め、それからすぐに本降りになった。


・引っ掻く。引っ掻き傷。——何かが、その何かを「記憶すべきもの」として、誰かに刻む、そこには。わたしの心を引っ掻いた音楽は、言葉は、どんな爪をもってして、、、。

2013.5.6 307 『そして、その宛先も持たないうたは、届くのだ、ということを実感した』

05 06, 2013 | 日記2013

0

・東京の夜の余韻。が、まだ頭をかすめて、言葉や情景が浮かんでくる。

・代々木公園についた時に太鼓の音が聞こえてきて「もしかしたら今日の共演者か?」と思ったけど、確信がなくて、眠かったし、声をかけずに昼寝をした。ずっと何時間もその人の叩く太鼓の音は続いていて、「すげえな」と思って、店に着いたらやっぱり共演者の人で、それは洋一君だった。

 「ずいぶん長いこと練習してましたね」といったら、洋一君は「いや、練習というよりは、『探る』のがすきで、、、」と照れながら喋って、その瞬間に「あ、この人は信用出来る人だ」と思った。「探る」という言葉がすぐ出てくるのはすごい。そうなんだ。ぼくも、探っているんだもの。いい言葉をもらった。何時間もかけて、日々「探る」のですよ。ほんの一瞬見える「ひかり」のようなものを。


・Cafe Bandaの二階の一室で、セレクトショップを開いているコミさんは、ライブ後に、店の外で呑みながら「『金』と違うことをやりたい」といった。別にぼくがそういう話をしていたわけじゃない。ぼくがつくった話の流れじゃなくて、コミさんが突然そういった。それで驚いて、感動した。

・ああいう街で、ああいう場所で、同じような感覚を持てて、思いを共有しながら、日々を一緒に過ごすことが出来る人間が周りにいる、ということを、うらやましく思うこともある。ぼくはそういう環境にいない。なにも、「独りがいい」だなんて思っているわけではなく、そういう場所にいる。「あえて」かどうかは自分でもわからない。でも、だからこそ、どこかにいるはずのまだ知らない友達へ向けて、歌い、書く。そして、その宛先も持たないうたは、届くのだ、ということを実感した。だから、ぼくは、その「実感」だけでやっていける。やっていかなければならない。と思う。届くよ。きっと届く。いや、別に誰かれ構わずじゃない。もちろん。

・ぼくはまた歩いていけると思う。何処へ? 地図もなく。目的地もない。何処へ? ではなく、歩いた歩数。距離。

・ぼくはまた歌っていけると思う。誰へ? 今いる友へ。あるいは未だ見ぬ友へ。それぞれがそれぞれの歩く道を歩いていけるように。灯りを。

2013.5.5 306 『ゆるくて濃密』

05 06, 2013 | 日記2013

0

・東京での初ライブ。が終わり帰宅。出会いも含めて濃い旅だった。「ゆるくて濃密」。いい言葉。そんな旅。

・行きの新幹線の中で車内冊子「トランヴェール」に犬飼ともと渡波の子供たちの「ワタノハスマイル」の記事が取り上げられていて、嬉しくなる。一番気になったのは、犬飼ともの身体が二年前に比べだいぶ膨らんだことで、それで笑った。

 上野駅で、あたふたしながら携帯で乗り換えの電車を検索してると「スミマセン。アキハバラハドッチデスカ?」と外国人カップルに聞かれて、あせる。目の前に「秋葉原」と書かれた山手線の看板があったので、「あの緑色のやつです」だなどと知った風に説明してみる。自分もアウェイのくせして。

 渋谷駅で降りて、雑貨屋でタイパンと小物入れを買って、代々木公園まで歩いて、芝生の上で昼寝をして、ギターを弾いて、コンビニでビールを買って呑みながら「Cafe Banda」を探して歩いて、坂の上に店を見つけて、あいさつしてリハをして、リハ後に共演のハングドラム奏者の洋一くんと話してギターを弾いて軽く歌って、あまりにも素直に喜んでくれるから、こちらもビックリして嬉しくなって、またビールを買ってコンビニの前で携帯をいじりながら呑んでいたら歩いてきたグラビアのお姉さんにパパラッチと思われたらしく「やばい」といわれて、「なんもしねえよ」と思いながらも「おれはそんなに胡散臭いかね」と笑った。そしてライブ。

・ライブ後に出会った人たちと酒を呑んで、話をしながら、何回「いい夜だ」といったろうか。出会うもんは出会うんだ。


2013.5.4 305 『いい夜だ』

05 04, 2013 | 日記2013

0

・東京の夜。

・今宵はおもろい奴らが集まっとる。

・いい夜だ。今日も本当にいい夜だ。

2013.5.3 304 『花冷え』

05 03, 2013 | 日記2013

0

・今日は、気温的には、昨日、一昨日より低かった。それでも、雨が降らない分、太陽が出た分、多少暖かく感じる。ここ何日かの寒さ。のような気象を「花冷え」というらしい。ことを一緒にラフランスの花摘みをするおばあちゃまが教えてくれた。

 生活と気候の密接な距離から生まれて来る言葉。農家として何十年も生きてきた人間から生まれる言葉。とはいえ、これはおばあちゃまがつくった言葉ではなく、「花冷え」という言葉を、おばあちゃまはもっと、ずっと昔の人に聞いたらしい。果樹の花が咲く頃にやってくる、季節が逆戻りしたかのような冷えの日。「花冷え」。いい言葉。


・休憩中。そのおばあちゃんがいうには、ぼくは放送中の大河ドラマのどっかの藩主のような顔をしているらしい。「なに? そいつはいいやづなんだが?」と聞いたら「んだ」とおばあちゃまはいった。という話を聞いて、となりに座る旦那さんが「おまえ藩主っていったら、殿様だべな」といって。藩主ということは殿様らしい。だから、それで、ぼくは藩主顏らしい。つくられたイメージの中の、だけど。

・とか書いていて、気になったので、調べたら。なるほど。似てないと思う。

・それで、書いたのを消そうと思ったけれど、面倒というか、別にいいや、寝よう、という気持ちで残す。

Next Page »

RSS
プロフィール

harunobiwonder

Author:harunobiwonder
松沢春伸の日記

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ