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2013.3.31 267 『「十分」に行き着くためには、その前の「二時間五十分」を要する』

03 31, 2013 | 日記2013

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・どうやら。バトンというものは、直接誰かに手渡し出来るようなものではないらしい。託そうとする相手の顔はぼやけていて、もちろん名前すらわからない。そもそも、バトンを受け取ったということ自体が錯覚かもしれない。繋がるも、繋がらないも、錯覚も、錯覚でないも、それはわからない。わからないままに、とにかくその手を伸ばす。前に。

・歌を聴きたいと思えない状況で「Portrait In Jazz」をかけ。——ながら、いつのまにか、眠っていたらしい。CDは終わってしまったけど、もう一度かけるよりは、眠さに任せて眠ろう。

・例えば、曲をつくるということを目的として、どこかの駐車場に停めた車の中でギターを弾くとして。その全体の時間が三時間であっても、実際に「ぐん!」と作曲が進んだと感じることが出来る時間はその中の、せいぜい十分程度のもの。そこに至るまでの、二時間五十分は、それほど大した動きもないままに、ギターを弾いたり、口ずさんだりしている(だらけながらただ三時間を過ごすのではない)。この時間の割合は大体ぼくにとって当たり前になっている。「おっ、進んだ」と感じる「十分」に行き着くためには、その前の「二時間五十分」を要する。という前提を受け入れる以外ない。「もっと効率よく」なんて考えでは、何もつくれやしない。
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2013.3.30 266 『それは「表現」じゃない。「宣伝」ではある』

03 30, 2013 | 日記2013

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・ぼくの書く文章はとっちらかっていて、だから、勢いにまかせて書かれて、そのままの状態で投稿されていると、思われるかもしれないけど、実はそんなこともなく(勢いにまかせてというのは、そのとおりかもしれないけど)読み直したり、書き直したり、という作業をしたりしている。推敲などと呼べるレベルではないけれど、している。ただ。ただ、ぼくの場合、推敲(他の言葉が見つからないので)というものが、洗練や、小綺麗さや、まとまりや、読み易さ、に向かうものでなく、どちらというと、「なにをそんなに縮こまってるんだ!? 馬鹿野郎」というほうに向かうから、結果、余計に雑多になったり、洗練にはほど遠いものになったりする。もちろん、いらない、と判断した部分は削除するけど、それは、「まとまりを良くするため」に削除するのではなく、「ただ要らない」からだ。

・今日ようやくまた、一曲の、一応の完成に辿り着いた。常につくる曲を何曲か抱えていて、その中の一曲が完成する頃には、また遊びの中であたらしいものが出てきて、結局、常につくろうとしている何曲かを抱えている。というサイクルがなんとなくあっているような気がする。

・まとまりのある文章(誰が読んでも伝わる文章)がつまらないのは、そういう文章は基本的に報告事項を述べる文章であればいいわけで、言葉による「表現」とは全く別のものだからだ。Facebookにあるのはほとんど報告事項の言葉であって、というより、そもそもあの場所はそういう場所だから仕方ない。というか、共有することを前提、目的とした文章がそういう風になることは仕方ない。し、ああいう場所を「自分の活動を広めていくため」に利用するには、何よりも「共有」が必要なのだから。けど、ぼくはやらないし、誰かのそういう文章を読んで「おおお!?」と感動することも全くない。だろう。それは「表現」じゃない。「宣伝」ではある。

・一応、毎日チェックしているブログや、ホームページが少しだけあって、その中には実際に会ったことのある人が書いているものもある。知り合いの書く文章の中で、おもしろいな、と思うのはひとつしかなくて、「こりゃ、男では書けない」と思う。感覚的に。文章の中心がどこかにとんだり、ズレたり、して、そのまま続いていって、「何がいいたいか?」などというものは最初からない。いや、あるのかもしれないけれど、書いているうちに関心が別のところに移っている。——ということは事前にあるプランよりも、書いているその最中に起こるものに意識が向けられていて、それにちゃんと翻弄されながら、書かれていく。なんとなく、猫みたいだ、、、。ぼくにはこういう文章は書けないな、と思う。

2013.3.29 265 『フキノトウの天ぷら。煮物。と日本酒』

03 30, 2013 | 日記2013

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・フキノトウの天ぷら。煮物。と日本酒。そら、うまい。

・季節が変わって、日が長くなった、と同時に、月の軌道も変わって、また窓から月が見えるようになって、それが嬉しい。

・眠い。指も動いてくれない。寝よう。早起き。曲作り。

2013.3.28 264 『自分をまた少し先へ運んでくれるだろう、という曲たち』

03 29, 2013 | 日記2013

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・最近つくっている曲たちは「今」のいる自分になってようやくつくれるようになった曲、というか、「書こう」と思えるようになった曲というか、そう思える自分をまた少し先へ運んでくれるだろう、という曲たちだ。

・お城に積み上げられた石垣の、ひとつひとつの石の面を出すために、のみで削られた跡の、その作業にかけられた時間の「途方もなさ」を思うと、日々の作曲の「全然進まなさ」なんてものもちっぽけに思えて、だから少しずつしか進めなくとも、とにかくやり続けるしかないな、と思える。

2013.3.27 263 『銭もないのに、媚は売らない』

03 27, 2013 | 日記2013

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・今では大木となったお堀沿いの桜の木が、まだ幼木だったころも、同じように誰かがこの場所を歩いたのだろうし、その誰かと足跡を重ねるように歩いているのかもしれない、などと、思いを遠い過去に向け、同時に、ぼくがいなくなった後の世界で「ここを歩いた人がいたんだよな」と思う誰かがいるのだろうと考えながら、その頃の桜はどんな大きさだろうか、と想像する。

・銭もないのに、媚は売らない。

・「本気」さ。というものが、知名度をあげるためになされる活動へ向けられる言葉ではなく、その人の表現そのものに向きあう時間の濃さに向かう言葉であるように、そんなように在りたい。

2013.3.26 262 『「大丈夫!」と背中を押すような、そんな言葉を書くことはできないだろうか、、、』

03 26, 2013 | 日記2013

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・比喩として使われる「咲く」という言葉の馬鹿らしさ。を以前書いただろうか。何年も前にノートに書いた、ということは覚えているけれど、ここに書いたかどうかは思い出せない。例えば、三十歳をこえて「メジャー」デビューした歌手でも、何でも、そういう人に向けられて使われる「遅咲きの」。、、、いや、書いているだけで、くだらなさに、あほらし、と腹が立ってくる。けど、ま、それは、いいとして、、、。

 ここでいう「咲く」は、世間に(メディアを通して)広く「認知」される、もしくは単純に「売れる」という意味以外の何ものでもなく、もともとの初めから「咲く」なんてことのために、やり始めた人間は「遅咲き」といわれようが、なんだろうが、違和感を持たずに、よろこんでいるのだろうけど。、、、いや。また、あほらし、と思う。


・書きながら、ほんとにアホらしくなってきたので一旦やめる。

・そんなことの為に歌ったり、表現したりするのか? 「違う」。もちろん。うえに書いたようにそういう疑問すら持たないままにメディアに「のせられて」やってる人間に関してはもうどうでもいい。語らなくていい。と自分でわかっているのだから、あえてこうして言葉にする必要はないのか? 本当にそうだろうか? そういう「奴ら」を相手にしないでいれば済むことだろうか? 何処かに同じような思いを抱えて表現している人たちはいないだろうか? そういう人たちへ向けて「大丈夫!」と背中を押すような、そんな言葉を書くことはできないだろうか、、、。

・「裏切らない」こと。こうして、誰に読まれるためにでもなく文章を書き続ける、ということと同じく、ただただ歌を紡ぐ。という、自分の表現の始まりの純粋さ(?)を裏切らないこと。何処かにいるだろう、自分と同じような思いを持ちながら表現している誰かを裏切らないこと。

・「裏切る」。というのは。例えば、「昔からのファンを裏切る」というような言葉があるとして、、、。その「裏切る」というのは、表現する側の人間が「進む」ために、彼ら(ファンの人々)が好きだといってくれていた、音楽性を棄てて、別なものを切り開く。ということでない。もともと提示してた音楽性の、その棄て方が、「売れるため」「多数に向けて」という理由だった場合に「おいおい」となるのじゃないか。ということ。続けていれば、変化はある。けれど、その変化が「進むため」や「濃さ」に向かうのでなく、ただの「拡散」に向かうような時。新たな(薄い)ファンの「獲得」に向かう「だけ」でしかないような時。

・書きたいことの「少し」も書けない。こういうのを書くときはどうしても、あつくなってしまって、そのせいもあって、収集がつかなくなる。けれど、文章として、収集がつくかどうか、まとまるかどうか、なんてことよりも、上にも書いた「出会ってもいない、遠くにいる、名も知らない友達」に向けて「何か」が伝わればいい。のだけど、これで何かが伝わるのかどうか、は心もとない。

2013.3.25 261 『雪解けの水で勢いと嵩を増した川の上を一羽の鵜が飛んで行く』

03 26, 2013 | 日記2013

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・夜に迷い。足を運べない。何処にも寄る辺なく。足音は絶え。静けさが殻を破って生まれる。地面を覗くとそこには影。頭上を見上げれば月が照らす。こぼれる涙は誰の涙か。終わりも知らない道の、何処かで、足踏みしめて、かすかな明りを背に、涙あふれるその両の手で、それでも明日の扉を叩くのだろう。

・ある涙が流れる。として、それは「私の涙」か「誰かの涙」か。というより「私」と「誰か」という円の内側、外側の関係ではなく、「私」というもの自体がすでに「誰か」なのであれば、、、。名づけようのない涙。

・雪解けの水で勢いと嵩を増した川の上を一羽の鵜が飛んで行く。


2013.3.24 260 『誰かに向けて、分かり易く説明しようとする場、ではない。ここは、単に、ぼくの自由帳』

03 24, 2013 | 日記2013

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・蛇口から流れる少量の水をすくい、ごしごしと合わせられた手からこぼれる水は、風呂の床の白い色に黒い跡を残した。私の手は泥に汚れている。ということらしい。

・開封したばかりのウイスキーをグラスに注ぐ音。を、言葉にしようとしたところで、どうしようもない。その音の不思議さ、心地よさを、それを聞いたことのない人に向けて、言葉で伝える術をぼくは持たない。ということと同様に、「音楽やってるんですか? え〜、どういう感じの音楽ですか〜?」と聞かれたとしても、そんなの言葉にできるはずがなくて、もし寸分違わず「言葉のみ」でぼくの音楽を構築できたとしたら、そもそも音楽などやる必要はない。いえることはただ「聞きにくれば?」しかない。

————————————(なんとなく、区切り。のつもり、、、)

・河原の土手を馬のような犬を散歩というより従えるように歩く女は牛よりも太っているように見える。隣の隣の隣の車の中で本を読む女の貧乏揺すりのせいで電線上のカラスはぐらりぐらり上下に揺れながら鳴いている。——いや。ぼくには、何も見えるはずもない。というのも、ぼくはたった今、車の中で、薄手の寝袋にくるまり、普段より少し遅い昼の眠りに落ちている。の、だ。 


・ん? は? ぼく? 主体? 誰の? 目? と、、、。でも、ぼくがいう修行とはこういうこと。自分でゲラゲラ笑ってしまう。はっはっは。「読みづらい」とか「は?」とか「わからない」とかはどうでもいい。誰かに向けて、分かり易く説明しようとする場、ではない。ここは、単に、ぼくの自由帳。

2013.3.23 259 『いっそのこと創作したって構わないのだ。よ』

03 23, 2013 | 日記2013

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・セリ田のあぜ道の、水の流れで壊れたところや、人が歩いて高さが減ったところや、モグラが堀った穴を直すために鍬(くわ)で泥土を盛る。鍬作業は全身を使う運動で、明日はどこか予想のつかない場所が筋肉痛になりそうな気がする。

 鍬の運動の奏でるリズムはどうしても地面に突き刺す方が強調されて、「裏拍子(振り上げるときの)」には重点が置かれない。日本人が「裏」のリズムを取るのが上手でないというのは、こういう農耕民族の血のせい、とかいうのをどこかで聞いた覚えがあるけど、実際どうなのだろうか。分かる気はするけれど、、、。

 それはいいとして、鍬を振りかぶって、泥土に突き刺す、を繰り返していると、なんとなく歌いたくなってくるような気になって、そういう時の歌はそれこそ「農家のぶるーす」のような歌になる、のは不思議というか、、、。そういうのを身体で理解する。


・ぼくら以前に生きた人々の、生活のリズムの中で生まれた歌の始まりの場所、のリズムを身体で理解する。

・これが、海であれば、海の。山であれば山の、、、。

・曲をつくる時は英語の曲(英語と呼べるのなら)は英語のみ。日本語の曲は日本語のみ。という、別に決め事じゃないけど、完全に分けていて、二つの言葉が混じるようにはつくらない。多分、これからもつくらない。理由は特になく「なんとなく嫌だ」というのが一番の理由といえば理由。

 そうして分けてつくっていると、言葉というものが、音楽によって与えられるメロディーや、リズムに依らずに、言葉として独立して、そもそも言葉自体でリズムを持っているように感じられる。そして、それは英語と日本語では持っているリズムがどうやら違うらしい、みたいなことも感じる。英語の持つリズムに無理矢理日本語を当てはめるようなこともできるのだろうけど(桑田みたいに)。


・などといいつつ、歌詞は、「意味の伝達」を目的としないのならば、「言語選び」など、そもそも、どうでもいいのであって、いっそのこと創作したって構わないのだ。よ。

2013.3.22 258 『けれど、何度も言うように「ライブは発表会ではない」』

03 22, 2013 | 日記2013

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・最近はまた音楽を聴かなくてよくなっていて、けれどその中でカーティス・メイフィールドの「Live!」だけは聴いている。ヘッドフォンではなくスピーカーから聴いているのが心地よいのだけど、こういう音こそ聴き込んだほうがいいのかもしれない。と思う。このシンプルな構成で、というかシンプルな構成だからこそ出すことのできる密度。

 ぼくは大勢のバンドというのはあまり好きではない。というか、演奏する立場として、そういう人数の中ではやる気がない。人数が多ければ多い程、事前の約束ごとが増えて、その場の流れに身を任せて演奏するには難しくなってくる。その場の掛け合いで何かが生まれる、掛け合いに集中できる人数は三人くらいがぎりじゃないか、と思う。わからんけど。


・昨日のぶんのつけを払えたかどうか。進んだことは進んだ。今までつくってきた曲は一応の「型」があって、それに縛られながら(曲とはそういうものだ、というのが普通なのだけど)演奏していたけど、曲というものが別に「型」のあるものでなくていいんじゃないか? と思い始めてから、自由度が増したように思う。

 今までの曲はその場で「無理矢理」に変化させていた感じがあったけど、今つくっている曲たちは「そのつど変わる」という「余白」をもともと持っているような曲といえばいいか、、、。「あなたの曲をカバーしたい」なんて人が今後出てくるとは思ったことはないが、もし出てきたとしても大変だろうな、と思う。だって「原曲」というものがあってないようなものなのだから。


・カーティスの「ライブ!」。いい。内容もいいのだけど、このドライな音質はどうやって録音したものなのだろうか。音質のひとつの理想。

・上に書いた「その場の流れに任せて演奏しづらくなる」というは「破綻しづらくなる」ということ。か。別に破綻することを目的として演奏するわけではないけど、「見えない」ところに迫ろうとすると、どうしても吃るような演奏になってしまうことがある。それをぼくは悪いと思えない。

 そのライブでどこまで遠くへ行けたか? というのは、どこまで破綻してしまうギリギリのところでやれたか、もっといえば、破綻を怖れずに進めたか、ということで、だから、ぼくは破綻することを怖いとは思わない。いや、違う。怖い。けれど、そこに手を出さずにはいられない。というアホなのだ。な、きっと。

 それは、お客さんからしたら「あの人は何をやっているのだろう?」とか「下手くそ」とか思われるかもしれないけど、それは別にいい。もちろんぼくだって「ライブ」を「発表会」として捉えていたとしたらもう少しまともな演奏ができる。けれど、何度も言うように「ライブは発表会ではない」。

2013.3.21 257 『次の日にそのぶん頑張る』

03 22, 2013 | 日記2013

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・立派すぎる二日酔いの一日。このぶんの遅れは取り戻さないと。「二日酔いでその日進められなかった作業は、次の日にそのぶん頑張る」。単純明快でよろし。

・「おもしろい」ということは、楽しいも、切ないも、悲しいも、つまらないさえも含むもののように思っているので、楽しいことだけが「おもしろい」のでなく、つまらないさえも「おもしろい」ことがある。

・上で書いた「つまらない」は起伏のなさ、平坦であること、わからなさ、ということかもしれないがそれは「つまらない」ことなのか? 

2013.3.20 256 『高校生のとき禁止だったバイトをこっそりと始めて』

03 21, 2013 | 日記2013

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・その公園はもともと城で、今もお堀が残っていて、その内側の高台を一周。堀を泳ぐ鴨の群れ。鯉。ブラックバスの魚影。を釣ろうとする男たち。ベンチで眠る作業服のおやじ。ベンチでiPadを操る男。太った黒猫がこちらを警戒してツツジの木の陰に隠れるように歩いていく。電車の音。桜はまだ咲かない。

・高校生のとき禁止だったバイトをこっそりと始めて、その最初の給料で友達数人と食べにいった、お好み焼きや焼きそばを出す、線路をこえるための橋のしたにある小さな店はまだあって、その店が見えるかどうか高台からみてみたものの見えなかった。

2013.3.19 255 『もう既に眠っているのかもしれない。こうして書いている間も、、、』

03 19, 2013 | 日記2013

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・フキノトウを探し歩いてみるが、まだ見当たらない。どうやら遅れているらしい。遅れているといわれても、探したこともなかったのだし、「そうですか」とただただ思うしかない。自宅のいつもフキノトウが生える場所はまだ雪に隠れている。

・本を読まない時間が続くと、何も考えが浮かばないような。というのは、やはり、考えるということも、自発的なものでなく、外側からの要求だということを思う。

・嘘のように眠い。何かの陰謀的に眠い。もう既に眠っているのかもしれない。こうして書いている間も、、、。

2013.3.18 254 『「何かいい言葉を言おう感」とか、「上司から後輩への権威を振るうだけのただの説教」とか、「合コンで語られる男の夢の話」とか』

03 18, 2013 | 日記2013

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・今朝、玄関を開けた瞬間に、寒さは感じず、それで車のフロントガラスも凍っていなかった。鍵を差し込んでドアを開けると鳴き声が聞こえて、それが(慣れのためか)白鳥の声だとすぐにわかり、見上げると五羽の白鳥だった。ちょうど見上げるぼくの真上を五羽の白鳥は三羽と二羽に別れてみたり、また一つのV字形態をつくりながら、今回は北へと向かって飛んでいる。今度こそ北帰行。

・「田んぼの水に朝の太陽の光が揺れている時の内省を拒む感じ」というようなことを、こないだ書いたのを思い出して、我ながら「ほう」と思う。あの感じ、感覚はなんといったらいいのか。ただただみている。「その光景を目の当たりにして自分の小ささを実感ーー」とかそういう「何かいい言葉を言おう感」はどうでもよくて、ただ感覚が反応している。

・と書いて「何かいい言葉を言おう感」ていう言葉が馴染む。何人かで話をしているとして、笑い声の中でならわかるだけど、笑い声を遮るように「なんかいい言葉を言おう感」を出されると興ざめする。結局「ほんとに重要なこと」でもなんでもなく、くだらない自己啓発本からの引用のような、スカスカの言葉。たまにいる。そういうの。たまたま飲み屋のカウンターで出会ってしまう、会社の飲み会の後で一人ではしご酒するネクタイのおっさん。とか。

・「何かいい言葉を言おう感」とか、「上司から後輩への権威を振るうだけのただの説教」とか、「合コンで語られる男の夢の話」とか、そういう感じ。そんなスカスカでつまらない言葉をいうくらいなら、黙っているほうがよほどいい。と思うけど。喋らずにはいられないものなのだろうな。

2013.3.17 253 『ある時ふと振り返ってみると、歩いた「距離」に驚くだろう』

03 17, 2013 | 日記2013

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・何度も書いたかもしれないけど、こうして日々文章を書くのはぼくにとってひとつの修行のようなもので、だから、「書くことができることを書く」のでなくて「書けるはずのないことを書く」ということに重点がある。本来ならば、日記や、ブログの文章というものは「報告」でいいのだから、「書くことができることを書く」という部類の言葉。それもその底辺の言葉でいいはずなのだけど、それでは進まない。曲を書くにしても、ライブをするにしても、そのつど「使い果たしてしまって、後には何も残らない」ような舞台でやらなければ、いつまでたっても進めない。そういうことを繰り返す日々の中で、ある時ふと振り返ってみると、歩いた「距離」に驚くだろう。「ずいぶん遠くまで運ばれたもんだ」。

・今日も軽トラで移動しながら落ち着いて曲作りができる場所を探してみた。周りからみたら「変」なのだろう。と思う。軽トラの中で、ギター弾いて歌って、ノートに文字を書いて、身体は揺れているのだから。ま、そんなことはどうでもいい。今書いている曲達はおもしろい。ライブがしたい。と素直に思える。

・今、当たり前になっているようなことが当たり前ではない時があった。ぼく個人の話。ライブなんて、五年前のぼくにはほど遠いものだったのだし。五年でこれだけの変化があるのだから、今後は? などと「見えない」ことを楽しみにして生きるような人間だから、「安定」などという言葉と縁がないのは仕方ないだろう。地図もない道を歩いていくのだから。自身で地図を作りながら歩いていくのだから。とりあえず、死んではいけない、ということ。これから五年後の自分をみたいのなら。

2013.3.16 252 『逆に、夜の灯りというのは、なんというか、内省に寄り添う』

03 16, 2013 | 日記2013

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・本屋の真ん中に設置されたベンチに座り、イヤフォンを耳に当てながらずっと英語の発音の練習をしている男。本を片手で開きながら、英文を大きな声で呪文みたいに唱えている。さすがに売り物で練習してるのじゃないだろう? と思いながらも。どうだろうか、、、。新刊のコーナー近くにベンチが設置してあって、ちょうど探したい本があったので目でタイトルを追うのだけれど、あまりにも大きい声で復唱するものだから、さすがにうるせえな、と思いながらも、どこかで感動している自分がいる。

・言葉の持つ「コミュニケーションツールとしての機能」を脱臼させるように紡がれた言葉が「詩」なのか。どうか。そこにあるのは言葉であるに関わらず、「疎通」することに意義を持たせていない。どちらかというとリズムや、メロディーさえ聞き取れるような連なり。言葉であって、言葉でないもの。

・目の前でランタンの灯りが揺れている。夜の中にある灯りと、朝の田んぼの水の上で揺れる光と、それは違う印象を生むものだけど、どちらも好きだ。けれど、太陽の揺れる光は、なんというか、内省を許さない。ただその光景に釘付けにさせる。内省や自己や意味を越えている。逆に、夜の灯りというのは、なんというか、内省に寄り添う。そんな気がする。だから、ランタンの灯りで飲む酒は進んでしまう。が、深追いしてはいけない。よ。

・と書いていて、今わかったのだけど、「内省的」というときの「内省」は「ナイセイ」と読むのですね。ぼくは、ずっと「ナイショウ」だとばかり思っていた。いくら文字を打っても変換されないから、調べてみたらそういうことだった。

2013.3.15 その2 252 『出来損ないの橋は夢を見る』

03 15, 2013 | 日記2013

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Nina Simone 「And Piano!」

これがあればぼくは当分生きていける。

そんなものをぼくもやりたい。
憧れの憧れの憧れ。

それでも。
そういうものがやりたい。
と願う。

願う。だけでは。どうしようもないので。
だから。つくる。
がむしゃらにつくる。
そして。うたう。うたう。うたう。

ぼくは。だから。うたう!!
遠いよ。そりゃ。遠い。
それでも。それでも。うたう。

繋ぐ。
のです。
絶やせない灯りがあるから。
繋ぐ。繋ぐ。繋ぐ。

ぼくはひとつの橋。
出来損ないの。
ただ憧れるだけの橋。
それでもうたうことをやめない。
やめない。やめない。やめない。

出来損ないの橋は夢を見る。

2013.3.15 251 『それだけで十分だ。と思えてしまう一日の始まりを過ごすことの歓び』

03 15, 2013 | 日記2013

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・田んぼの水の風に揺れる。太陽の光りの揺れる。その様子を見ているだけ。それだけで十分だ。と思えてしまう一日の始まりを過ごすことの歓び。

・家の二軒隣は公民館で、地区にひとつしか無い。だから、ぼくらが子供の頃はよくその公民館で遊んだ。てんつきが多かった。てんつきは缶蹴りのようなもので、缶のかわりに公民館の中央にある電灯にタッチするのだ。ぼくが幼稚園の頃に新興住宅地として売り出された場所で、同世代の子供達は多かった。ここ数年は公民館で遊ぶ子供もあまり見かけなくなっていたけれど、今日大勢の子供達が公民館で缶蹴りをしていた。建物の陰に隠れる男の子。看板の裏に隠れる子。なんだか嬉しかった。車のブレーキを少し踏みながらゆっくりと進んだ。

・なんだかとても曲作りをしたくて仕方が無い。進んでいるかどうか、は別に。今つくっている同時進行の数曲は、へたに完成を急いでいない、ということと、遊びの中でうまれたものをそのままつかう、ようなことで今までの曲と自由度が違う気がする。揺らぎながらつくる。これは強力なものができるような、予感。

2013.3.14 250 『空は晴れて、月がはっきり。今宵、上弦の月』

03 14, 2013 | 日記2013

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・空からの声。鳴き声。白鳥の群れ。を田んぼに浸かり見上げるぼく。昨日、今日と何度か鳴き声を聞いて見上げた。今日みた群れはちょうど編隊を修正するところ。複雑な動きでよくわからなかったが。北帰行か。と思ったけど、考えてみると白鳥が向かっていたのは南で、どういうことか調べてみても検索が上手くできない。北帰行の途中の一時的なものなのか。鳥も動き始めている。春。

・軽トラの中というのは落ち着く。家にいても集中できなさそうだったので、軽トラで移動。近所の川の近くにある小さな公園(公園というより東屋とトイレ)の駐車場に停めてギターを弾く。ながら、曲をつくる。落ち着く。電灯が点く。車が走る。空は晴れて、月がはっきり。今宵、上弦の月。

・農家の人たちの動きが活発になってきた。ビニールハウスの修繕や、ビニールの取り替え、土の下準備。

・Kさんや、おばさまがたの影響もあって、今年は初心者でも手の出せる「野菜でもつくってみようか」、なんて考えたりもしている。いやいや、そんな考えが自分の中に生まれるなんて考えたことが無かった。十代ころのぼくも、二十代のころのぼくも、それを聞いたらきっと驚くだろう。とはいってもつくるの確定ではないけれども。

・今宵の酒は「OLD CROW」。古鴉。久しぶりのバーボン。安スコッチ探しは今も続いていて、ザ・ダークは馴染まず、ホワイト&マッカイを呑んで「ほう」と思って、間に手を出したメンディスゴールドアラックは「別にいいや」という感じ。ホワイト&マッカイが少し甘い感じがしたので古鴉を買って、それで今はその二本がある。と放置のメンディス。次は何にしようか、酒屋にいって迷おう。

・昨日の変な文章(249)を少し書き直した。

2013.3.13 その2 249 『ナオノゾミ』

03 13, 2013 | 日記2013

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船が沈む
その孤独の衝突の果てに
月の照らす水面の上で

終わりない物語を
紡ぐ手の痙攣
死にゆく陽の中で

もうじき生まれる
新しい一日に
繋ぐ橋は見当たらず

踊るピアノの旋律に
抜け殻のような
言葉を探し

幾数もの魂が
鳴らす鐘の音が聴こえない

立ち昇る
汽車の煙の中に
愚かな夢を見る

道化は
汗にまみれ
踊り続けている
誰の目もない
誰の耳もない
完璧な暗がりの中

踏み鳴らされた足音は
風に溶けて
見上げた果てにある
ひとつの歪な
光る塊に涙の流れる

それでも 尚望み
それでも 尚臨み
それでも 名を希み

そんな夜に、、、

2013.3.13 248 『どうも最初の一文を書く気になれない』

03 13, 2013 | 日記2013

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・灯りとしても使っていたストーブを使う機会が減ってきて。その分の灯りをどこからもってこようか。最近は大きいディーツ製の七分芯のランタンを主に使っていたけど、久しぶりにフュアハンドランタン(これは四分芯)に火を点けてその作りの丁寧さにあらためて驚いた。明るさもそれほど変わりないように思える。

・メモ程度に頭に留めておいたことを書こうと思ったけど、どうも最初の一文を書く気になれない。多分、書き始めてしまうと、どういう風に転がっていくかわからない、という予感があって、今日はそれよりギターを触って曲をつくりたい、と思っているからだろう。書き始めてしまったら、頭に鳴り生まれる言葉がなくなるまで書くことになる。だから、今日は筆に任せて書く。はやめておこう。それよりも、曲をつくる。のだ。

・ということで、明日へ。

2013.3.12 247 『悲しみ震えるその両の手で それでもこの世界を抱きしめたいと願うのだろう』

03 12, 2013 | 日記2013

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・10日の記事のコメントへの返信を。コピー。

【はい。やっぱり、ライブを終えるごとに進みたい。少しでも。だから、発表会でも、披露会でもない。何だこれは? というものが現れてきて、それに戸惑いながら、翻弄されながらその時間に没入する。そういうものだけがおもしろい。だから、伝えたいメッセージより、客より、拍手より、それまでの自分の範囲を越えてどれだけ遠くにいけたか、それだけが頼りです。それはどこか祈りみたい。けれど、それは静かなものでなく、踊り舞う足音の騒々しさの最中にあるような。そんな特異な祈りかもしれないけど、、、。試行錯誤というのが頭の中だけでの鬱々としたものでなく、舞い踊る、その身体の動きや、滴る汗や、笑い声の、その最中にあるようなそんなライブをしたい。と思っとります。思っているというか、そういうことをやりたい、と、こうして書きながら確認しています。だから、またコメントください。それで、そんなライブでよかったらまた遊びにきて。ほんで、ゆっくり呑みましょ。】

・コメントの返信は宛先がはっきりしていて「伝えよう」と して書くからなのか、書き易い。し、なんというかまとまっている。気もする。いつもは、どこにいくのか分からず書いていたりして、要点をまとめるというのは二の次で、ただ流れに任せているから。だから、もつれる。もつれることがよくない、などとはさらさら思わない。

・と書いておもったのは、ぼくがつくる曲も「宛先が」はっきりしていないから、まとまらないのかもしれない。まとまったらいけないのだけど。こないだも書いたけど、宛先など書けるわけがない。それでも血まみれの指先で引っ掻くように書く。のだ。

・今、四、五曲程度を同時につくろうとしていて、ぼくにはこういうつくりかたがあうのだろう、と感じている。以前は一曲を完成させることだけが目標になってしまって、「とにかく完成させる」ということに囚われて完成したものを演奏しても、つまらん、と感じていた。だから、時間をかける、というか、「おっ」というものが出てくるまで、遊びの中で推敲したり、淘汰されたり、という場所でつくっていこうと思う。

・海に関わる仕事をしてきた人の現在の生活を取材した番組の中で「破壊された海」というフレーズが使われていたのを聞いた。けど、ずっと海と共に生きてきた人たちは「破壊された」という言葉を使うだろうか? メディアが勝手なイメージでそういう言葉を使っているだけじゃないか? ——と書いて思ったけれど、そもそも「破壊された」という言葉は変ではないか? 破壊されたも何もない。海は破壊されていない。(メディアが言いたいのは「彼らの生活を壊した海」ということかもしれないが)海は、海として、海なりの運動をした。どちらにしても、メディアの勝手な言葉の使い方で、海と共に生きてきた人たちの海に対する思い、向き合い方がねじ曲げられてしまう可能性があると思うと、なんだか変な気持ちになる。

・——ということと原発は全く違う話だ。

・血にまみれたその指で それでも宛てない文を書き綴るのだろう 

・悲しみ震えるその両の手で それでもこの世界を抱きしめたいと願うのだろう

2013.3.11 246 『黙祷——』

03 11, 2013 | 日記2013

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・黙祷——。

2013.3.10 245 『二曲目じゃ 踊り子脱ぐのは まだまだだ』

03 10, 2013 | 日記2013

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・昨晩はいい夜だった。感じたこと。ライブ後に考えたこと。はあるけど、今の頭では書ききれそうにない。

・何だか思いつきで、ほぼ全ての曲を立って演奏してみた。また違うものが生まれてくるようで。ただギターストラップを持っていないのでギターが落ちないように腕を使わなければならず、その部分が痛い。

・ざ・べっが〜ずのシュンちゃんにドラムを。The 黄昏カラアズのしんでぃーにギターを。手伝ってもらったり。おもしろかった。そりゃおもしろかった。

・ライブというものが何かを披露するものというより、そのまま試行錯誤であるというようなライブ。を目指す。

・今日の一句。笑点より。

【二曲目じゃ 踊り子脱ぐのは まだまだだ】 三遊亭小遊三

2013.3.9 244 『うごいている身体が それ自体とそれを撹乱する外側の両方に注意を向けている夢の持続のようなありかた』

03 09, 2013 | 日記2013

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・高橋悠治のHPより。

【(略)——ここに書いていることには個人的な好みもあるが、時代のスタイルの現われでもある。その有効性ははじめから限られている。表現や構成や綜合を めざしてはいないし、それらからはむしろ解放された方向にひらいたものでありたいとは思うが、じっさいそうなっているかどうかはわからない。 こうありたいと努力するようなことではなく、努力やよけいな緊張のない、なにかちがうものであろうとするストレスのない、うごいている身体が それ自体とそれを撹乱する外側の両方に注意を向けている夢の持続のようなありかた。それはことばの本来の意味で練習とも言えるが、楽器の練習 と言うときによくある反復ではなく、いつもちがうやりかたの実験でありつづけるという意味の練習と言ってもよいだろう。(略)】

・勉強になる。というよりは、いろんな部分が「パカッ」と開けていくように感じる。この人が書いたものを読むと。自分だけでは開けきれなかった部分というか。ノックはし続けているのに、、、開いてくれなかった部分。というか。とはいえ、ここに書いてあることを本当に理解できているか、なんていわれたらできてないだろう。よくわかっていない。それでも、だ。

・それほど気温は上がらないらしいけど、これだけ太陽の光に包まれていたら、実際の温度なんてのはあまり当てにならない。仙山線から眺める景色が楽しみだ。寝るかもしれないけど。

2013.3.8 243 『つくしのような気がする。というくらいのつくし』

03 08, 2013 | 日記2013

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・ラジオでリスナーから「春の匂いがする」という投稿があった。とパーソナリティーがいっていた。「雪が溶けてきたので土の匂いなのでしょうか?」といっていた。鼻づまりのぼくには何ともわからない。ここ数日の陽気で確実に目の中に入る「白」は減った。草の姿もよく見えるようになった。小さな小さなつくし。というか多分つくし。つくしのような気がする。というくらいのつくし。がいる。太陽の当たらない通りの氷をおばあちゃんが足を引きずりながら、つるはしで叩き割っている。ぼくは、その場所をセリのコンテナを積んだトラックで通り過ぎる。

・明日はボーズバーライブ。どうなるものやら。ま、わかったらつまらないのだから。自分が。

・ふきのとうが待ち遠しい。いろんな人の影響でバッケみそをつくろうか、なんぞたくらんでいる。市販のはなんとなく添加物の味が前面にでてきて苦手。それは漬け物でもなんでも、全般にいえることで。けど、だったら自分でやれば? などというところにはいかなかった。いろんな人の影響。おもにおばさま方だけど。言いちがいのKさんはぼくのひとつ上で、でも自分で野菜を作ったりしていて、その話の影響ももちろんある。

2013.3.7 242 『そば屋のホールはおばちゃんがいい』

03 07, 2013 | 日記2013

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・今日は軽トラで市場にセリを運ぶことにして、手荷物と、いつも車に積んであるマーチンの小さなギターを軽トラにのせて出発。軽トラとギター。それだけで気分は上々。市場の帰りに、始めて行く新しくできたそば屋の「肉そば」を食べ、眠くなって、河原にはまだ雪があって入れず、お城跡の公園で寝る。ポッカポカ。そして歌ってみる。軽トラの中は狭いけど、悪くない。小便をして、移動。ベンチで眠る灰色猫を眺めて、犬に引きずられるように走る男を眺め、公園を出た。本屋によって、何も買わずに出る。家の近くの公園の駐車場に入ってまたギターを弾いてみる。悪くない。コンビニに寄ってビールを二本買って帰宅。玄関脇に軽トラ。その中には小さなギター。軽トラとギター。俯瞰のイメージ。上々だ。

・そば屋のホール係が二人とも若い女性で綺麗でしたので、少し緊張した。そば屋のホールはおばちゃんがいい。あるいは、おばあちゃんがいい。そのくらいがちょうど緊張しなくていい。ま、どうでもいいけど。

・鼻づまりがいかに集中力を削ぐか、という実感。これはほんと困る。

・ドロドロに眠い。ので眠る。

2013.3.6 241 『はい、バタ〜』

03 06, 2013 | 日記2013

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・昨夜のBS。「山田洋次が選んだ日本の名作百本」の最終回。は、「男はつらいよ」だった。一作目。を録画していたので、ちょっとだけ観ようと思って、観始めたら結局最後まで観てしまった。寅さん若い。さくらかわいい。とってもかわいい。一代目おいちゃんかっこいい。このままの勢いで二巡目に突入する予感。はい、バタ〜。

・その手紙には宛てもなく私の名前も無い。宛てなど書くことができない。あなたを知らない。何処にいる、誰なのか、を私は知らない。それでも、書くしかない。どうやら、そういうものらしい。

・ここまで書いて、ギターを弾いた。頭を垂れて。目は閉じられ。そんな状態でずっとフィンガーピッキングをしていて、それで時間が過ぎた。その時間を終えて、少し歌ってみる。何を、というわけではなく、思いついたものを。それで、たまに思うけど「俺ってすっげえいい曲書くよな」と。ほんと、たまに思う。でもすぐ忘れる。

2013.3.5 240 『雨が大地に浸み降りていくように、歌われた歌は大地に浸みないだろうか』

03 05, 2013 | 日記2013

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・雨が大地に浸み降りていくように、歌われた歌は大地に浸みないだろうか。

・比喩でなく。全く比喩じゃない。

・今日のKさんの言いちがいは「泥仕合(どろじあい)」が「泥沼仕合(どろぬまじあい)」になった。元の言葉より、ずっとダイナミック。すごい。これはもう「言いちがい」というより「創造」。「違いますよ」なんて指摘する人間の方がアホみたいに思える。

・セリをひいている途中、「考え事」とも呼べない自由演奏が頭に起こって、ある言葉を思い出した。以下。

【よくいわれることだけど、「練習は本番のように、本番は練習のように」ということがありますね。「練習は本番のように」ということは、たとえばあるフレーズを一回弾くでしょ。二回目には違うふうに弾かなきゃいけない。それが本番のように弾くということ。だからバッハは、誰かが何回やってもそれだけ違うわけですよ。練習というのは「Practice(実践)」でしょ。それは一回限りということですよ。反復練習というのは近代以降のものなんです。「本番は練習のように」ということは、家でやるようにくつろいでやるということです。ステージがあってそこから見下ろしてメッセージを出すんじゃなくて、自分で好きなことをやってそれを見にくる人がいるということです】 アルテスvol.1 p116.117 「高橋悠治インタビュー」より。

・セリ摘みをしながら、思い出したときは、ここまで、具体的に言葉が出てきたわけではなく、「練習では二度同じことはできない」「本番はくつろいで」というなんとなくのイメージが出てきただけで、けれど、「さらっといってるけど、実はめっちゃ厳しいこといってるよなあ」とか「こわいなあ」という思いがずっと巡っていた。いや、本当に、これは凄く厳しい言葉。練習の時点で、同じことをやってはいけない。のだから、、、。これは凄い、、、。本を本棚から取り出して、その箇所を探し、実際の文章を読みながら、こうやって、なぞるように書いてみると、何だかそれだけで泣きそうになる。この言葉はぼくの中に刻まれるでしょう。深く深く。沈殿。

2013.3.4 239 『「残す」のでなく「残ってしまう」ということに近い』

03 04, 2013 | 日記2013

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・免許更新。忘れていた。ギリギリ間に合った。前回もそうだった気がする。いや、前回は過ぎていたのか? こういう計画性というか、スケジュール管理の能力のなさにいつも感心する。優良ドライバーということで講習は30分。講師の姿形や、喋り方がどうしても鈴木宗男にしか思えず、困った。少しまろやかな鈴木宗男。まろやか宗男の講習が終わって、新しい免許を受け取り、古い免許をもらってきた。前回ももらってきた。変遷。をみるのもいい。どれだけオッサン化していくか見物。

・昼からは田んぼ。一緒にセリを摘むKさんはいつも何かしら「言いちがい」があって、その言いちがいが微妙なものだから、なかなか指摘しづらい。果実酒づくりに使う「ホワイトリカー」は「ホワイトカリー」になって、(水が)「淀む(よどむ)」は「どよむ」になって、「鶴の一声」は「猿の一声」になる。別に鶴でも猿でもいいといえばいい。

・探偵ナイトスクープを観る。二十五周年記念番組。スキップの女とか凄いな。個性というのは、ああいうことじゃないか。と思う。そうとしか動けない。というような。身体。

・今日もまたニーナ・シモン「And Piano!」を聴く。誰の歌を聴いても、ディランの歌を聴いても何を歌っているのか? ということは気にならなかった。「意味」よりも「歌そのもの」を追って聴いていた。——と書いて気がついたけど、自分にとって歌は「意味」ではやっぱりないらしい。でも、何故かニーナ・シモンは「どんな言葉を語っているのだろう?」ということが気になる。こういうのはあまりない。こういうときは英語が理解できればなとおもったりする。近くに英語ができる人がいればな、とおもったりする。でも質問攻めになってしまうだろうから、相手も困るだろうな、とも思う。きっと迷惑をかける、、、。ニーナ・シモンを体験するというのは何だかそういうことらしい。ぼくにとっては。不思議。

・「残す」ということのために何かを。やるのでない。何かをやるのは、歌ったり、書いたりするのは、その何かをやってる最中にしかないものを経験するだけであって、「残したい」からでない。だから、「残す」のでなく「残ってしまう」ということに近い。

・これは上手く言葉にできそうにない。けど、小説を書く、という作品の「残ってしまい方」と「録音する」という残り方はどこか違うような気がする。ということをずっと感じている。小説を書くというのは「何かをやってる最中にしかないものを経験する」というのがそのまま形として残るけど、音楽はそうじゃない。というか。もし音楽の試行錯誤をそのまま形として残そうと思ったら、ずっと録音しているということしかない。あらためて、気合いをいれて「いっちょ録音でもしましょうか」というのと違う。ような気がする。上手く言葉にならないけど。

・文章は試行錯誤がそのまま文章という形になる。けど、音楽の試行錯誤は、録音というのを離れてもっとずっと日々の練習というか、遊びの時間の中にある。というか。「残そう」という気持ちで残そうとした時には、何か「死んだような」ものになってしまうのではないか。という気がする。音源というのが、どこか死んでいるように感じるのはそういう理由からか、、、。と、書きながら思うのは、自分が録音というものにそれほど重要性を見いだせないのはそういう理由からなのかもしれないということ。と、書いて、また思うのは、これは自分の中でとても重要な問題なのではないか、ということ。このことについてはもっともっと考えたい、と思う。

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