2013.2.28 その2 235 『今宵は、ニーナと月に恋をする。』

02 28, 2013 | 日記2013

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・ニーナ・シモンの何枚か組のアルバムを買って、それで今日は聴いたことが無いものを聴こうとおもってかけた「Nina Simone And Piano!」が凄い。凄い。以前一度くらいは、かけたことがあるのだろう。けど、覚えていない。今日の、今のぼくの何処かに見事にはまる。はまるなんて、自分の尺度は関係なくて、ニーナが凄い。だから、それで、スピーカーでなくヘッドフォンで聴きたいと思って、パソコンにおとして聴いていて、それで参っている。参りながら、その音をただただ追いかけながら、たまに笑ったりして、それで聴いている。ぼくはニーナ・シモンが好きみたいだ。とても、とても好きみたいだ。

・窓を開けたら、月が見えて、そのあまりの孤独な輝きにこれまた驚いた。星もない。冷たい空気に身を乗り出して、月を見る。凄い。凄い。満月を過ぎたその月は今は雲に霞んで。今宵は、ニーナと月に恋をする。

・勢いで二度目の日記を書く。日記? 日記だ。何度書いても日記だ。

・それでもう少しだけ酒をのんで、呑んで、それで眠る。明日は早起きして、それで曲を書こう。その思いを起きた時に忘れていなければ、、、。

2013.2.28 234 『変な文章になり初めていますよ、松沢さん、、、。』

02 28, 2013 | 日記2013

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・音楽聴きたくない。状態。それが何処から来ているのかは知らない。季節が変わりつつある中で、その風景の中に、音楽以上に歓びを感じる対象を見いだしているからなのか。それも知らん。ただ聴きたくない。のかもしれないし。つくっているからかもしれないし。という状態の中にいながら、少し音が恋しくなって、選んだ歌はNina Simone『Nina Simone And Piano!』。

 加湿器の音がうるさいので、消した。そのかわりやかんに水を入れてストーブをつけ、かける。今日買ってきたウイスキーは度数が三度高く、それが感じられるけど、気には入らない。その前のボトルの方が良かった。水はまだ水のままだ。お湯にはならない。たった今火にかけたばかりなのだから。ニーナは歌う。めんどくさいのでカタカタでニーナ。ニーナはうまくはない。「うまくはないけど、なんか味があるよね」っていうあれは何なんだ? わからない。ニーナといえば、どうだろうか。味。とかそんな部分でぼくは聴いているのだろうか? わからない。わからないことばかりだ。自分が聴いているにも関わらず。自分が見ているにも関わらず。いつだって。主体もくそもない。——なんだか変な文章になり初めていますよ、松沢さん、、、。知らないよ、そんなもの。


・昨日から喉がイガイガしている。喉かぜというものだろうか。扁桃炎とは違う。あれは、すぐに熱が出る。

・昨日十代からの友人とメールをしていて、彼女の職場の同僚は野外フェスを見に出かけたりする人でぼくの演奏をみたことがあるらしく「(ぼくのことを)知ってるらしいよ、ブログも見てるって、ウケた」というような内容のメール。知らん人に読まれている可能性があるにも関わらず、特に意識せずに書いている。想像力が欠如しているだけか、、、。「あなたが思っている以上に誰かが見てるらしいよ」といわれても、「え、だったらもうすこしまともに書こうか」なんて思うことは無い。今後もない。知らない。そんなこと。もともとまともになど書けないのだからしかたない。

 それでもやはり、こうして日記のようなものとはいえ、公開している以上誰かの目に晒されるのは想定しなくちゃいけないことで、名前も知らない誰かの目線を全く無視して文章を書けるかといえば、それは難しいけど(本当は無視して書きたい)。

 でも、でもだ、これがウェブ上でなく、とある誰かの一冊のノートに書かれているとして、もちろんそれは誰の目に触れるものでないとしても、その誰かは「誰に向けてでもなく」書くことは可能だろうか、、、。パソコンなど、インターネットなど存在しない時代に毎夜ひっそりと書き続けられてきた日記のような文章は、本当に「誰に向けてでもなく」書かれてきたのだろうか、、、。むしろそういう時代に書かれたもののほうが、誰かのもとに届いたのではないか、とすら思う。それは「誰へ向けてでもなく」書かれたからなのだろうか。わからん。けれど、運良くかどうか知らんけど、僕らはそれを受け取って、それら紡がれた言葉に何かをもらったりしているのだし。——あれ、また何処かにいこうとしていますよ、松沢さん、、、。知らんよ、そんなもん。

2013.2.27 233 『言葉で見ている。ぼくらが、』

02 27, 2013 | 日記2013

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・「晴れます」「今日は暖かくなります」としきりに予報でいわれると期待してしまうけど、見上げる限りでは「こりゃ今日は晴れないぞ」というか、「晴れるとしてももっと後だな」というような空だったので、それほど期待せずにいて、大体その通りになった。今朝はだいぶ冷えた。セリもビニールをかけずにいたところは霜がついていた。ここ数日と比べると明らかに寒かった。水もいつもより冷たい。ホウちゃんは毎日やってくる。最近は別の種類の鳥もよく顔をだして、調べてみると「モズ」のようだ。今日の十時の一服のお茶うけは、大福。もう少し暖かくなって、雪が溶けてくれば、よりたくさんの色に、音に出会える。草も、鳥も、花も、葉も。

・いわれ方なんて、なんでもいいと思いながらも「趣味」といわれると、今までに書いた通りに「はん?」となる。「あそび」といわれるほうがまだいい。

・テレビの世界を聖域のように思っているというか、みんなあの箱に映ることを目標に日々精進している、とか思う世代のじいさんばあさんにとっては「歌をうたう」とは即ち「のど自慢」であって、そこで鐘を鳴らしてもらうことが至上なのだろな。そういう世代でないずっと若い世代であっても、テレビに映るものだけを「音楽」だとか、プロであり、本物だ、みたいに思っているんだろうな、とは思うけど、それは、しょうがないことだろうな、とは思いながらももったいないな、とも思う。「他がある」ということを知らないというのはもったいない。

・言葉で見ている。ぼくらが、意味を剥奪し対象を見る。なんてことは赤ん坊になるしか無いわけで。それは無理。だ、ということになるだろうけど。それに近しい感覚(近しくもなんとも無いのかもしれないけど、だってその感覚など分からないのだから、、、)。になることがあるとすれば。それは自然を見る。という時。と感じる。それに圧倒されている時。

2013.2.26 232 『コンビニに入っていくスーツを着た男の顔が歪んでいた』

02 26, 2013 | 日記2013

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・【白と黒を生かすためには、自分のからだに墨をたっぷり含ませて、紙の上をごろごろ転げまわって生み出すような、からだごとぶつけてゆく板画をつくってゆくほかない、と思い切ったのでした。指先だけの仕事では何もない。板業は板行であって、からだごとぶつかる行(ぎょう)なので、よろこんで行につこう、と心肉に自答決心したのでした。】 棟方志功『ヨロコビノウタ』p13より。

・「お前は一体誰なんだ!?」という瞬間がある。自分に。歌う時なんか特に。ましてやライブなんかは特に。「一体お前は誰なんだ? 俺ではないだろう?」という瞬間。あれは一体、本当に何なのだろうか。自分のなかにそんなメロディーが有るはずは無い。と、感じざるを得ないような何かが急に瞬間的に降りてくる。ことがある。誰なんだ一体。俺なのか、それは。そういう何かが人にはある。ぼくの場合、ある場面で、それが少し度を越して出てきてしまうものだから、自分で驚く。こないだ「個性とは?」と書いたけど、どちらかというと「わたしとは?」に近い疑問が常につきまとっている。「お前は一体誰なんだず!?」

・日曜にタージで歌った歌を書き直している。演奏の過程で、曲が全然別物になることはあるけれど、一度ライブで演奏してから、歌詞から書き直すということはあまり無かった。一度も人前で演奏していない曲も多数ある。つくった曲の半分はそうだろう、と思う。曲をつくるということを見つめ直す。それはもちろん客にうけるかどうか、の水準ではなく、強度の問題。

・昨日コンビニのゴミ捨て場の前で、ワンカップを一気飲みするおっさんを見た。「一気飲み」というのはああいうものをいうのだ、という一気飲み。それは昼の一時過ぎ。ま、こういうおっさんの酒飲みの時間に昼も夜もない。ただぐいらと飲むだけだ。「呑む」だけだ、と書く方が雰囲気が出るのか、、、。コンビニに入っていくスーツを着た男の顔が歪んでいた。

2013.2.25 231 『眠りに入る時に叫ぶ女』

02 25, 2013 | 日記2013

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・昨晩のライブ。最近通り、特に決めずにはじめて、それで昨日は遊べました。あたらしい曲をやるということは決めてたけど。タージはホームのような感覚があるからか、なんだか気負わず遊べる。野村さんの演奏も素敵だ。人柄も。

・少太にいに「あの曲の遊んだ部分は最高だった」と言葉をもらって、握手をして、それだけでいい。実際その部分は一番「自分」というものが何処かにいってしまったところだった。記憶もあまり無い。

・あたらしい曲というのは、ライブで一度演奏して、そこでようやく身体に馴染んでくる。仲間になったような。それは客受けの良さということでは全然なく、ライブという場所で不安と共に、けれど、演奏した、ということを通して馴染む。のだ。

・本を読むような状態でもなく、録画していた「探偵ナイトスクープ」をみる。眠りに入る時に叫ぶ女。あれ凄い。

2013.2.24 230 『ぼくはいつも間に合わない』

02 24, 2013 | 日記2013

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・THE吹雪。

・今日は友達の誕生日。その人へ向けてつくった曲もある。そういうことは基本的にはやらないけれど、これは特別。ぼくはいつも間に合わない。

・ズレる。ブレる。ぐらつく。いつも揺れている。いつも崩れかけている。知ったこっちゃない。

『ぼくが一番笑います。多分』

02 23, 2013 | Liveのお知らせ

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3/09(土) 仙台VORZ BAR
open:19:00  start:21:00  admission:1,000yen + Drink Order 必須

VORZ BAR

報告が遅くなりました。
歌います。

いろいろやりたいけれど、実際どうなるかはやっぱり知りません。
自分が知らないのだから、どうしようもありません。

どうなるかは、その時のぼくに委ねます。
歌って、のんで、笑って、笑って、という、感じだろうと思います。ぼくが一番笑います。多分。

2013.2.23 229 『ぼくはとても集中してきしめんを食べるのです』

02 23, 2013 | 日記2013

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・例えば、ぼくが家で一人きりの部屋で、ギターを弾いて、別にそれは録音もされず、誰の耳に入るわけでもなく、歌っていたとして、けれど、もちろんそこには誰もいないのだけれど、そういう遠くへ向けての「何か」は、大勢の前で大仰に披露される「何か」より劣っているとも、伝達の「方法」として弱いとも思わない(なんて、思いつきで書いているので流れも文章もぐちゃぐちゃかもしれないが、それはいいや)。「方法として」なんて書くと、誰もいないのに方法も何もあるか、と思うけれど、多分、それでも、そうなんだ、多分。それを言葉にしようとすると、途端にくだらなくなりそうな匂いがするので、やめる。

・明日はライブですが、準備も特にない。ライブという場所は特殊だけれど、特別なものではなくなってきた。きしめんを食べるように、それに一味唐辛子をかけるように、そんな感じでやりたい。ぼくはとても集中してきしめんを食べるのです。

・特殊な一場面よりも、日々のぐうたらな時間の方が、行き詰まりながら、それでも別なことをやり始めてしまうような、そういう駄目な時間の方に最近は興味が有る。

・今日、先輩が「ピックリ腰」になって戦線離脱した。初め、ぼくは「ギックリ腰」がなまって、「ピックリ腰」に変換されたものだと思っていたけれど、「ぴっくり」というのは「ぎっくり」までいかない、いわば軽症のものだそうで、なるほどと思いながらも、「ピックリ腰」という音の持つかわいらしさにずっと笑ってしまって、それに段階があることにもまた笑ってしまった。今日は勉強になりました。ぴっくり、て、、、。

2013.2.22 228 『ブランデー1、8リットルとハチミツと四リットルの瓶を買う』

02 22, 2013 | 日記2013

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・点鼻薬が切れたので、耳鼻咽喉科にいく。鼻に何やらかにやら突っ込まれて、「ふがっ」となる。「ま、慣れてるけど」みたいに振る舞う。実際は泣きそう。酒屋にいって、ブランデー1、8リットルとハチミツと四リットルの瓶を買う。Sおばさまが保存していたカリンをもらったので、カリン酒をつくるのだ。その他にカリンのハチミツ漬けも。うまくいくかどうかはわからない。

・雪が降っているらしい。外は暗い。雪は白くない。ただ、黒い影が勢いよく落ちてくる。目の異常じゃないとすれば、それは雪だ。

・今、公民館の明りが消えた。どうやらその明りがあったから、雪の影が見えていたらしい。今はもう、影すらも見えない。見えないところで雪は降り続いて、明日の朝はビックリさせられるのだろう。

・遠く遠く宛のない歌。誰にでも届き、決して誰にも届かない歌。向きではなく、その始まりの点にだけ。思いを寄せる。

2013.2.21 227 『ぐるぐる廻ってどこにも行き着く島もなく、、、』

02 21, 2013 | 日記2013

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・こうやって何かしら書いていたりすると、「言いたいことを言葉にできていいね」とたまにいわれる。けど、違う。全然違う。できない。そんなのできた試しがない。言いたいことがあったとして、書けばそれはどっかに消えてしまう。書いた途端に別のものに変わってしまう。けれど、それをわかっているからといって、何もしない、というわけにもいかないので、こうやって書いたりしている。けれど、「その何か」は「ずっと失われているもの」で、どうあがいても近づくことができない。けれど、それをやろうとする。けれど、近づけない。だからといって、それを放棄することはできない。という完全に馬鹿の巡る。そういう場所。ぐるぐる廻ってどこにも行き着く島もなく、、、。

・だから、書きたいことを書く。ということに重点を置かなくなった。置けなくなった。おもしろいのは、書きたいことも無いのに書くと、何か変な物が現れて、それが自分から見ても「異様」「異形」で、それがおもしろい。

・なんだか「ストレイト・ストーリー」の余韻がいまだに残っていて、たまに主人公のおっさんの声が聞こえてくる。

・来週の月曜くらいまで真冬日が続くそうだ。今日も、雪だった。風もあって、ひいたセリがコンテナのなかで凍ってしまうこともあって、それだと商品にならないのだけど、ぎりぎり大丈夫のようだった。真冬日で寒いはずなのだけど、あまり寒さを感じないのは、春が近いから、という理由の気分的なものなのか、何なのか、入り口と、出口では、感じ方も違うだろう、きっと。

2013.2.20 226 『老犬と老婆の夢』

02 20, 2013 | 日記2013

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・『無題』

探し求めている 
懐かしいあの場所を 
「それはもう存在しない」
と誰かがいう 
けれどこの足は 
あの日の甘い香りに 
引き寄せられて 
またひとつ 
歩をはこぶ 
永遠にやってこない 
その時を 
待ちわびて


・『老犬と老婆の夢』

眠る老犬と
座る老婆
ランプの灯り

揺れる影と
うたう風
まんまるの月

はしるはしるはしる
おどるおどるおどる
あの荒野まで

はしるはしるはしる
おどるおどるおどる
誰かの腕のなか


・バッテリーがいかれちまって。エンジンは途切れ途切れ。寒さにやられちまって。無視をきめている。だから、バッテリーを注文したのだ。ネットにて。今日届いたものだから、さっそく交換した。音が違うぜい。多分。

2013.2.19 225 『辛子醤油。です。それと酒』

02 19, 2013 | 日記2013

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・【そう。オリンピックのレスリングに関するものをたまたま読んで、「そうそう、そうなのよ」と思ったのでした。スポーツも、表現も(この表現といういいかたがまず怪しい)自分の身体との対話のようなもので、それは「競う」ということ以前にただ、「もっともっともっと!!」と自分の何かを「高めていく」ことでしかなくて、そういうものを子供の頃はおもしろい、と感じていたはずなのに、いつのまにか、対象をつくってそれに「いい」とか思ってもらうことが大事みたいになっていく、というそれがつまらなくて、だから、ぼくはただ自分の「もっともっともっと!!」ということを大事にしていきたい、それに翻弄されるようにやりたい、と思っています。】

・また、コメントへの返信を。こうやってコメントへの返信を書いている時というのは不思議。いつも、「誰かに、、、」ということを(完全にではないとしても)想定しないで書いているのに、返信となるとそうはいかず、やはり、その人への「宛先のある」文章になる。それが自分のなかで、違和感とともに、そうか、こういう書き方もあるのだな、と思う。もしかしたらいつもの書く物と変わらないと思われるかもしれないけれど、なんだかこれはだいぶ違う物だ、と実感する。書く側にとっては、、、。

・今日は田んぼのへりの部分が商品にはならないような出来だったので、けれど、そのまま棄てるにはもったいないし、ということでセリをもらってきた。いろいろ料理としてのアレンジをしても、何だか結局、おひたしが一番いいな、と思う。でも、市販されている量でおひたしをつくろうと思ったら、一体いくらかかるのか? これはセリをとっている人間の贅沢といってもいいのかもしれない。辛子醤油。です。それと酒。

・注文していた本が届いた。読む。というか、挑む。

2013.2.18 225 『頭頂部の禿げた外国人の男が横断歩道を渡ってやってくる』

02 18, 2013 | 日記2013

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・「ストレイト・ストーリー」を観る。リンチらしいとか、らしくないとか知らん。実話が元になっているらしい。から、どうしても「なんじゃこりゃ」という部分はない。けど、序盤の雷雨の場面とか、鹿をひく場面とか、の撮り方はらしいといえばらしいのか。もっといろいろ見てみないとわからん。ただ主人公のじいさん、かっこいい。かわいい。また観よう。「イントゥ・ザ・ワイルド」よりずっと好き。

・映画を物語や筋に依るのでなく、演じる人間の「個性(?)」、撮る「画」そのものに依せる。こと。物語の起承転結や出来不出来より以前に「誰が」登場して、「何が」映されるのか、ということ。寅さんなんか、まさしくそういう映画で、渥美清以外誰もできない。

・ぼくはただの目になる。見入る、魅入るものになる。そこにはぼくの感情は排されて、ただ何かを捉えている、視線だけになる。「楽しそうに歩く少女」というときの「楽しそう」はぼくの与えたもので、そういうものを排除して「景色」のように魅入る。その記述。そこには比喩もない。編み物をする眼鏡の女。ビルの写真を撮るブーツの男。コーヒーのお代わりを運んでくる若い女。文庫本を読むパーマの中年男。頭頂部の禿げた外国人の男が横断歩道を渡ってやってくる。だんだん外は暗くなる。ぼくはコーヒーをおかわりする。注がれるコーヒー。煙草の煙。2人組の女が「お疲れさまでございました? って使い方あってる? 敬語じゃないよね?」といいながら煙草を吸う。一人は太っている。

・フェイスブックの「ホーム」というところがあるのを知らず、それまではいちいち誰かのページに移動していたのだけど、その「ホーム」があるのをしって、更新順にバーっと並べられるのをみて、一気につまらなくなった。そうか、みんなこうやって見てたのか、と思う。ぼくはいちいち誰かのページをいちいち開いている時の方がおもしろかった。「今日は更新していないな」とか。いよいよつまらん。

2013.2.17 224 『何もないほうがいい、と思います』

02 17, 2013 | 日記2013

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・【ぼくはやっぱり、誰かに評価されることを前提としたものより、それ以前のもっと一人遊びのようなものに触れたいのだと思います。一人遊びであっても、それは洗練というよりは高まっていくものです。誰かの評価なんて物よりずっと厳しい目で自分を見つめているような気がします。とか書いて、何の返答にもなっていませんが、、、。望みもしないのに、有る程度うまくできるという風に生まれてしまうと、それをぶっ壊したくなるものです。何もないほうがいい、と思います。】

・さっき書いた昨日の日記のコメントへの返信の文章をそのまま。コピー。

・市場に行ったら、「山形のたらの芽」と書かれた段ボール。そういう時期だ。食べたい。けど、この時期に出ている物は自然の時間じゃなく、人の。つくられた物の。でも食べたい。日本酒と。

・カリン酒のカリンをかじってみたら。食べられたもんじゃなかった。ガッサガサの強いスポンジ。

・お湯を沸かして、つゆをつくり、麺をゆでる。その前に、ネギを刻み、みずに浸し、麺が茹で上がったら最後にだしをいれて、器にうつし、ネギをのせて完成。きしめん。が今日の昼めし。今日は昼で仕事が終わって、市場に行って、それからこのきしめんを食べて、そのまま椅子でうたた寝。ギターを弾いて曲をつくり、笑点をみながら久しぶりに腕立てをしてみる。しんどい。ずっと何年も途中で放っていた本の、それにつけていた付箋の部分を読み返すと、あまりにも駄目で、なんというか、そんなところに付箋を付けてもしょうがないだろ、という場所だったので、自分に腹が立って、といってもその当時の自分はそういうくだらない読み方をしていたのだと思って、どうせなら、最初から読もうと思って、付箋を全部はがしてすてて、それで初めから読み直す。風呂に入って、メシを食べ酒をのみ、それで今コルトレーンのそばで、こうやって書く。今日の日記。

2013.2.16 223 『逆行の果てに  粉々に砕け散って  海の塵と溶けて』

02 16, 2013 | 日記2013

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・意味は特にない。

抗えば壊れてしまうだろう
けれどそれがどうしたというのだ
傷ひとつないままに
ただ運ばれるに任せるくらいならば
逆行の果てに
粉々に砕け散って
海の塵と溶けて
沈んでゆくとしても、、、、、、


・今日はひさしぶりにディランの「時代は変わる」。ぼくはこのアルバムが本当に大好きで、好きなアルバムを何枚かあげろといわれたなら、必ずあげるアルバムだろうと思う。

・読みたい本がたくさんあるけれど、興味があるもの全部買ってしまえ、なんてそんな金もないので、再読すべき本が手元にそろっているのだから、それをやろうと思っている。「読みました」という報告のために、というか「ねえねえあの本読んだ?」なんて話題作りのために読んでいるのではないのだから、何度も何度も読もう。別に総数なんて少なくていい。音楽であれば、何度も聴こうなどと、気を入れなくともかけられるのだけど、本となるとそう気軽にやれない。向き合うための気合いもいる。なんて書くけど、読み始めたらやっぱり染まってしまうのだから、気合いもなにもないか、、、。音楽ももっともっと聞き流すように聞くのでなく、かぶりつくように聴こうか。

・ディランの曲ってやろうと思えばいくらでも大仰にやれるんだよな。けれど、その曲をディランはあくまでさらっと歌う。それが彼の音楽の重要な部分のひとつだと思う。それが意図的かどうかはわからない。拡大解釈が可能な楽曲を一番ミニマムな場所で彼がやってしまっているから、カバーはどうしても大仰になったりするし、、、。と書いて、そうそう、そうなのよ、と思う。いくらでも複雑に大げさにできるのに一番ミニマムでやってんだ。ディランは。だから、それがとんでもなく凄い。伝わらないか。でも、自分で書いて興奮している。

・うたの善し悪しを決める大会などなくていい。うたは競うものではないのだから。ましてや、採点などで競われるものではない。馬鹿馬鹿しい。ぼくはむしろ下手くそになりたい!!

2013.2.15 223 『大人のくせに子供のように踊る人間は面倒くさいんだぜ。はっはっは』

02 15, 2013 | 日記2013

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・三十袋ずつ梱包された段ボールを二十九箱車に積む。ぼくの車は後ろが常にフラットになっているので楽。雪はだんだんと雨に変わる、気温はそれほど高くなかったのに。バイパスに出てそのまま走る。道路沿いにある店をチェックしたりしながら。ラーメン屋の一画を間借りしたような奥まったところにあるカレー専門店のなんとか(店名は忘れた)という店が気になる。北山形インターを過ぎた橋の手前でバイパスを降り、長い待ち時間のあと、信号を右に曲がって、バイパスの下をくぐり、すぐ左に曲がる。そこに青果市場があって、今日はぼくが配達する係なのだ。といっても二度目だけれど。台車に段ボールを載せ、伝票を書いたあと冷蔵庫に運ぶ。今日はセリを少しもらっていたので、コンビニの駐車場に車を停めて、セリの赤葉をある程度とったあと、いつもお世話になっているお店に持っていった。店に着いた時にその人はちょうど、今日のおすすめのメニューを書いているところだった。色紙にクレヨンで。

・ギターを弾いて、遊びながら曲をつくる。振り返ると長い時間が過ぎたけど、いやあ、おもしろい。おもしろくて仕方が無い。一人遊び。曲づくりをしているのに、それをいつのまにか放り出して、気づくと遊んでいる。進まないことの困難さを加味してもそれすらもひっくるめておもしろい。これを方法ということや、枠にはめようなんて本当に馬鹿げている。そんなことをしたら重要なものが全部ぶっ飛んじまう。久しぶりに階段の四段目で遊び歌い、それがまたおもしろい。誰も邪魔してくれるな、とすら思う。

・ようやくいつものリズムが戻ってきた。

・遊んで闊達に踊るその魂を邪魔してくれるなよ。いいから放っておいてくれ。ぼくは遊んでいたいんだ。あなたのその鎖でぼくの踊りを止められるとお思いならどうぞご勝手に。そんなものするりとすり抜けるステップをぼくは知っているんだ。捕まえてごらん。もしかしたら子供なら捕まえられるかもしれない。けれど、大人のくせに子供のように踊る人間は面倒くさいんだぜ。はっはっは。

2013.2.14 222 『「ニセモノ」以前のただの「贋作」づくりになってしまう』

02 14, 2013 | 日記2013

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・たくさんの人がいいといってくれる。こともある。そこでやっていないつもりでも。けれど、きのう書いたその一人に「これは駄目でしょ」といわれたら全部崩れてしまうような。そういう存在。けれど、その人に受け入れてもらえるように、なんて思いでやったとしたら、その人はそれすらも見抜くだろう。「俺にいいねといわれたくてやっただろう?」と。だから、そこじゃまだ、駄目なんだ。そういうレベルじゃ駄目なんだ。そういうことを昨日書こうとした。

・と書いていて、何故か、お笑いの世界を思う。松ちゃんに認められようと必死になっても、いつまでもそれを越える人が出て来ないように。あたらしい「凄さ」は全然別の方角からやってるのだろう、と思う。

・だから方法とか、体系とかそういうものを越えて、身体をその体系に「馴染ませる」以前の自分の生理を。学んじゃ駄目なんだ。いや、学ぶのだけれど、それが唯一の方法じゃない。と、それまでの円の中にこびり付いたものを払拭するくらいのことでないと、それを越えていけない。いい加減、お笑いでも、音楽でも、勉強することを放棄しないと駄目な時期にいるんじゃないか。

 学校なんて、矯正だろ、というのを分かっているにも関わらず、お笑いを、音楽をやるためには学ばなくちゃいけない、なんて考えがそろそろガラガラと崩れるべきだろうと思う。円の中から壊すのか、円に入らず、そのまま外にいて円を無視できるか。またお笑いの話になるけど、松ちゃんはそれまでの円に穴を空けた。けれど、その影響が強すぎて、結局自分の意図とは別に巨大な新しい円をつくってしまって、後から来る誰も彼もが、その円の中に入ろうとする。その中にいては崇めることしかできない。


・その円に回収されずにいるのは出川や、山崎邦正のような人でどちらも彼らの生理のようなところで動いている。というか、そうとしか動けない、、、。松ちゃんが「山崎にはかなわない」と何処かでいっていたような記憶もあるけれど、それは彼らが松ちゃんの円の外にいるからだろう。と思う。

・「これは私にはビールです」っていうCMはあの人にとってプラスになるのだろうか。「私は味がさっぱりわかりません」と宣言してるようなものじゃない。なんだか金儲けに上手く使われてしまっているようでかわいそうにも思う。こわいなあ。そもそもあの会社はなんでああいうやり方をするんだろ。

 似せるものの意味で似せもの(ニセモノ、偽物)は音楽でももちろんいて(というかもちろんぼくだって)、いつか書いたストーンズのキースだって、憧れのブルーズマンがいて彼ら(元々のブルースを生きた人たち)をオリジナルとすれば自分らはニセモノだという自覚があったはずと思う。けれど、その自覚を持ちながらやり続けることでオリジナルとは別の場所を切り開いたんじゃないだろうか。キースは決して「おれはオリジナルだ(おれはビールだ)」なんていわないだろう。

 「これはビールです」なんて宣言してしまったら、そのやりかたは「ニセモノ」以前のただの「贋作」づくりになってしまう。別に「これはビールです」なんていわなくていいのに、と思う。「第三の」というオリジナルとは異なる物として堂々とやればいいのに、、、。

2013.2.13 221 『のんべんだらりを、なめんなよ』

02 13, 2013 | 日記2013

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・そういえばいわれていたのだった。おととい既に。「扁桃炎持ちだから熱出たのよ」といったらWおばさまは「んだら、今度カリン酒持って来てけっから」と。——今朝、作業場に入ったらWおばさまが何か話しかけてきたけど声が小さくて「……持ってきたがら」という部分しか聞き取れず、隣に座っていたSおばさまが「……だど〜!」と拡声器的に通訳してくれたけど、それがまたひどく訛っていて意味不明で「何!? 加齢臭?」と聞き返したら、おばさま方に笑われて、そのあとようやく「カリン酒」に行き着いた。家に帰っておちょこで呑んでみたらこれがまたうまい。「喉にいいがら」といって渡してくれた。ありがたい。ちゃんと呑んでしまうと、すぐになくなってしまいそうだから少しずつ呑もう。と思う。

・自分が本当に書きたいこと、うたいたいもの、やりたいこと。それをもう一度ぶれないよう見つめる。凝視。大勢に向けてではなく。なんてことは散々書いてきた。追加だ。一番影響を受けてきた誰か、憧れの誰か、自分の中に深く深く根を下ろしている誰か、へ向けてでもなく。大勢に向けてなど表現していなくとも、どうしてもこの人だけには、、、という人がいる。

 そういう場合、どうしてもその誰かに「つまらない」といわれないように、とか、褒めてもらえるように、とか、悔しいけれどそういうどこかごますりというか、先生受けの良い小学生みたいな表現になってしまって、それを自分でも理解しているからそれが悔しくて、でもその壁はとても大きくて、大きいというのは憧れの対象の壁じゃなく、憧れている人に気に入られようとする「卑しさ」のような自分の中の壁だ。

 その憧れの対象に実際に会う会わないは関係ない。憧れは憧れだ。はい、それで? どうすればいい? か、なんてわからない。けど、そのままでいたらいつまでたっても大人に認められることしかしない(友達にはつまらんといわれるような)小賢しい子供の域を出ない。そういう場所は卒業しなければ。ぼくらは褒められるために表現をするのじゃない。ぼくらはもう金賞、銀賞、銅賞などいらないのだから。

 もちろんこれは自分へ向けて。苛立とともに。けど、まだ書けない。全然。だから、何か思い次第書く。


・さて。今年もまた一年どうなることでしょう。今年もまた場当たり場当たりいきましょうか。日々、一日一日のんべんだらりと生きてみましょうか。日々、一生懸命も素晴らしい。そういう人にしか見えない世界が有るでしょう。けれど、日々、のんべんだらりと生きていける人間にしか見えない「世界の愛し方」もまた有るでしょう。きっと。

・のんべんだらりを、なめんなよ。

2013.2.12 220 『おっさんは右手で銃をつくってぼくを撃ち抜いて』

02 12, 2013 | 日記2013

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・久しぶりに音楽を聴こうと思えたので、でも歌はいらないや、ということでセロニアス・モンク「ヒムセルフ」を。聴きながら。

・昨晩は両脇と股関節部分の脈を氷で冷やしながらテレビを見ていて、サグラダファミリアの建設に関わる日本人が出ていてかっこいいな〜と思って。自分が生きている間に完成することがない、ということが明らかなものを彫り始める、っていうガウディって人は凄いな〜と思って。

 当時は完成まで三百年かかるといわれていたものが、スペインの経済発展、世界遺産の登録による観光客の増大もあって、それまでよりだいぶ予算をかけられるようになって、完成予定がいっきに縮まって2026年になったらしい。1882年に着工されたからそれから三百年だとしたら2182年になる。のが2026年。当時の作業の効率(技術ではなく、あくまで効率。)だとそういう計算になったのかもしれない。2026年というとあと十三年後で僕らの世代の大体の人間はまだ生きているだろう(自分がどうかはわかることができないけど)。

 現代は、どれだけ大きな建造物でも(例えばスカイツリーにしたって、、、)着工した時に生きている人間の大部分がまだ生きているうちに完成するのが当たり前な時代(これからもっと工期は規模に関わらず短縮されていくだろうし)。けれど三百年。今生きている人間は全くいない世界だよ。

 サグラダファミリアが着工されたばかりの時代は、その周辺に暮らす人々も目の前に造り始められているものがどんなものになるのかわからず、それが徐々に上へ上へ背を伸ばし始めたとき「あれはいつ完成するんだろうね」と子供にいったり、その子供がまた子供に「あれはおばあちゃんが子供の頃に建て始められたのよ」といったり、ずっとずっと三百年後に生きる誰かが「三百年前の人たちはこのサグラダファミリアをどう見ていたのだろう」と過去に生きていた誰かに思いを馳せたりとか、そういう、なんといえばいいのかわからないけど、人間一人の時間では、自分だけの時間では完成されないものを見ている時の視線。時間の感覚。(感覚としか書けない自分に腹が立つけど)。あるいはそういう人間達を眺めてきたサグラダファミリア自体の記憶。


・メモしていたことがあって読んだら何を書いているのかさっぱりわからず愕然とする。誰に向けて書いたのだろうか、、、。

・コンビニのあるT字路を左に曲がると、向こうから大きなトラックが来て、コンビニに入るために右のウィンカーをあげていたのでちょうどスピードが落ちていたしそのまま止まって、手で「ほれ、どうぞ」とやると、トラックのおっさんは右手で銃をつくってぼくを撃ち抜いて「イエス!サンキュー」とでもいうように反笑いしながら駐車場に入っていった。あんなサンキュー見たことがなかったのでとても感動した。

2013.2.11 219 『雪だった。予報では真冬日のよう』

02 12, 2013 | 日記2013

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・雪だった。予報では真冬日のよう。いつも来るホウちゃんが来てビニールの上を歩く。田んぼからひいたセリは色もよく、葉もまずまず大きい。十時の一服でコーヒーを飲み、焼き芋をお茶うけでもらっていたけど、食べれそうになかったので持って帰ることにした。何日か前に開封したトンガリコーンが湿気っていたのでストーブ(対流型)の天井で少し焦がしてから四つほど食べた。焦げていくそれはホルモンのように見える。小便で雪を溶かしながら解熱剤がきれないよう願って、結局大丈夫だった。まだ雪だった。

・やっと顔をだしてくれたか、太陽さん。光の中を自在に舞う小さな粒。は雪。公民館の屋根にも、隣の町医者の屋根にしつけられたアンテナにも、雪はのっしりと積もる。ぼくの家の屋根の縁には最大で五十センチ程度の氷柱が垂れていて、屋根に乗る雪全体が滑って、氷柱は部屋の窓の方へ傾いている。怪物の牙のような氷柱。氷柱のような牙。長さを揃えていないことでそれはより凶暴で野蛮に見える。先端から滴る滴。部屋に入った時には既にぼくは食べられていた。雪が強くなってきやがった。

2013.2.10 218 『まだ遠い憧れ』

02 10, 2013 | 日記2013

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・付箋を張る場所。別に名言収集してるわけでない。し、すべて理解できているわけでもない。反応はできるけどバットにあたらない速球のようなもの。まだ遠い憧れ。

・体調不良。初発熱。建物の影に隠れていた太陽の光が、角度を変えてようやく田んぼに当たり始める頃になると、気分というより体調そのものが良くなったような気がした。昼前になるとまた雪が降り始めたのだけど、、、。

・今まで反応できなかった本(難しいとか、おもしろさがわからない)を読み直した時に「なんだこれ、おもろ〜」と感じるような「読み方の変化」は嬉しい。そういうのどんどん出てくるんだろうな。もっともっと。まだまだ。

2013.2.9 217 『と同時に大群という巨大な「私」という一匹に』

02 09, 2013 | 日記2013

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・今日の付箋。『ユリイカ 2012年11月号 横尾忠則特集』の「YOKOO avec KUSAMA」松本卓也。より。

・【中井久夫は、解離(多重人格)を統合失調症と比較した場合、統合失調症には「自分が唯一無二の単一人格でありつづけようとする悲壮なまでの努力」があるのに対して、解離ではそういった責任の主体を維持することよりもその場のコンフリクトを解消させることが優先されるという特徴があると述べた。この対比は、草間(彌生)と横尾(忠則)のふたりにぴたりとあてはまる。草間は自らに迫るイメージに対して、一人の責任ある主体としてなんとか生き延びるために悲壮な努力をし、浅田彰が指摘したようにその戦いに「勝利」する。それに対して横尾はイメージの上で遊び、責任は自分ではなくイメージの側にとらせるのである。ただし、横尾が臨床的な意味での解離性障害だというわけではなく、これは病を華麗に逃れる運動としてみるべきであろう。】p200

・【ぼくはできれば鰯の大群の一匹になることを夢見ていたのである。大群の一匹でありながら「私」である。と同時に大群という巨大な「私」という一匹に(横尾)】p201

2013.2.8 216 『スポーツを見るように注意をこらして読むこと』

02 09, 2013 | 日記2013

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・保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」の文庫版が去年の十月に発売されていたのを知っていたけど、買えてなくて、一月末にようやく買ったので、読む。これまた恐ろしい数の付箋の予感。100均に行かねば、、、。

・今日の付箋。保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」より。

【カフカと小島信夫がなんといってもそうなのだが、「作品全体として何を言おうとしているのか?」なんて、事後に(読み終わった時点から)作品を俯瞰するような読み方をしていたらわかるものもわからなくなる。というか、感じるべきことを感じそびれつづける。そうでなく、いま読んでいる言葉の連なりが、加速したり、転調したり、踏み迷ったりする瞬間を、スポーツを見るように注意をこらして読むこと。そうすれば、「読む」という行為は、暇つぶしの安穏としたものでなく、ずっとスリリングで生きることの核に迫る行為になる。】p12

【「読者を信じる」というのは、「読者全般に通じるように書く」ということではない。「少数であっても、最良の読者に訴えかけるように書く」ということだ。】p13

【小説とは「広域的なアルゴリズム」につかず、どれだけ「ローカルな記憶回路」の中で持ちこたえられるかなのではないか。】p31

2013.2.7 215 『私は、ただ一個の不安定だ。私はただ探している』

02 07, 2013 | 日記2013

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・誰のものでもない赤ん坊が産声をあげてわたしを突き破る。わたしは自分の身体を差し出す。わたしをぺろりとたいらげたそれは気づいた時には「わたし」だった。

・女の頬の赤らみ 街を抱く生まれたての夕日 その中でわたしは溶けて落ちる

・起きがけには変なもの(言葉)がでてくる。

・道路沿いの白モクレンの花芽がだいぶ大きくなっている。そういう季節。

・今日の付箋。坂口安吾『堕落論』のなかの「余はベンメイす」より。

【私は、ただ一個の不安定だ。私はただ探している。女でも、真理でも、なんでも、よろしい。御想像にお任せする。私はただ、たしかに探しているのだ。】p312

【私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。自分の精一杯の物を。然し、必ず、こわれるものを。然し、私だけは、私の力ではこわし得ないギリギリの物を。それより仕方がない。】p313


2013.2.6 214 『脱獄しようとも、自分の舌を噛み切ろうともしない』

02 06, 2013 | 日記2013

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・最近、音楽を聴く気になれないのは、つくるモードにはいっているから。なのか。どうか。けれど、音楽を聴く気になれなくとも、本を読めるというのはどういうことか。これが身体のリズムなのかどうかは知らない。

・いつもつくりながら思うのは、自分の曲なんてもんは、まだまだ習作のような段階でしかなく、駄目だ。まるで囚人。監視の目の中で生きる囚人。脱獄しようとも、自分の舌を噛み切ろうともしない。

・今日の付箋。

【——略—— あたらしい人間を自分の内部に受け入れること、とくに彼の苦悩と、とりわけ彼が戦っている戦い、その未知の人間自身よりもよく知っていると思っているところの戦いとを、自分に受け入れること——こうしたすべては、まさしく分娩行為に対応するものだ】 フランツ・カフカ 「夢・アフォリズム・詩」p325より。

2013.2.5 213 『なんだか嬉しくなってそのまま笑ってみたのです』

02 05, 2013 | 日記2013

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・天地がひっくり返ったわけではもちろんなく、ただわたしが転んだのでした。雪道に転がって、自転車は倒れ、なんだか嬉しくなってそのまま笑ってみたのです。どのくらいのあいだそうしていたのかわかりませんが、時間というものは表情を変えて、はやくなったりおそくなったり、などと書けば一笑されることと思いますが、そんなことはどうでもよく、わたしは空を眺めたのです。波打つ浜辺でなく、草揺れる草原でもなく、雪積もる道路の真ん中で、明り溢れる街の中で、建物が埋め尽くす場所のほんの隙間から、夜空の星をわたしはみました。

・カウンターに座る友人に今読んでいる本のタイトルを見せようとバッグから取り出すと、付箋の数に驚かれた。驚かれたことに驚いた。

・立派なる二日酔い。の一日。

2013.2.4 212 『だから、墜落もするし、尻もちもつくのだ』

02 04, 2013 | 日記2013

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・眠る前に布団の中で安吾『堕落論』のなかの「教祖の文学—小林秀雄論—」を読み始めたら、興奮してしまって、それほどながいものでもなかったので、読み終えてから寝た。読み終えた本は付箋だらけになることが多い。重要と思う箇所に貼る場合もあるし、ページに書かれてあること全体(例えば流れなど)に付箋を付ける場合は、ページの初めに貼付ける。この章は特にページ全体に付箋を貼ることが多かった。もし、一つ一つの区切られた文章に付箋をつけなければならないとしたら、本が付箋に埋もれてしまう。———筆の狂い踊るままに書かれたような言葉の波。初めは静かに静かにテーマを奏でようとしていたトリオが自分たちの奏でる音に徐々に触発されて、いつの間にか自分たちも予期していなかった即興演奏の中に溶けてゆくような、、、。

・だから引用しても全体の流れが見えてこなければそのおもしろさもあまり伝わらないのではないか、とも思う。

・今日の付箋。「教祖の文学」から。小林秀雄を、生きている人間を文学から締め出し、文学をただ俯瞰的に「鑑定」するだけの存在「教祖」と揶揄、批判し「文学は生きることだよ。見ることではないのだ」という。

【つまり教祖は独創家、創作家ではないのである。教祖は本質的に鑑定人だ】p345

【人間は何をやりだすか分からんから、文学があるのじゃないか。歴史の必然などという、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪えたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。 だから小林(秀雄)はその根本に於いて、文学とは完全に縁が切れている。そのくせ文学の奥義をあみだし、一宗の教祖となる、これ実に邪教である】p346

【死んだ人間が、歴史だけがのっぴきならぬぎりぎりの人間の姿を示すなどとは大嘘の骨頂で、何をしでかすか分からない人間が、全身的に格闘し、踏み切る時にのっぴきならぬぎりぎりの相を示す。それが作品活動として行われる時には芸術となるだけのことであり、よく物の見える目は鑑定家の目に過ぎないものだ】p354

【有るものを書くのじゃなくて、無いもの、今ある限界を踏みこし、小説はいつも背のびをし、駆けだし、そして跳びあがる。だから、墜落もするし、尻もちもつくのだ】p360

2013.2.3 211 『手に残るは、その暖かさと、心臓の音。鼓動。』

02 03, 2013 | 日記2013

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・読み返すことができる本であるかどうか、再読、再々読にたえうる本かどうか、それが、本を選ぶ基準だ、と誰かはいった。一度では分かり得ず、何度も何度も手に取りたくなるような、手に取ってしまうようなもの。そういうものとの出会いにどれだけ助けてもらったろうか。それは本に限らず、音楽であり、言葉であり、人そのものであり。あの音楽にまた触れたくなり、あの人にまた会いたくなり、何度も何度も何度も。そういうものに支えられてきた。のだ。きっと。

・わたしの中に住むたくさんの誰かや、何処かや、何か、を含めて「わたし」と呼ぶのであれば、そもそもの「純然たるわたし」などというものはあるのだろうか? 「個性」とはなんだろうか?  

・十代のころは年上という存在そのものが嫌いだった。二十代になってもそれはそれほど変わらず「こんなくだらないやつらばかりなのか」と思っていて、音楽で耳を閉じてればよかった。自分もそのころの自分から見て「くだらない」と思っていた人間達と変わらない年齢になりつつあって、だからどうこういうわけじゃないし、そういう感情をもって過ごしてきたからといって、今その年ごろを生きる人達に媚を売るつもりもさらさらない。くだらなくて、格好もつかず、正視に耐えない、どうしようもない踊りとも呼べない踊りを嬉々として踊る姿を晒して「どうだ!?」といってやる。どうもこうもない。返答につまり、吐き気を催し、ただ笑うしかないような、道化じみた、馬鹿な姿を、ただ晒す。で、いいように思う。

・防鳥ネットに鴨が一羽逆さまに引っかかってもがいているのを、朝、軽トラを停めたあとに発見して、田んぼに足を踏み入れた瞬間の水の跳ねる音を聞いた鴨はバタバタと暴れたけど、羽と胴体を一緒に押さえると大人しく身を預け、片方の足に絡まっていたオレンジ色の網をちぎりながらほどいて、そのまま隣の田んぼの縁まで運び、手を離すと凍った田んぼに何度か足をつけてから、氷面を蹴り上げ、西の方へ飛び立った。手に残るは、その暖かさと、心臓の音。鼓動。

2013.2.2 210 『雨に濡れるよりも、どちらかというと、汗に濡れるような』

02 02, 2013 | 日記2013

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・曲のつくりかた。なんていうときの「かた」なんてものを知りもしないので、それについて語ってもどうしようもないとは思うけど、それが少しずつ変わりつつあるな、と感じているのは、曲を作ろうとしているからで、でも、「つくりかた」なんていえるようなものがないのだから、いつもどおり翻弄されるばかりだ。(「かた」なんてものが見えてしまったら、はいそれまでよ、という思いもある。)だから、順調だ。順調としかいえない。いつもどおりだ。「順調にすすむことなどない」ということを含めて、それが「普段どおり」なのだから、やっぱり順調だ、というしかない。順調だ。

・「子供の自由帳のように」といつも書いているけれど、「子供に戻れ」なんていうつもりはない。戻れない。時間的なことでなく、戻れない。戻るのでなく、そこに似た、違う何処かへ辿り着くように歩く、ということ。新しい何処かへ。

・今日は、風が強かったけど、暖かくて、雨が降っていたので、カッパを着ましたが、雨に濡れるよりも、どちらかというと、汗に濡れるような気がしたものでした。

2013.2.1 209 『いつかまた無惨に打ち砕かれるものであったとしても』

02 02, 2013 | 日記2013

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・「堕落論」について佐々木中が「アナレクタ3—砕かれた大地にひとつの場所を—」の中で語っていたのを思い出して読んでみる。佐々木中の坂口安吾を「読む」ということの深さ。「読み込む」とはこういうことをいうのだと、思い知らされる。自分はただ言葉の表面的な部分に反応していただけじゃないか、という気がする。

・【堕落とは何か。すべての巨大な破壊、すべての膨大な死、すべての根拠の粉砕のあとで、すべての道徳が虚妄であることが暴露され、すべてが信じられなくなったあとで、それらが無根拠であることが底の底まで知れてしまったあとで、これからわれわれが創り出すものもまた無根拠であり非道徳的であり何ものにもならずにいつかまた無惨に打ち砕かれるものであったとしても、——それをまた創り直さなければならないということです】佐々木中 「アナレクタ3」p216より。

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