2013.1.30 207 『たらふく。たらふく。腹がふっちゃばけるかと思った。 』

01 30, 2013 | 日記2013

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・「何で?」とか、「何の意味?」と聞かれても、困る。同じように子供に聞くだろうか? 自由帳に書かれた何かをみて、同じように「何で?」とか「何の意味?」と、、、。ただ夢中に書かれただけだ。ただ夢中でいたら、その場所に運ばれただけだ。理由や意味の有無など知らない。「知らない!」が本当のまっさらの回答。本当に知らない。「わかりません、存じません」。道を歩いて目を奪われた草花に「おいおい、おまえ、名も知らぬ花よ、何故におまえはそこにいる?」と聞いても、かれらは「知るものか。ただ、いるだけだ!!」とだけいうかもしれないし、いわないかもしれない。没頭、没頭、真っすぐに没頭。それだけ。ただそれだけ。

・今日は仕事は昼で終わり、こないだまで一緒に働いていたおばあさまのところにおよばれして、昼食をごちそうになった。たらふく。たらふく。炊き込みご飯。ワラビのみそ汁。麩と厚揚げの煮物。朝鮮漬け。セイサイ漬け。ワラビの煮物。そうめんカボチャのサラダ。紫蘇巻き。他、いろいろ。たらふく。たらふく。腹がふっちゃばけるかと思った。

・昨日、坂口安吾「堕落論」の岩波文庫版を買ってきた。それまで読んでいたのは角川文庫版で、収録されている数がちがっていたので、だぶっていたのもあったけど、別のエッセイも読みたいと思って買った。

・今日の付箋。坂口安吾「堕落論(岩波文庫版)」。

【文学のように、如何に大衆を相手とする仕事でも、その「専門性(スペシアリテ)」というものは如何とも仕方のないことである。どのように大衆化し、分かり易いものとするにも、文学そのものの本質に付随するスペシアリテ以下にまで大衆化することは出来ない。その最低のスペシアリテまでは、読者の方で上って来なければならぬものだ。来なければ致し方のないことで、さればと言って、スペシアリテ以下にまで、作者の方から出向いて行く法はない】「FARCEに就いて」p21より。

【つまり全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに吞みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。】同。p24より。

2013.1.29 206 『何じゃこりゃ。いやこれはライブだ』

01 29, 2013 | 日記2013

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・船は沈没していく。ぶく、ぶく、ぶぶく。ブク、ブク、ブブク。泡もない。音もない。ゆっくりゆっくり、ただひたすらに真ん中へと引き寄せられていく。月がある。真ん丸より少し歪に大きい。親知らずを抜いたほっぺみたいに、左下の部分が腫れている。星などない。初めからない。空はゴッホだ。ゴッホの書いた空。黒というよりは青い。青黒い。小魚達が跳ねる。その度に海はひまわり色に変わった。ガッッボーーーーン!!!! と現れたのは大きな大きなクジラのようなイワシ。海は揺れてひまわり色で、空はゴッホで、月は奥歯を抜かれ歪に腫れていて、そんな光景の中のひとつとして、船は静かに、静かに沈んでいきました。

・何じゃこりゃ。いやこれはライブだ。

・ワイルドアットハートがリンチ体験二つ目。二つ目を体験した事で「感じ」が少し繋がる。冒頭のアングルからして何だか異様な感じがして、流れる音楽も映像を引きちぎる感じで、こわさすら感じる。けど、こういう部分が、リンチを体験し続けている人にすれば、おもしろさになるのかもしれない。ホテルを掃除するおっさんの場面(ただ、おっさんが掃除機をかけているだけだけど、笑った)、あれだけで異様な感じがするのは何故だろうか。アングルか?

『猫のように、その瞬間に、気の向くように』

01 28, 2013 | Liveのお知らせ

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Bar Tarji 2/24(日) 野村尚志 LIVE
出演 野村尚志 / 松沢春伸
Open 19:00 Start 19:30 Charge ¥1500(ドリンク別)

そういえば、ライブが決まっていて、報告が遅れましたが、この日が今年最初のライブになるかどうかはまだ分かりません。今年はまた、いろんな動きがあるかもしれないし、ないかもしれない。

別にどっちでもよく、ただ考えて、歌って、書いて、誰かに出会って、変わったり、うつむいたり、もじもじしたり、酒に敗れたたまま始発に乗ったり、どこか旅をしたり、、、そういう風にやっていくだけです。

どこでブチっと途切れるか、など、わたしにはわかりません。
猫のように、その瞬間に、気の向くようにやりたいものです。

2013.1.28 205 『付箋というのが、ちゃんとしたのを買うとバカにできないくらい高い』

01 28, 2013 | 日記2013

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・その日。レコーディングを行うミュージシャンの付き人(運転手)として、とある音楽レーベルが入る建物の一室のスタジオにやってきたその大柄な男は、メインシンガーの録音が終わると、そこに居合わせたスタッフ達に「自分の歌を聞いてもらえないだろうか?」と直談判した後、その場で自分のつくった曲を歌い始めた。

 最初の何フレーズかを聴き、その歌声に圧倒されたスタッフの一人(ギタリスト)は、彼の歌を一旦制止、中断させ、すぐさまレーベルのオーナーのもとへ駆け込み、その名前も知らない「付き人」の歌を聴くよう掛け合った。引っ張りだされたオーナーはその付き人の歌を聴き終わると、すぐに「録音するぞ!!」といい、歌い終わったばかりの大柄な男が「いつ?」と聞き返すと「今すぐにだ!!」といって、その場にいたミュージシャンをかき集め(その日メインで録音したシンガーはギターとして録音に参加している)、すぐさまその場で録音されたのが「These Arms Of MIne」だった。

 というエピソードにはぶったまげる。その大柄な運転手、付き人、それがオーティス・レディングだ。ギタリストはスティーブ・クロッパー。

 その後、数多くの曲をオーティスとスティーブは共同作業で書き上げ、出来あがったそばから勢いそのままに録音していく。ライブの巡業で忙しくなったオーティスとスティーブは、会う機会が少なくなっても、限られた時間の中、スティーブが曲の構想を思いつくと、オーティスが泊まるホテルまで出向き、ホテルから、スタジオまで移動するタクシーの中、二人で曲をつくり上げて、スタジオで何度かリハーサルを経たあとすぐに録音に取りかかった。そんな風にして録音されたものが、今、残っている彼の音源のほとんどを占めている。

 珍しくオーティスのほうから「いい曲ができたんだ、すぐにスタジオに来てくれ」とスタジオに呼ばれたスティーブは、オーティスがギターを弾きながら歌うまだ一番の歌詞しかない未完成の曲の、耳障りのよさ、馴染みやすさに少し戸惑いつつ(オーティスにしては曲調、歌唱が淡々としていた)も、そのスタジオにいるわずかな時間の中でつくりあげたのが「ドッグ・オブ・ベイ」で、完成後(彼らにとって「当たり前」に)すぐに録音され、その曲が録音された三日後、次の公演場所に移動する飛行機の墜落事故でオーティスは、死んだ。


・「オーティス好き好き病」が悪化している。

・デイヴィッド・リンチ「ワイルド・アット・ハート」を観る。ガソリンを給油中に黒人のおっさんがラジオから流れてくる音楽に揺れてローラ・ダーンがおっさんと動きで戯れて、画面は移り、その後ハイウェイを走る車の中ラジオからはくだらないニュースしか流れずローラ・ダーンがぶち切れて、車を停めて外に飛び降り、後部席で眠っていたニコラス・ケイジに向けて「私は音楽が聴きたいの!」といって、起き上がった彼がチューニングすると音楽はかかり、二人そろって道路端で踊りだす。の場面、好き。そこでゲラゲラ笑った。こうやって書いても、何も伝わらないようなきもする。他にもいろいろ「何じゃこりゃ」が飛び込んでくる。殺し屋の女のアップとか、、、すんげえ。

・付箋というのが、ちゃんとしたのを買うとバカにできないくらい高い。上だけに色がついていて、文章にかかる部分は透明のフィルムでできている付箋をいつも買うのだけど、それが結構な値段で、すぐになくなる。付箋の減らない本ももちろんある。最近は特に付箋が減るような本ばかり読んでいて、だから、100均で売っていないものか気になって、それで行ったら売っていたから助かった。これで、がんがん貼れる。色味はあまり良くないけど。

2013.1.27 204 『許せない 寒いと脱がない ストリッパー』

01 28, 2013 | 日記2013

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・坂口安吾「堕落論(角川文庫)」の冒頭「日本文化私観」を読んだ。

・今日の付箋。

【龍安寺の石庭が何を表現しようとしているのか。如何なる観念を結びつけようといているか。タウトは桂離宮の書院の黒白の壁紙を絶賛し、滝の音の表現だと言っているが、こういう苦しい説明までして観賞のツジツマを合わせなければならないというのは、なさけない】p28

【龍安寺の石庭がどのような深い孤独やサビを表現し、深遠な禅機に通じていても構わない、石の配置が如何なる観念や思想に結びつくかも問題ではないのだ。要するに、我々が涯(はて)ない海の無限なる郷愁や砂漠の大いなる落日を思い、石庭の与える感動がそれに及ばざる時には、遠慮なく石庭を黙殺すればいいのである。無限なる大洋や高原を庭の中に入れることが不可能だというのは意味をなさない】p28

【簡素なるものも豪華なるものも共に俗悪であるとすれば、俗悪を否定せんとして尚俗悪たらざるを得ぬ惨めさよりも、俗悪ならんとして俗悪である闊達自在さがむしろ取り柄だ】p30

【僕は「檜垣」を世界一流の文学だと思っているが、能の舞台を見たいとは思わない。もう我々には直接連絡しないような表現や唄い方を、退屈しながら、せめて一粒の砂金を持って辛抱するのが堪えられぬからだ。舞台は僕が想像し、僕がつくれば、それでいい。天才世阿弥は永遠に新らただけれども、能の舞台や唄い方や表現形式が永遠に新らたかどうかは疑わしい。古いもの、退屈なものは、亡びるか、生れ変わるのが当然だ】p34

【叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると叱られてしまう。人は孤独で、誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういう所から生まれてくるのだ、と僕は思っている】p37

・まだたくさんあるけど、今日はとりあえずこれで。

・今宵満月。外は明るい。

・今日の名言。

「許せない 寒いと脱がない ストリッパー」 三遊亭小遊三「笑点」より。

2013.1.26 203 『消えない軌跡。乱雑な線。歪み、跳躍し、ちぎれ、また繋がる。を刻む』

01 26, 2013 | 日記2013

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・「考えたこと」を書く。で、なく「考えながら」書く。というときの、この「ながら」。考え「ながら」書く、と、考え「た」ものを書く、の違い。「考える」ことの軌跡を痕跡をそのまま文章として「刻む」には、、、。

 紙に書かれた文字を消そうとする時に鉛筆なら消しゴムで、ペンなら線で、消したとしても、それは書かれたものが完全に消え去るのでなく、消そうとする行為が足される、上書きされる。一度書かれたものは消えず、そこに残る。消しゴムで文字を消したとしても紙面には鉛筆の「動きの跡」が残る。パソコンの画面ではdelete keyを押すだけで消えてしまうものが紙の上には残る。消せないものも含めての軌跡(こう書いてみるとパソコンの画面で書くこと、消すこと、と紙に書くこと、消すことを一緒に扱えるものかわからない)。

 文章を書き終えて、もともと書いたものの量が10あったとして、後からそこにあるものを引いたり、あるいは足したりして7になったり12になったりする。けど、それでは、考え「ながら」の「ながら感」は消えてしまうのでないか。「この部分は余計だから整理すればもっとすっきりするな」という時に、はじかれるもの(余計、邪魔と呼ばれるもの)は、「ながら」の中に生まれたものであって、それらを消去してしまったら、もともとそこに生まれた運動を殺してしまうのでないか、、、。

 何を書いているのかよくわからない。し、こう書きながらもdelete keyを押してもいる。

 書き終わったあと、冷静に、俯瞰的に全体を見渡したとき、余計、邪魔に思える箇所、すんなり読み進めない部分がみつかったとして、それは書いている時間の中でしか生まれないもので、人の思考は純粋な直線運動ではないのだろうし、曲がったり、戻ったり、途切れたり、また繋がったりするのだから、「すっきりさせる」という行為はおそらく、場当たり的に生み出されたその乱雑な線を「なるべく直線にしましょう」ということで、そこに在る「運動の軌跡」を歪め、矯正するということで、けどその矯正されてしまった部分にこそ、その人特有の何かがあるのでないだろうか。

 なるべく「ながら」の動きを切らないように、このまま翻弄されながら今は書こうと思って書いている。から、読み返さない。おそらく、ぐちゃぐちゃなのだろう。轍のない細道を行く車の前輪にでもなったような気持ち。「わたし」と「地面」の接する瞬間にだけ意識を向ける。後ろは見えない。ただ転がり続けるだけ、、、、、、

 初めに書こうとしたことはなんだったろう? よく覚えていない。どこか別の場所に流れてしまったろうか? 子供が真っ白な紙に線を描いていく、その跡。筆の動き。腕の動き。身体の動き。それを「文字を打つ」という行為に置き換えるためには、、、。「考えた」ことを書く(記す)のでなく、「考えながら」書く(生む)というその「動き」をそのまま文章にトレースさせるためには、、、。結論はない。ただ、消えない軌跡。乱雑な線。歪み、跳躍し、ちぎれ、また繋がる。を刻む。


・結論にあるいは結末に向かって収束されていくものとして書かれるか。もしくはそれを書いた人間の思考の、身体の動きの「軌跡」として「在る」か。それはどちらも「文章」という形をとっていても、全く違う何か。のように思う。

・ここまで、朝、雪かきを終えてから書く。

・BS TBSで放送された「Song To Soul」を録画していたので見た。オーティス特集。


2013.1.25 202 『あるいはその糸の始まりの何処かにまで遡って』

01 25, 2013 | 日記2013

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・今日は神戸に住む幼なじみが、祖母の米寿の記念で山形に帰ってきていて、夕方五時過ぎに顔を見せにきてくれた。娘を連れて。あたりまえのことだけど、歳を重ねて行けば友達が結婚したり、子供を産んだり、そういうことがあるのは当然で、そういう出来事に慣れていくのだろうけど、自分がそういうところにいないから上手く実感がわかないというか、、、。そのぎこちなさとともに時間は経過していくのだろう。友達の子供だからいいものの、自分にあんなんができたらどうなることやら。想像すれば、こわい。

・自分がつくったものに接すると「本当にこれは自分がつくったものか」と思わざるを得ない時があって、だから「自分のことは自分が一番わかる」などというのは嘘だし「自分探し」などというのもどうでもよくて、その「分からない」先にだけ「何か」がある。

・「自分」や「わたし」なんていうのは翻弄される流れの中で通過する一つの「点」でしかなく、飛び散り舞い踊る火花のようなもので、掴もうとすればもうその手にはない。

・愛すること。愛すること。愛すること。血みどろで笑え。——と、あの女はいった。いったように思う。いってないかもしれない。

・何かが揺れましたので、起きてみると、そこには糸がありまして、その糸はわたしの前を通過して、ずっと先まで続いているようでしたが、それがどこからやってきたのか、何処に繋がっているのかはわたしには見えず、けれども、その糸の揺れ方にあまりにも心を揺さぶられたもので、だからわたしも、その糸を手に取って、揺らしてみましたが、それがどこに繋がるのかは到底見当がつきませんで、それでも、ただただわたしはその糸を揺らしたのです。届きますでしょうか、この揺れは。届きますでしょうか、その果てに。——あるいはその糸の始まりの何処かにまで遡って、、、。

・窓を開けて明るさに驚いて、調べて、十三夜で、南中時刻が十時過ぎで、だからちょうど今明るい。木々に積もる雪の白さ、を見る、目。

2013.1.24 201 『自分の理念を離れた場所へ自分を突き放して、そこで賭博をしている』

01 24, 2013 | 日記2013

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・坂口安吾「堕落論」の「青春論」だけを読む。文章に導かれていろいろなことが浮かんだ。それを書こうと思っていたのに、いつも流れに任せるような書き方しかしないので、考えたことをまとめるという文章の書き方がよくわからなくて、結局放り棄てることになってしまった。だから青春論の中からの引用だけにする。

・第三部、宮本武蔵について書いている部分は、随分とリズムに乗って書いたような、勢い、動きがあって凄い。そこに書いてあることが、ぼくの考える「ライブって?」と重なる部分があるように思えてどきどきした。

・今日の付箋。坂口安吾「堕落論」角川文庫。

【我が青春は淪落だ、と僕は言った。然して、淪落とは、右のごときものである。即ち、現実の中に奇跡を追うこと、これである】p63

【すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない】p66

【今まで偶像だったものをハッキリ殺すことができたという喜びであった】p74

【武蔵は都甲太兵衛の「いつ殺されてもいい」覚悟を剣法の極意だと言っているが、彼自身の剣法はそういう悟道の上へ築かれたものではなかった。晩年の著「五輪の書」がつまらないのも、このギャップがあるからで、彼の剣法は悟道の上にはなく、個性の上にあるのに、悟道的な統一で剣法を論じているからである】p92

【試合に当たって常に綿密な計算を立てていながら、然し、いよいよ試合にのぞむと、更に計算をはみだしたところに最後の活をもとめているのだ。このような即興性というものは如何ほど深い意味があってもオルソドックスには成り得ぬもので、一つごとに一つの奇跡を賭けている。自分の理念を離れた場所へ自分を突き放して、そこで賭博をしているのである】p93

【試合は武蔵にとっては彼の創作の芸術品で、試合がなければ彼自身が存在していないのだ。談笑の中に敵の心法の甲乙なきを見て笑って別れるような一人前らしい生き方を覚えては、もう、武蔵という作品は死滅してしまったのだ】p97

2013.1.23 200 『どうでもいいけど、最近流行のクイズ番組がくだらないのは、それが』

01 23, 2013 | 日記2013

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・どうでもいいけど、最近流行のクイズ番組がくだらないのは、それが「辞書的な知識」しか扱わないからで、ああいうものに答えることが出来る人間を「頭がいい」というのならば、創作する人間にとって「頭のよさ」という要素は不必要なもので、そして、ああいうやつらには何かを「つくる」ことは出来ない。だろうと思う。

・鳥にとっての歌やダンスが「性」「生」に寄るもの(オス鳥のメス鳥に対する求愛や、縄張りの問題)だとして、、、と書いていて何を書こうと思ったのか忘れてしまった。———例えば鳥でいえば「より上手に歌う個体に領地をあけわたす」ように「上手さ」というものが重要な条件になるのに、人間においては、、、、、、またわからなくなった。———とにかく「上手さ」というものが、唯一の絶対的な条件ではなく、全体の中の一つの、、、あるいはもっといえば「それほど重要なものでない」要素の一つに位置づけられるのは「人間」のほかにあるのだろうか? 

・人間においては「視覚」がもっとも優位とされているらしいけど、その「個体差」のようなものはあるのだろうか? 

 (視覚を持たないとしても、生まれつきのもの、と、ある程度年を重ねてからの失明では「視覚を持たない」の意味合いが全然違うように思う。——というのはどうでもよい蛇足の疑問で、、、。)

 先に書いた個体差というのは、すべての感覚が働いているという条件下で、他の人より視覚に依存する割合が低く、嗅覚や聴覚が発達しているとか、そういうのはあるのだろうか? ということで、もしあるのであれば、そういう人たちが記す「言葉」というのはそうでない人の言葉とは全然違っているはず。個人によって受容する感覚の働いている割合がちがうのなら、その生理に基づいて書かれる言葉は(その他の表現も)変わってくるのだろうと思う。こないだ書いた、目線のインストールはそういうことを書きたかったのかもしれない。

2013.1.22 199 『書いている人間が憑巫なんです。愚鈍なる憑巫ですけどね』

01 22, 2013 | 日記2013

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・方言が好きだ。方言というのは「操れる」「操れない」以前にそうやってしか話すことが出来ない、というものであって、ぼくが好きなのは「そうとしか喋れない」というレベルの方言。例えば標準語を喋ることが出来るけれど、あえて訛る。という話でなく。だからどうしてもじいちゃん、ばあちゃんのことになってしまう。今日セリの収穫をしながら、畑の話をしていて、だいぶ年上の先輩が発した「ブロッコリー」という言葉がどうしても「Blooklyn(ブルックリン)」にしか聞こえず、その先輩が「ブロッコリー」と発するたびに、一人で「すんげえ〜」とニヤニヤしながら聞いた。

・雪道を青いプラスチック製のソリをひいて歩く女とすれ違った。作業場にセリを置いて田んぼに戻る途中にもう一度その女とすれ違う。ソリにはたった一つキャベツだけが乗っていて、でこぼこ道をゆくソリの上下運動にあわせてそのソリにのったキャベツは飛び上がっては座り、飛び上がっては座り、を繰り返していて、ぼくの運転するトラックとすれ違う時に女は道の端に身体を寄せ、それでキャベツもおとなしくなり、その女はおばあさんだったけど、可愛らしい顔をしている。と思った。

・セリの運搬をしている最中ラジオからベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」が流れてきて、曲の良さというのと別に歌だけを聞くと「あれこんなに歌へただっけ?」と感じてしまったのは、多分、オーティスが歌っているそれをずっと聴いていたからだろう。下手だけど、味がある、というのとも違う。特に「味」を感じる歌唱でもない。彼をだしにしているようで気が引けるけど、オーティスの凄さを改めて実感する。

・今日の付箋。

【表現するということは小説や評論やエッセイに限らず、書いている人間が憑巫(よりまし)なんです。愚鈍なる憑巫ですけどね。なかなか感応しないものだから。しょっちゅう煙草を吸ったりなんかしてね。それでも、自分個人としては書けないはずのことを書いているのが表現じゃないかと思っています。一度書いてしまうと、なんであんなものが書けたのか、今の自分では読みきれないことになるんですよ。不思議なものでね。】古井由吉 ——佐々木中『アナレクタ4』 p220 古井由吉との対談より。

2013.1.21 198 『渡波パワー見せつけたれ』

01 21, 2013 | 日記2013

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・随分と前から思っていたことを思い出した。目の見えない人が音を聴いて「いい音楽だ」というように、耳の聞こえない人がみて「いい音楽だ」というものはないのか。きっとあるだろう。音楽は音だけでなく、どのようにしてその音が出されるのか、視覚の問題でもあると思う。姿。表情。動き。実際に音など聞こえないとしても、視覚から取り込む情報で「これはいい音楽に違いない」と思わせるものだってある、と思う。それだって立派な音楽じゃないか。それとも耳を介して感じ取れるものだけを音楽と呼ぶのだろうか。

・何故か最近、夜の林の中で月明かりに照らされた男が、そこにいることの歓びを体中で体現するように踊り、舞う姿を想像することがある。その男が宮沢賢治かどうか、は、よくわからない。それでも、彼が月明かりに何かをもらった時の歓びに思いを巡らせること(もちろん同等というわけにはいかないだろうけど)、少しだけかもしれないけど、その歓びを共有出来るような気がしてとても嬉しく思う。

・揺さぶりをかける。揺れる。揺れる。

・Facebookに電話の脇にあったメモ帳に書いた絵をのせたのだけど、あれは題名を書かない方が良かったと思った。友達の犬飼ともが石巻の渡波地区の子供達と新しい作品をつくっていて、一度目の展覧会のときには作品にタイトルはなく、今回からは作品の一つ一つにタイトルがつけてある(タイトルは作品をつくった子供達が自身でつけたもの)。大抵、言葉を与えると意味が限定されてしまって(あえてそうじゃないものをつけることもあるだろうけど)つまらなくなってしまう。のに、渡波の子供達の作品につけられたタイトルは意味を狭めるどころかもっと作品を意味付け不能にするようなもので、それが楽しい。大人達はもっと翻弄されたらいい。大人に毒されて大人に迎合した作品しかつくらない「頭のいい」子供達も翻弄されたらいい。渡波パワー見せつけたれ。

2013.1.20 197 『「書く」こともそのようにありたいと思う』

01 21, 2013 | 日記2013

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・個性というと「何を発しているか」のように思われるのかもしれないけど、そうでなく「どう受けているか」のほうにあるのではないか、と思う。受容する身体。何が見えているか、聞こえているか。

・天気予報をみていると「明日は晴れです」といっていて、素直に喜んだりもするけど、真冬に泥水に浸かる仕事なんてしていると多少の悪天候にはビビらなくなってきた。

・例えば壁あてなんかしていると周りには「練習」と映るのかもしれないけど、(もちろん肉体的な苦しさはあっても)それは誰かに強制されたものではなく、身体との言葉のない対話であり遊びのようなもので、「書く」こともそのようにありたいと思う。

2013.1.19 196 「そう考えた初めの誰か。は、すげえ。」

01 20, 2013 | 日記2013

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・部屋に置いてある綿花を見て「これを服にしようと考えるってどういうことなんだろう」と思った。そう考えた初めの誰か。は、すげえ。

・新しい「楽器」は生まれるのか? 生まれるだろうけど、いつだろうか。

・友人と鍋。食って、部屋着の半纏のまま街に。Tarjiの少太さんがカウンターの中で笑いながら「おまえそれはズルいだろ」といいました。

2013.1.18 195 『虹や月あかりからもらってきたのです』

01 19, 2013 | 日記2013

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・誰かが歩んできた道の、独りで歩んできた道の、涙に思いを馳せたなら、それだけで、繋がることもあるでしょう。

・友達に「たまに出てくる猫はだれ?」ときかれた。豆という名前の猫はセリ屋の家にいる。他は想像、創造。「おい、こら、なめんなよ」と書いたら、それが、猫に繋がって、という具合にただ書いている、だけ。

・いつも朝コーヒーを買うコンビニの店員の愛想は悪い。まず品物を袋に入れる気がない。「袋にいれますか?」とたまに聞いてもその言葉には「いらない、と答えろよこの野郎」という言葉がひそんでいるみたい。おつりはガシャンと投げるみたいに渡すし。でも別に嫌いではない。毎朝の楽しみでもある。

・宮沢賢治の「注文の多い料理店」の序文に「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです —略— ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。」とある。この言葉を疑う(本当かよ、森がしゃべったり、電信柱が行進したり、それを「そのまま」って。などと)ような心でいるより、まるごと受け入れる方がいい。そのほうがずっと素敵だ。人は何かを「自分の中でつくっている」と思い込んでいるのかもしれないけど、人はそれらを「虹や月あかりからもらって」いる。

2013.1.17 194 『会って話をすることが出来る人間の、あえて文章化された言葉』

01 17, 2013 | 日記2013

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・例えば、自分の視覚で感じ取っている世界の印象はそのまま残したまま、別の誰かの視覚をインストールするような(比較が出来るということ)ことが可能だとすれば、自分でない誰かの見ている景色はどのように映るだろうか。どのように映るだろうか、というより、その光景の中のどの部分を「見る」だろうか。というような、、、。ちゃんと言葉にできないけど、同じ場所の中で目はどのように動いて、何に目を向けるのだろうか、とか、例えばぼくは鳥を見て、誰かは空をみる、とか、多分同じ光景が目の前に広がっていても、何が見えるか、はその人で違っているのだろうから、それを感じてみたい。その目線の運動をインストールしてみたい。感動する場所が違うのだろうし。自分でもわけのわからない文章になった。けど、気になる。

・知っている人の、書く文章を読むのは楽しい。Facebookとかの文章はどうでもいいけど、それほど「外向き」になっていない文章を読むのが楽しい。実際に会って話をしたことがある、というのが前提で、その人の雰囲気や、言葉に出来る範囲での考えとかいろいろ聞きつつ、それが言葉に変換されたものを読むのが楽しい。会ったことのない人の文章を読む、は通常の体験。で、会って話をすることが出来る人間の、あえて文章化された言葉に触れるのが楽しい。

・そういう文章を読んでいると、いろんなものを見ているんだな、と実感する。見たものを、一旦言語にして、もう一度現す。「見たもの」とその人の身体を通して「言葉によって現されたもの」のズレ。その「ズレ」とか「ピント」とかを体感するのが誰かの文章を読むことの楽しさなのだろうか。

・外仕事の中でも、真冬に水に浸かって腰を曲げて、なんて仕事は他にあるのかどうか。特殊なもんだと思う。もっと北の方にいけば、同じセリ田にしても、ビニールハウス栽培になるようだし、吹雪に晒されながらセリを収穫するなんて光景はあまりみれないんじゃないか。それは、どうでもいいけど、外仕事のなかでもなんだか特別なジャンルのことをやっていると今まで以上に、気温や、風や、音や、光や、そういうものの変化に敏感になる。特に太陽の美しさ。雲だらけの空から急に現れる太陽の、その水面に反射する光や、その暖かさや、、、。それを本当に感じる。前にも書いたけど「様」がつくのがよくわかる。これはこもっていたら感じることができないもの。

・今宵。星みえる。明日は冷える。だろう。

2013.1.16 193 『答えるならば「わからない」。あるいは「沈黙」』

01 16, 2013 | 日記2013

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・まるで気の利いた質問をしているかのような顔で「あなたにとって〜とは?(例えば音楽とは? とかその人にとって重要な何か)」ときいてくる人間はめんどくさい。それから、その質問にさらりと答えてしまえる人間にはさっぱり興味がない。そういう類いの質問にさらりと答えてしまえるような人間は、そもそもその何かについて考えているのだろうか。地団駄踏んだり、右往左往したり、「わかった」と思った後すぐに「いや、違う」とたった今舞い降りた答えのようなものを破り捨てたり、そういうことの繰り返し。一言で答えることが出来るような「問い」なんてどうでもいい。最初の質問にもし一言で答えるならば「わからない、、、」「わかれない、、、」。あるいは「沈黙」。「わからない」という返答の誠実さを思う。

・その問いにたいする答えのようなものを本当に知ろうとするという思いがある(ほとんどの人間にはない。ただ惰性で「大体この質問をしておけば済むだろう」のようなものなのだし、、、)ならば、それはその人間の人生をずっと追うしかない。そこで答えとしての「言葉」が語られなくとも、その全部の「時間」がそっくりそのまま、その問いの——。

・以前カブトガニとかいたのはカブトエビだった。ヨーロッパカブトエビという種類で、ヨーロッパカブトエビは山形県にしか生息していないらしい。

・セリを収穫し終えた田んぼには、箱詰め作業で廃棄されたセリが撒かれる。久しぶりに、太陽は夕方になっても雲に隠れることはなく、その光の中、田んぼに廃棄されたセリの上に三羽のカラスが舞い降りてきて、くちばしを動かしていた。食べるものなどあるのだろうか? 

 口笛を鳴らすとその度に三羽のカラスは振り返ったけど、それらが顔を向ける方向は口笛を吹くぼくの方とは全然違っていて、彼らは別の何かに反応しているのかとも思ったけど、やっぱり反応しているのは口笛の音らしく、けど毎回全然音源とは違う方向を向いていた。

 その三羽のカラスの中にセキレイが一羽混ざるように降り立って、くちばしをカラスたちよりも速く、細かく動かしていた。セキレイは、毎朝僕らが田んぼに行くとすぐ隣に寄ってきてほぼ一日中いる。だからぼくはそのセキレイを「いつもくるセキレイ」だと思うことにした。それで、こないだ辞めていった「ホウザワさん」という矢沢永吉ファンの人の名前をもらって、そのセキレイを「ホウザワ」と名づけることにした。「ホウちゃん」と呼んでいる。

2013.1.15 192 『吃り、躓き、反復される音。の先に生まれるもの』

01 15, 2013 | 日記2013

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・昨日ディアンジェロの音楽に書いた部分の補足として。メロディーやサビという概念を初めから排除するかのような、リズムとベースがただひたすらループされるような曲があって、聞く人によっては、ただ間延びして、何の変化もないようなつまらない音に聞こえるかもしれない。「間延び」と思われるのをおそれずに「待つ」という時間(待つということばもおかしいか、、、)。をやるだけで凄い。ちゃんと聴けば間延びなんて感じる暇がないことをやっているのだが。そういう曲の源泉を辿っていくと何処に行き着くのか、ははっきりと分からないけれど、ジェームス・ブラウンを経由することは間違いない、と思う。

・すこーんと突き抜ける手前のわなわなした時間。ソニー・ロリンズのアドリブが炸裂する手前の「吃る」ような演奏。吃り、躓き、反復される音。の先に生まれるもの。

・「おい、こら、なめんじゃねえぞ」といったその猫はメス猫でしたので、そう口走ってしまった後、前の言葉を消したがるように、テーブルの周りをぐるぐる歩きながら「失礼しました」といいましたが、その言葉はわたしの耳には入りませんでした。

2013.1.14 その2 191 『終わり終わり。だが、それは続いている。音なき音として』

01 14, 2013 | 日記2013

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・ディアンジェロの音楽(セカンドアルバム)は流れが記憶出来ない。その場で、そこに居る人間の生んだ流れがそのまま音として記録されて、それだけでも聴くことに身を委ねるしかないのに、あとから録音された彼の多重コーラスやクエストラブのドラム、ロイハ—グローブのサックス、ピノパラディーノのベースが加わるものだから、それに耳が寄ってしまって、一つに的を絞ることが出来ずに、ますます流れはわからなくなる。聴くことしか出来ない。ただ聴くことしか出来ない。

 「起承転結」というような、それが素晴らしいとされる「刷り込み」を、寄せ付けない凄さ。伏線や、山場(サビ)などというものと無関係にただその場で、最高と思われる音を繰り出していく音として繰り出される音。それは初めに想定されていたもの、青写真の遥か高くを越えていく。

 終わらない、終わりを持たない、終わりなどなくていい、そんな音。音楽が必ずしも山場を持たなくてもいい、終わりをもたなくていい、を「聴かせつける(見せつける、という言葉から)」そんな音。性癖。生理。続く、ただ続く。これ以上続けられない、という場所まで、、、。


・行けるところまで続ける。続けて、続けて、ぶった切る。終わりを決めてそこに向かうのでなく、終われないものを続けていく。続けていける限り。もう続けられない、というところまで。そこに伏線などなく、始まりから終わりまで(終わりのない終わりまで)ギリギリと張りつめた糸は続いてゆく。

 深海に潜む形の知れない巨大魚が糸を食いちぎるその時まで、続く続く続く。ブチっっっっっっっ、それで一応の終わり。それでも続くという匂いだけを残す、、、。


・終わり終わり。だが、それは続いている。音なき音として。

・聴いていて興奮してしまって、だから書く。本日二つ目。

2013.1.14 190 『分けることなど不要な、不可能な、「何か」、、、。』

01 14, 2013 | 日記2013

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・今日は寒かった。「寒い」という感覚は単に気温に依らず、視覚や、嗅覚や、あらゆる感覚が総合的に働いて感じるもの、ということを思う。

 今日は雪、雪、雪。初めは水分を多く含んだこちらの言葉でいうところの「べだゆぎ」だったのが、午後になると気温の低下からかその見た目の重みは薄れて、軽めの雪になったものの、それは目で見る「重さ」だけであって、雪の量自体は午前中よりもずっと多かった。ように思う。

 最初に書いた感覚のこと。は、今日の最低気温はマイナス一度で、最高気温は零度だった。単に気温だけで判断すれば、最高気温が氷点下を下回る真冬日の方が寒いと感じるはずなのに、今日はそんな日よりずっとずっと寒く感じた。

 まず、目から入る情報で寒い、と感じる。空には雲がかかり、薄暗く、雪は降り続く。音は雪で遮断されて、自分の手の中で揺れるセリの音くらいしか聞こえない。背中は、カッパの生地を通り越して、重たい雪の冷たさが浸みてくる。それから実際に背中が水に濡れる。雪の匂い。

 もしそこに太陽の色が加わるとしたら、同じ気温でもどれだけ暖かく感じることだろうか。鳥の鳴く声が耳に入るような透き通った空気があればどれだけ気持ちが晴れるだろうか。山の稜線がはっきりと目に映れば、、、。


・別に言いたいことはなく、ただ寒さというのが単純に「気温」でははかれない。ということを実感した。というそれだけ。

・あとは、例えば、人が「今日は昨日より寒いね〜」ということに対して、いちいち気温(だけ)を持ち出してきて「今日は昨日よりあたたかいです〜」というような人間がたまにいて、そういう奴は相手にしたくない。どういうジャンルにもそういう奴はいる気がする。感覚、感情を無視して、数字(? 何といえばいいんだろうこういうの、わからない)を、もちだしてくる人。嫌い。

・毎日言葉を書くのは、それが何かの為に、例えば「音楽のためになる」からとか、「歌詞をよりよく書くため」とかそんなことのためにあるのではなく、ただ書いているのであって、「これをやれば、もっとこういうことができる」というような式のようなものがあって、そのために書いているのではない。

・一つのジャンルがあって、それを勉強すれば、他のジャンルにいい影響を与える。とか、そんなことの為にやっているんじゃない。「分けることが不可能な場所にいる」ということ。その場所。

・細分化される前のもっとゴツゴツとした何か、フツフツとした何か、野蛮な、衝動の、火、水、揺れる、破裂する、踊る、引っ掻いた爪痕、あああああ、わからない。ジャンル分けなど不要な何か、、、。

・分けることなど不要な、不可能な、「何か」、、、。

2013.1.13 189 『「あ、殺される」と思った、その顔』

01 13, 2013 | 日記2013

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・アマゾンでブラックミュージックのCDを探していたりすると、関連商品の欄に「ミシェル・ンデゲオチェロ」という名前が出てくることがあって、その文字を見るといつも思い出すのは、ニューヨークに旅をした時、昼間ブルーノートの前を通ったら、その日ミシェル・ンデゲオチェロのライブがあるのを知って、夜そのライブを見にいって、撮影は禁止だったのにどうしても写真を撮りたくなって(「やってはいけないといわれるとやってしまいたくなる病」がわき起こってしまって)暗闇の中で手の感覚を頼りにデジカメをフラッシュ禁止に調整して、シャッターを押したら見事にフラッシュは光り、ミシェル・ンデゲオチェロはその光で後ろを向いてしまい(演奏は続けたけど)、前隣のテーブルに座っていた(デート中だろう、ドレスを着ていた)黒人女性が振り返って「あんた連れ出されたいの!?」といった時の、「あ、殺される」と思った、その顔。

・ディアンジェロのファーストアルバムを探しても見つからなくて、アマゾンに注文していたのが届いた。セカンドアルバムのアナログの再発があるようだったので、予約。家のプレーヤーが壊れているので聴けないけれど、とりあえず買っておく。

・今日読んだ本の付箋を貼った場所から。「白川静の凄いところはコンピュータの時代にいくらでも綿密かつ膨大に蓄積可能と考えられている知識というものを、1人の人間から次の人間への精神の受け渡しになっていなければ意味がなくて、そのような知識が厳然としてあるということを実践したことだ。」 保坂和志「言葉の外へ」p111より。

2013.1.12 188 『ピカソとデュシャンがいるから何も出来ない。だけど』

01 13, 2013 | 日記2013

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・久しぶりにだらだらと何もせずに過ごす。それはそれで結構疲れる気がする。

・考えるということの自発的でなさ、を改めて感じる。

・ピカソとデュシャンがいるから何も出来ない。だけどピカソとデュシャンがいるから何でも出来る。 横尾忠則ツイートより。


2013.1.11 187 『誰でもない誰かになろうとし、誰でもない誰かになる者』

01 11, 2013 | 日記2013

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・太陽の光が見える、それを感じ取ることができる、というただそれだけの歓びを感じ取った一日だった。光る水面。遠くまで見える山の線。

・書きたい。という気持ちより前に、ただ書き始めてみる。というのがいつものぼくの流れで、そうすると「書き始まる」のだけど、今日はそこから先の集中がない。書き始めてみても何もない。眠たい。そら、そういう日だってある。

・「誰でもない誰かになろうとし、誰でもない誰かになる者、なおかつ誰でもない誰かをも、何でもない何かをも、それらすべてを決して無駄にしない者。」佐々木中『アナレクタ4 この熾烈なる無力を』p95より。

2013.1.10 187 『自由帳にただ「後から日付が足される」ような感覚で書けばいい』

01 10, 2013 | 日記2013

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・日をまたいで何かをつくる。という経験は曲づくりの他に何かあっただろうか。日記にしてもそれは日記だから、日記だし。——と書いていて思ったけれど「日記なのだから、次の日に続くように書いてはいけない」なんて決まりなんてない。のだから、そうしてみようか——と書いた脱線のせいで、何を書こうと思っていたのか忘れてしまった、、、。

 終われない文章を書いたことがない。ということか。一日で。曲を一日でつくることができる人もいるけれど、ぼくは時間がかかってしまうから日をまたぐし、つくりかけておいて放っておくこともしょっちゅうある。だから、曲というものに関しては、何日かかけてすこしづつ前に、という気持ちができているけれど、それが文章で出来るか、と考えると、そんな勇気や根性はないように思う。


・日記だからといって別に日々の報告をしなくちゃいけないわけではないし、それこそ自由帳にただ「後から日付が足される」ような感覚で書けばいいと思う。それでいいと思う。だからめちゃくちゃで構わない。はずだ。

・自分で書いといてなんだけど「それこそ自由帳にただ『後から日付が足される』ような感覚で書けばいい」というのはいい感じだと思う。いい感じだ。よくそういう言葉を書きました、褒めましょう。

・野球をやっていたから、自分は野球が好きだと思っていたのだけれど、実は野球が好きなわけではなくて、自分はただ「壁あて」が好きだったんだ、と気づいた時は流石に愕然としたけれど、やっぱりぼくは野球というスポーツが好きだったのではなくて、一人壁にボールをあててグローブで球を拾う、自分の身体との対話が延々とつづくような時間が大好きだったのだと思う。思う、というか、だ。

 こんなことを書くと「なんて寂しい人間!」なんていわれてしまいそうだけれど、別に何も寂しくないし、基本的にそういう風に出来ている人間のようで、歌を歌うにしても、自分自身(と同時に他者とも呼べるような)と対話しながら(あるいは大好きな音を鳴らした先人達と対話しながら)一人でどこまでも続いていく自問自答のような、遊びのような、そういう時間がたまらなく好きで(好き? 何という言葉がその感覚に合うのか分からないが)、、、ただおもしろい。だからぼくは団体競技には向かないのです、とかそういうことをいいたいわけではなく、自分はそういう風にできているんだな、とか、そいういうことの中に歓びを見つけるんだな、とか、ただただ思うだけ。


・夕飯前に、音楽もかけず、書いている。ストーブにやかんをかけていないから、その音もない。右隣にあるストーブの暖かさをただ感じながら、パソコンの音と、自分の打つキーボードの音だけを聞いている。静かだ。星も見えない。

2013.1.9 186 『ぼくのは自由帳のように書きたいと思う』

01 09, 2013 | 日記2013

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・誰かが書いた日記を読んだことはあったろうか、ないだろうか。もともと本を読む人間でなかったし、今もそれほど読んでいないし、読んでいるものも偏っているような気がするし、ましてや有名人やタレントのエッセイはあまり読んだことがない。

 から、日記とかエッセイのようなものがどんな風に書かれるものか知らなかったし、別に興味もないけれど、今日本屋に寄ってミュージシャン(俳優も? 舞台やら映画やら何やらいろいろやっている人のようですが)のエッセイの文庫本を見つけて、立ち読みして「こういうのが売れてる人の書くエッセイなのか。つまらん」と思った。だから、なおさらそんな風に書かなくていいと思った。

 何がつまらないのかと考えてみると、はじめから「これを読む人はこういう人達」という想定が頭の中にあって、その誰かに対して書けばいいや、みたいなところなのだろうか、わからない(あとは「これが、エッセイというものです」のような「感じ」?とか)。その人のファンは読むでしょう、そりゃ。そしたら「音楽や、演技や、それ以外にもこんなん書けますけど」のようなものを書いていれば、問題ないわけで、そういうところがつまらないのかもしれない。どこにも喧嘩をうっていないというか(これは違うか)。


・ぼくのは自由帳のように書きたいと思う。真っ白な自由帳。子供が絵を描いたり、文字を書いたりするように、遊ぶように書ければいいと思う。そこには日常が書かれていたり、誰も意味の汲み取れないおかしな文章があったり。子供が何かを描いて、その描かれた何かに導かれるように別の何かを書き加えていくような、自由とも、意味不明とも、、、なんでもいいからそういうものを書きたい。その筆の痕跡。そのキーボードを打つ音の連なり。


・誰かに見て貰いたい。という「対象」からかけ離れて、ただただ夢中に書かれるような何か。

・こうやって自分で書いてみて「そうか、そういう風に書きたかったんだ」とも「そうそう、そんな感じでいいじゃないか」とも思う。もっと遊ぶように書いたらいい。舞い踊るように。雪の降る空の下、雲に霞んだ太陽を受けてバシャバシャと水を鳴らしながら舞い踊るように、、、書く。おもしろいじゃないか。

・ライブ感というのは文章にもある。書きながら、そのつど繰り出されていく文章。今日みたいに「遊ぶように書けばいい」なんて思いながら書くと、筆がぼくを置いていく。実際には筆じゃないけれど、手がぼくを置き去りにしていくような感覚。その感覚がライブに求める感覚だ。ぼくがやっているのにぼくが何処かに置き去りにされるような感覚。わかってるならやればいいじゃないか、とおもうけれどそうすんなりいかないのは「見てる人」がいるから? なのか? きっとそれはあるだろう。

 これからもっと自分でもわからないような方向に行くのかもしれない。だから、ぼくに興味をもってくれている人(がいるならば)が今後もそう思ってくれるのか? それは分からないし、そんなことを気にしていたら、前になんて進めない。

 とはいえ、「なんだかずっと同じことばかりやっていてつまらない」という離れ方でなく「何をやっているのか、どこに進もうとしているのかわからなくて、つまらない」という離れ方になるくらい、そこまで振り切れないと、とは思う。同じつまらないにしても。

2013.1.8 185 『彼は雷だったので、ある雨の夜、轟々と降る雨と共に』

01 08, 2013 | 日記2013

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・鐘を突いた。そこではない最果ての鐘が鳴る。それをそいつは知らない。

・張りつめた一本の糸。その先はあまりに遠く、どこまで続いているのかなど知る由もない。けれど、それは弛むことなく背をはっている。のであれば「もう一方」は在る。何処の、何時の、誰の、何かの、元に。それを知ることはできないけれど、その糸は弛むことなく。糸を揺らせば、その波はもう一方に届くだろうか。

・彼は雷だったので、ある雨の夜、轟々と降る雨と共に地上に舞い落ちた。けれども、同時に何百という雷たちが地上に舞い降りていたので、彼はそのうちの一つでしかなく、誰も彼のことなんて知りもしなかったのだ。ただひとつ、彼が舞い降りた大きな大きな杉の木を遠くで眺めていた一羽のカラスが彼の光を目撃していただけだった。

2013.1.7 184 『お前はいつも来るセキレイか、それとも別のか、ぼくには分からんよ』

01 07, 2013 | 日記2013

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・仕事場に着くまでは15分ほど。車で。こんなにも近場で働いたことあったろうか? 思い出せない。思い出そうという気もない。何年か前に借りたサラ・ヴォーンのアルバムを流していて、それが何日か続いている。いいな、上手いな、バックの演奏も、と思いながらもハッとされられるような瞬間がない。踏み外したり、歌いあぐねるようなところがない。ハッとされられる部分というのは上手さというステージとは別のようになおさら思う。

・最近のというか数年前しかわからないけれど、黒人女性、あるいは黒人音楽を聴いて育った女性シンガーたちの歌のうまさといったらビックリするものがあって、上手さでいえば男性の遥か上をいっているように感じていた。その上手さというのは音程のよさや、音数の多さ(何といえばいいのかわからないけれど、短い時間に複数の音を行き来する)、歌の迫力、とか。(その流れの源はアレサ・フランクリンにあるのかどうか知らないけれど)一昔前のシンガーでは太刀打ち出来ない上手さだと思った。けれど、それはやはり「上手さ」の話であって、それが歌として凄いのか? と問われるとそうでないようにも思える。これは今日の頭では書ききれそうもない。から、先のばし。

・近所には、というか車で走っても大きな本屋というのがない、のが不便で、不便というか少し寂しくて、欲しい本が大体店頭に置いていないから、ネット注文になってしまいがちだけれど、こないだ本屋に行ってブラブラと眺めながら二冊本を買ってきた。そういう時間の楽しさ。大きな本屋にいってもっとブラブラしたい。

・七草を過ぎればセリの注文数も少し落ち着いてきてようやく休みが取れそうだ。セリを積んだコンテナを運ぶ時はウエイトトレーニングをしているようだけど、それ以外は泥田に浸かりながら腰を曲げてセリを収穫するだけで、それでも相当な体力を使う。見た目の派手さはないにしても、泥を歩くだけで結構しんどい。男達は腰の痛みに顔を上げてしばらく空を覗く。その脇でセキレイはセリの上をピョコピョコ歩く。お前はいつも来るセキレイか、それとも別のか、ぼくには分からんよ。

2013.1.6 183 『今日、神戸に住む幼なじみから年賀状が届いた』

01 06, 2013 | 日記2013

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・今日、神戸に住む幼なじみから年賀状が届いた。奥さんと娘と一緒に映っている写真に添えて文章がある。「おれは今農家になる勉強してるよ〜」。この土地に引っ越してきた四歳のとき、1人で三輪車にのって家の前の通りを走っていたら、前のほうから歩いてきたのがその人で、それが出会いで、年を経て幼なじみと呼べる人になった。なっている。「どこにいくの?」「さんぽ」。

・毎日何かを書くということの良さ、というか、その「良さ」のために書いているというわけではもちろんなくて、あくまでやりながら感じること、ということだが、、、。

 それは、一つ一つの文章、の存在が薄まる。こと。と書いても自分であまりよくわかっていないけれど、質より量だ、と言い切れるほどの量も書いていないけれど「量」というものでしか見えない部分もあるというか、以前書いたけれど、ディランの書いた曲の数というのが何よりも「質」以前にディランの音楽との向き合い方を示しているというか、、、。なんだか、ずれた。

 例えば「今日はなんだかいい文章を書けた気がする」と思っても次の日にはまた別の文章を書くわけで、その余韻に浸るより先にまず「『書く』という行為を継続させる」ことが優先される。あるいは、させる。結果、以前書いた文章の善し悪しというよりは、とにかく毎日何かを書く、ということが重要になってくる。と書いても、まだ脱線しているように思う。というか、脱線しない日があるのかわからない。最初に何を書こうとしたのかすら思い出せない。そもそも何を書こうとしたのだろう?


・見えない。見えない。何も見えない。——嘘だ! 見えているじゃないか——。そう、見えているのかもしれない。でも私の手には何も見えていない。何かに触れているのかもしれないが、それが何であるのか、が分からない、、、。——嘘だ! 見えているといったのに——。本当だよ。私の手は手であって目ではないのだもの。

2013.1.5 182 『ただただ動きを、それ自体を突き詰めていくような踊り』

01 05, 2013 | 日記2013

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・書いていて、「これは伝わるだろう」とか「これは伝わることを目的としていないから伝わるなんてことはどうでもいい」という区別のようなものはやはりあって、多数の人のレスポンスというか反応が多いのはどうしても伝わりやすいことを書いたものに集中しがちだ。伝える(意味を)ことを前提としていない文章に反応してくれる人はまだあまりいないけど、そもそもそういうものだから別にいい。けれど「何か引っかかったんだけど、あれは何だったの?」と後で聞かれたりすると、それはそれで嬉しくなったりもする。

・舞踏が舞踏なのはその動作一つ一つに意味が付与されているからではなく、ただ舞踏であるからで、その運動の軌跡。

・フラダンスには一つ一つの動きに意味(言葉)があって、これは波、とか、これは太陽、とか、決まっているらしい。言葉でなく、動きとしての言語。ピナバウシュの踊りにはどの程度言葉が関わっているのだろうか。ただただ動きを、それ自体を突き詰めていくような踊りをみてみたいと思う。

2013.1.4 181 『例えば降り積もる雪に小便をかけた時の』

01 05, 2013 | 日記2013

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・例えば降り積もる雪に小便をかけた時の雪が溶けていく様をただただ見ているようにあてのない、とりとめのない、もくてきのない——

・起きた時に気づいたのどの渇きは昨晩の飲み過ぎたウイスキーのせいなのか、それともただの乾燥によるものか、などという判断は起きたばかりの頭ではできるはずもなく、ただただその具合の悪さに呆然とするだけだった。

・田に浮いて漂うセリの葉(収穫途中で廃棄されたもの)の上に降りて、尻をハラハラリ、首をキョンキョン揺らす一羽のセキレイ。

2013.1.3 180 『猫が270円だして初めて新幹線に乗りました。』

01 03, 2013 | 日記2013

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・「猫が270円だして初めて新幹線に乗りました。」という文章で始まる友達のFacebookの文章が何だか好きだ。というか、それに続く文章というよりこの出だしが好きだ。猫が「だした」のか、猫が「乗った」のか、どちらに「猫が」がかかっているのかわからないような、はっきり書けば「変な」文章なのだけれど、こういうの好き。つまずく感じというか。宮沢賢治ならばこのまま、動物がしゃべり始めるような物語の展開になりそうな気もするし、保坂和志ならば、文章を歪ませながら日常をえがくような小説に発展していくようにも思えてくる。書けそうでなかなか書けない文章だと思う。Facebookの中でみた文章の中で(といってもそんなには見ていないけど)初めて「おっ」という文章に出会った。

・眠い。眠い。眠い。と思いながら、パソコンに向かうとなんとなく書けてしまうもので、こわい。上の文章ももちろん書く予定もなかった。ただただ眠くて眠ろう、、、という文章を書いて眠ろうと思っていたのだ。

・というわけで眠くて眠ろう。と思う。

・眠ろう。と思う。、、、と書いてから続く文章などどうでもいいと思いながらも「寝てたまるか」のような気持ちになるアホなおっさんのグデグデ。本当に寝る。

・壊す。壊せ。と書きながら思うのは、壊す対象が在るというのが既に何かに囚われているのかもしれないと思うけれど、それはどちらでも良くて、とにかく自分の生理にもとづくようなものを、、、。

・と書きながら、また書くのだけど今宵もコルトレーンのライブをヘッドフォンで聴き始める。好き。「何が好き?」「どう好きなの?」ときかれても「ただ好きなんだよ、馬鹿野郎」としかいえない。ある女性に惚れた時に「どこが?」「どのように?」ときかれても「好きなもんは好きなんだよ、馬鹿野郎」としかいえない。ということと一緒。

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