2012.12.31 177 『ひとまず、今年の日記はこれまで、、、。』

12 31, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・午後二時には予定していた出荷数より多くの箱詰めを完了し今年最後の日の仕事は納まる。セリを新聞紙にくるんで大量にもらった。酒を切らしていたのを途中で思い出したので、酒屋に寄るとものすごい混みようで「皆そんなに酒が飲みたいのか」と思ったけれど、それはぼくもそうなのだし。奮発して久しぶりにシングルモルトを買ってみる。

 家に着いて風呂に入り、部屋の片付け。ぼくは片付けるということも苦手で、片付けるというよりただの移動に終わることが多い。ここからあちらへ。そうならないようにまずは、机の上に散乱している本を本棚におさめて、いらないものを処分し、掃除機をかけた。その後でストーブを点けランタンを点けOrnet Coleman「Golden Circle vol.1」を流しながらこうして書いているところ。


・今年のライブの中で印象に残っているものを三つほどあげるとすると、まずは5月25日のVorz Bar。録音のことで迷っていて精神的にあまりいい状態じゃなかったけれど、はじめて自分の曲で遊ぶことができて、あれで流れが変わった。「そうか、歌なんて決まった形がなくてもよくて、その場でいろいろ変わっていいんだよな〜。もっと適当に歌っていいんだ」と実感。

 次は9月10日のBar Tarji。客が誰もいない状態でのライブ。店の中には店員の二人ともう1人の演者のみ。「客がいない状態で自分はどういうライブをするのだろう?」と自分自身も初めての経験で椅子に座るまでどうなることやらわからず。でも、おもしろかった。いいライブだったと思う。このライブで「やっぱり自分は客にのみ向けて何かを表現しているのではない」ということを確信出来た。もし客にのみ向けられるものばかりやっているような人間であれば、そういう状況では「何のためにライブをするのか」「ここで歌う意味が在るのか」とやる気すら起こらないのだろうし。

 最後は12月2日居酒Bar夢人。これは前にも書いたけれど、ただただ流れに身を任せてみる。ということを初めてライブとして実践できた、という感触を得ることが出来た日。この三つのライブが転換点として印象に残っている。し、それは当然身体に刻まれている。来年はどんなライブになるのだろうか。自分でも予想がつかないけれど、そうやって自分自身に翻弄されるアホな唄うたい。五月頃には少太にいやんと何軒かをまわる小さな旅をする予定。


・日記を書くようになって四ヶ月ほどたつ。信じられない。まだ続くのでしょう。旅にいっている時も書けるように環境を整えたい。ひとまず、今年の日記はこれまで、、、。

2012.12.30 176 『腰は曲げても、セリは曲げぬ』

12 31, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・雪。ではなく雨だった。セリの上にかけたビニールシートが雨の音を助長する。収穫作業を終えて袋詰めの作業。ビニールハウスの中に居るとここ一カ所にそこら中の雨が集まって降り注いでいるかのようなとてつもない音になる。実際に外に出てみるとそれほど大した雨ではなく、雨はここだけでなくあちらでも、どこかでも降っている。

・今年のセリは収穫量が少なく値段が高騰しているらしい。とはいっても消費者の負担になるわけではなく、それは業者の負担になるのであって、業者が一束200円で仕入れて、スーパーなどでは実際には198円で商品として売られる。要は業者側のもうけはないわけだけれど、季節物を切らすわけにはいかないのでもうけ度外視でとにかく供給量を確保するらしい。昔から伝統的(春の七草など)に食されてきたものの強みというか、を感じる。

・大晦日にもセリを摘む。泥にぬかってセリを摘む。腰は曲げても、セリは曲げぬ。「セリ屋の言葉」

2012.12.29 175 『嗚呼、年の瀬いそがしセリ屋の連中』

12 29, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・年の瀬、いそがしセリ屋の連中。セリ引きバシャバシャ泥落とし。あかぱ(赤葉)を何枚取ったらば、袋につめて良い旅を。嗚呼、年の瀬いそがしセリ屋の連中。嗚呼、年の瀬いそがしセリ屋の連中~。—『セリ屋のうた』—

・朝靄。男たち。太陽。セリ田。セキレイ。記録しなければ消えゆく光景? 消えない。

・残業。風呂。メシ。で他に何かをする時間はほとんどとれない。この文章も布団の中で書く。

・そして眠る。

2012.12.28 174 『その猫の名は「豆」』

12 29, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・その猫の名は「豆」。二匹で豆のように生まれたので「豆」。一匹で「豆」ならもう一方は? 家には豆しかいないのでもう一方の名前は分からない。豆は机の足に身体をすりつけるように歩きそのままぼくの所にやってきて、身体を撫でるとだらんと横になって鳴いた。

・窓を開けると、軒先に小さなつららがあって、気温が高いからか、それらが溶けて水の滴る音が聞こえる。つららと屋根のうた。

・まどから月は見えないけれど、今宵の月は満月。外は月明かりと雪の反射で明るく感じる。

・浅い筋肉痛がずっと続いている状態。セリ屋の暮れは大忙し。なるべく回復に努める。

2012.12.27 173 『レッカー屋たちも忙しそう』

12 28, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・路面は凍り、何台かの車が農道にて田んぼに落ちているのを目撃。レッカー屋たちも忙しそうだ。

・夕方セリ田から小屋へ向かう軽トラの荷台に乗って移動する。寒さに震える。暖かい風呂を想像する。それでもまだ寒いけれど。

ただの夜の戯れ言。

12 26, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

眠らせた夢の蘇る足の支えとその目線
もう一度と呼ぶ声の鳴る方へ
涙ながれる目に映るもの
届かぬ伝を遠くへ帆を垂れて
漂う舟を差し出す
寄る辺ない岸辺の
鳴る砂の音
揺れる波のその先へ
転がりゆく一つの夢
誰も拾いはしないちぎれた文を
それでも血まみれに書く指の踊る
知られずとも描かれる命の線
誰が見届けようか
その無様なる衝動
その奇怪なる紋様
それでも止めどなく溢るるを
この世界は愛でる
あるいはただ散らす

2012.12.26 172 『最初の轍をつくることに似ている』

12 26, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・雪に埋もれ道などない。もともと在るのかもわからない。そこに二筋の轍。そこに道がある。という安堵。よりも、ここを誰かが通ったのだ。という感動。ゆっくりゆっくり歩みを確かめながら進んだのだろう。轍に思いを馳せる。何故か、出会ったこともない遠くの表現者のことを思う。

・理想とするライブというのは最初の轍をつくることに似ている。出来た轍の後を追うのでなく、そこに道があるかドキドキしながら進むようなもの。先に轍はなく、後ろにのみに轍はある。振り返り、見などしない。ただただタイヤと地面の接触する場所の感触をもとに探り進むようなもの。つまり、事前に用意されていない、ということ。先の見通しが利かない、ということ。手探りで進むしかない、ということ。など。また新しい視覚のイメージが生まれた。

・最高気温が零度を下回るような環境での作業は初めてだったけれど、それほど寒さは感じなかった。それが慣れによるものかどうか、はわからない。それにしても水の中は暖かい。正確にいえば、対流する水の中は、だろうか。セリを積んだコンテナをトラックに乗せるために田んぼからあがって作業するとたちまち手がかじかんでくる。その手を田んぼの水につけるとすぐに暖かさが馴染んでくる。

・農家の手伝いをしながら一年を過ごす、ということを初めて経験してみて、おもいしろいものだと振り返り実感する。こういう生活が出来るのならば、そこら中を旅しながらでも生きていけるだろう、というのを予想や理想でなく、実感として思う。

2012.12.25 171 『という選択肢が在ることを知ること』

12 25, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・田んぼに張る水の表面から湯気はのぼり、男たちは湯気の中腰を深く曲げセリを収穫している。泥を落とすためにセリの根を水面に打ち付ける音が冷たい空気の中に響く。遠くからそれらを眺め歩きながら絵のようだ、と思った。

・水の中は冷たく、寒いと思うかもしれないけれど、そんなことはなく水の中で作業している時の方がよほど暖かい。午後からは雪の土砂降り。風に乗って吹雪くように降る雪に背を向けながらの収穫。水面ばかりに向けていた目線を少しあげるといつのまにか田んぼの線は雪で埋まっていた。

・上手さを追い求める人。上手さをすてることを求める人。けれど、すてることの難しさ。その場所にいくにはまず「上手さをすてる」という選択肢が在ることを知ること。を考えること。根っこへ。

2012.12.24 170 『おいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい』

12 24, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・注いでいた日の光はやがて雲に遮られて、ライブが始まる頃には雪が降っていた。家に帰るときに雪が降っていたかどうか、酔うた目でも捉えていたのだろうけれど、思い出すことは出来ない。昨晩。

・とりあえず今年分の予定されているライブは完了。来年は、、、。

・おいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい

・睡魔に襲われた人間の手が打つ文字。残しておく。

2012.12.23 169 『「なにしてるの?」「なんもしないことをしているの」』

12 23, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・曇り後雪の予報の中での暖かな日差し。これだけでいい気分になる。猫になりたい。

・体力を使う、指先に集中するとかそんな仕事をしていると、それをやりながら何か考え事をするという余裕はなくてもどかしい。「追われる」という感覚。無駄な時間とでも呼ばれるような「何もしない時間」のすごさ。それがないと実はなんも生まれない。特に何かをつくる人。

・なんもしないことに耐えられる人が好き。それは仕事とかそういうことじゃなく、何もしていないでただただそこにいるというようなこと。

・「なにしてるの?」と聞かれて「なんもしてないの」。「なんもしないことをしているの」。

・ぼくは準備というものが本当に苦手な人間で、何から手をつけていいのか、いつまでたってもわからない。だから、そろそろライブの準備をしようと思う。要するに計画することが苦手。苦手というレベルじゃないような気もする。最初から抜け落ちているんだ、多分。

2012.12.22 168 『人間ごときが「わかる」ほど、世界はない』

12 22, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・明日はタージのライブ。忘年会ライブ。何年目になるだろうか。出演は。五回目? 初めてタージに入った時にちょうど忘年会ライブの時期で「じゃ、うちの店の忘年会ライブで歌わない?」といわれて、その次にいった時かどうか忘れたけれど、店の人の前で歌った。その何日か後に忘年会ライブ。

 そのころは(というか今も、といっていいけれど)ライブなんてほとんどしたことがなかったし、自分の曲もほとんどない。それから毎年何度か前座として歌わせてもらったり。それで、少太にいやんとも一緒にライブをやらせてもらったり。そうか、考えてみると、おもしろい。予期などしていなかった。出来ないことだらけ。そもそも人前で歌うことなんて吐き気を催すほどに拒絶していたはずなのに、、、。

 別に「誰のおかげ」だなどと誰かに感謝するつもりもないけれど、ぼくのこの何年かの流れはそういう風にできているらしい。何年かかけてようやく「やる側」というところに立った。立っているのか?


・人間ごときが「わかる」ほど、世界はない。

・最近は「すんなり」を崩す方向にいる。すんなり読める。すんなり理解出来る。すんなり聞ける。そういうもの、そういう受け取り方の淘汰。

・だから結局「振り切れ」ということだ。と書きながら気づく。

・百人いたら百人に伝わらなくてもいい。ひとりに伝わればいい。——というような言葉には気をつけなければいけない。その言葉自体のマジョリティーに。だから、そういう言葉を口にしていればいいというのは駄目なのかもしれない。その先のレベル。それはまだ言葉にできないし、ならない。なったら駄目。その言葉を口にするまでもなく、既にその場所に居る! こと。

『暗闇におっさんがひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ』

12 21, 2012 | Liveのお知らせ

0

日曜日にBar Tarjiにて歌。をうたうと思います。小さな声で。大きな声で。

Tarji忘年会LIVE 12/23(日)

・maquaroni    16:30~17:00
・笹田美紀 17:00~17:30
・ダイスケ 17:30~18:00
・TORA 18:00~18:30
・MORI          18:30~19:00
・富塚勝         19:00~19:30
・松沢春伸        19:30~20:00
・太田昌子Band 20:00~20:30(欠席の場合)以下繰り上げ
・BRONCO    20:30~21:00
・少太    21:00~

2012.12.21 167 『最長老のおじいさまがくれたおまじない』

12 21, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・最長老のおじいさまがくれたおまじない。手首に黒い絹糸を巻く。のおかげかどうか。手首の痛みの進行は止まる。箸を持てないような痛みからは解放。人の手で田植え、稲刈りをしていたころから伝わるおまじない。らしい。

・やらなければいけないことが多くて、日記は早めに切り上げる。ことにしよう。と、書きつつ、どうなるかはわからんけれど。

・言葉にはできない。といいながら言葉にしようとするのは何故か。言葉にしようとしているその「何か」は、言葉となったとたんに下らない「別の何か」に変化しているというのに、、、。言葉にする過程で気づく。「私が感じていたのはこれじゃない!」。

・今宵も音楽を聴きながら書いていて、それで眠い。隣のストーブの水の音で昨日との繋がりを思う。眠い。

2012.12.20 166 『書きながらうとうとと眠って』

12 20, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・眠気で目をこするぼく。の脇でやかんの水のお湯になり、沸点をこえゆく音がする。湯気はまだ見えない。

・セリの引き抜き方を「言葉で説明出来ない」ように。「何か」はほとんど言葉で説明出来ない。セリの収穫の動作の全てを言葉にトレースしたとしても、その言葉だけではやれないだろう。そんなことよりよほど「グッと」「ガッと」「ここでスッと」とか感覚的にしかわからないような言葉のほうがその動作の本質を表していることがある。

・「言葉で説明が出来る」と「言葉で説明したい」はだいぶ差があるけれど、結局重要なところは言葉では至れない。を感じていなければ一緒。

・書きながらうとうとと眠っていたようだ。数十分。ということで寝よう。

2012.12.19 165 『溺れそう。溺れない。溺れそう。溺れない』

12 19, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・大海原に独り。もがいている。溺れそう。溺れない。溺れそう。溺れない。馬鹿野郎の生む海面の揺れ――何時かの、何処かの海岸で波乗り人がいう。こんなにとてつもない波はかつて見たことがない。この波に乗って死のう。――それを互いの知る由もなく。それを誰の知る由もなく。知る由もなくいつか何処かで繋がる。繋がらない。どちらでもいい。

・テレビを見ていて消しゴムのかすをソフトボール大に集めている少年がいて感動した。毎日サラダ油を塗るらしい。五年。

・全ての振る舞いがポーズにしか見えない奴らの中に本物の登場。

・無意味、無用。の極みを生きる人間。が一番心に残るというそのことの不思議。別に不思議でも何でもないのかもしれないけれど。

・色を持たない鳥たちは群れて行動、移住する。縄張りを持ち、単体で行動するのは色を有する鳥。色はすなわち領地の宣言。らしい。岡本太郎が描いた絵の原色は、、、。

2012.12.18 164 『「痛み」という感覚が「日常」に切り込んで来てリズムを崩す』

12 18, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・セリの収穫作業で酷使する手首。の腱鞘炎。コップを持つだけで痛み、親指を動かすと痛み、というか親指が動いてくれないからフィンガーピッキングが出来ない。こりゃ、まずい。

・泥の中を指で探る感覚。目では泥の中のセリの根の状態を把握出来ない。から指先に全て集中される。三日めのぼくはそこに集中するのが精一杯で、いろんなことを考えながらということは出来ない。歌詞を考えながらなんてまず出来ない。だから、なのかどうかわからないけれど時間が過ぎるのがとても早い。

・「痛み」という感覚が「日常」に切り込んで来てリズムを崩す。他のものを差し置いて「それ」に対処しようと意識が向かうのがわかる。「痛み」を伴うことが当たり前になった日常はどのようなものになるのだろうか。例えば順調に年をとっていくとして、、、とか。

・何かを書こうという思いがあったかもしれない。昨日の夜に去来したことなど。全部忘れてしまった。多分もうその「何か」には出会えないだろう。だからといってメモしていればいいかといえばそうでもなくて、何かがやってきて何処にも宿ることなく去ってしまうようなこと、けれど去ってしまって、思い出すことも出来ないけれど、確かに「何かが来た」という感触だけはありありと感じること。それだけでいい。

・セリの田んぼの中で生きるカブトガニを見つけた。先輩方にいうと「お、カブトガニだどれ。この田んぼさもいるんだな〜。はじめでみだな〜」といっていた。

・いつも思うのだけれど、山形弁には「〜」の表現がぴったりだと思う。音と記号の一致というか、山形弁で話す時の伸ばす「ー」はどこか揺れている。だから「〜」がやっぱりあうような気がする。

2012.12.17 163 『朝目覚めて、予想通りの筋肉痛に笑う』

12 17, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・朝目覚めて、予想通りの筋肉痛に笑う。笑いながらも、起き上がることが上手く出来ず、また笑う。尻から足の裏側にかけて。外仕事をしているからといって、この部分が筋肉痛になることはあまりない。前傾姿勢の故。相撲の仕切りに近い形。「のこった!」といわれても足が泥に埋まっているから、そのまま顔が田んぼに沈むだろうけど。

・今日は収穫のペースと、箱詰め作業のペースが釣り合わず、午後二時くらいから男性陣も選別、箱詰め作業に加わった。初めてのセリの選別。サクランボも、リンゴもほかのなんでもそうだろうと思うけれど、商品として出荷されるものの傍らで、振り落とされるものがあって、実はその量はとても多い。

 リンゴであれば、鳥につつかれていたり、色味が悪かったり、傷がついていたり。そうやってはじかれたものは農園で働いている人がもらっていったり、園主の知人にあげたり、あるいは廃棄されたりするけれど、廃棄される量が他に比べて多く、もったいないなとは思う。廃棄することに慣れてしまうのもどうかと思う。けれど!! 廃棄されたリンゴやサクランボやセリたちは土壌の養分となって新しいリンゴやサクランボやセリの一部となる。


・今日はMiles Davis「Sorcerer」。をスピーカーで。けれど中途半端な音量でスピーカーで聴くより、ヘッドフォンの方がいいな、と最近は思う。最近は毎晩コルトレーンのライブをヘッドフォンで。それが終わると、iTunesのライブラリーの順番に任せてニーナ・シモンのブルースに移る。この移り方がとんでもなくかっこいい。iTunesにはcd音質でよみこんでいる。昨日はフェラ・クティとジンジャー・ベイカーのライブをヘッドフォンで聴いた。ビックリした。

戯れ言・162 12.16 『ベテランのおばさまが一人外に出てきて「んだね、綺麗だごど〜」といった』

12 16, 2012 | 日記.戯れ言2012

2

・今日からセリ農家のお手伝い。一面に生えるセリの田んぼに胸までの長靴をはいて入る。ゴムチューブの上に板を敷きその上にコンテナをのせて田んぼに浮かせ、腰を曲げて収穫したセリの泥を落とし、根をそろえコンテナにのせていく。収穫したセリはビニールハウスへ運び、もう一度水洗い、ゴミを取り除いた後、女性陣が選別、袋に入れ、箱詰め。

・腰は痛む。足はぬかるむ。膝はガクガク。先輩のおじさまの一人が「重労働でなくて、十二労働くらいだべ」といった。なるほど。と思う。普段使わないような部分がぷるぷると震える。あしたは筋肉痛でしょう。

・先輩方(今日から来た人もいるようだったけれど)皆さん年上。そりゃもうだいぶ年上。慣れてるから違和感はないし、むしろ好き。昼ご飯はみんなで座敷にて。

 おにぎりをにぎってきたのだけれど、弁当をとってくれていたので、おにぎりには手をつけず、弁当を食べた。おばさまがたは自慢のおかずを持ち寄っている。弁当を持ってこない奥様方も、少食を装って(なんていったら怒られるか、いや怒られない。その辺は尺度だから慣れる。要は言い方だ)「こんなに食べられないから、若い人さ任せるは〜」といってぼくのところにご飯、おかず、その他の食べ物が集まる。

 そんなに昼飯は食べない人間なのだけれど、こうなるとどうしようもないから「頂きます」といって、弁当の残りや、自慢のおでんや、自慢の漬け物や、たらふく頂いた。テレビはもちろんNHKで、のど自慢を見ながらおばさまがたは、なんだかんだいっていて、それがおもしろかった。


・毎度思うけれど、知らないことをやるのは楽しい。年越しのソバに「セリ」が入っていたとしたら、それはそれはありがたく食べると思う。ありがたく食べようと思う。

・仕事終わりに空を見上げると、というか見上げるまでもなく、そこには三日月が在って、明るく見える部分だけではなく、見えない部分の線も見えて綺麗だった。「今日は三日月ですね」というとベテランのおばさまが一人外に出てきて「んだね、綺麗だごど〜」といった。

戯れ言・161 12.15 「それも電気ストーブのようなあたたかさじゃのうて」

12 15, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・「じゃあ、伯父さんのどこがいいのさ」といわれて、松坂慶子が演じる葉子は、満男にいいました。「そうねえ、あたたかいの。それも電気ストーブのようなあたたかさじゃのうて、ほら、寒い冬の日、お母さんがかじかんだ手をじっとにぎってくれた時のような、身体の芯からあたたまるような、あたたかさ、、、」   『男はつらいよ 寅次郎の縁談』より。

・そろそろメディアに惑わされる時代は終わらなくちゃいけないのじゃないのかと思う。

・今日なんとなくテレビをつけたら、ちょうどお宝鑑定の値段予想をする場面で、依頼者に「おいくらだと思いますか?」と司会者がたずねて、依頼者は「百万円で!」といい「何故百万円でしょうか?」と司会者がきくと、依頼者は「百万円くらいいかないと芸術ではないと思います」と答えていて、結局その絵だったか、なんだかは二百万という査定を受けたようだったけれど、なんだか嫌な気分というか、こういう単純な考え方をする人間がいるんだな、と思ったというか、めんどくさ、と思ったというか、馬鹿らしい、と思ったというか、こういう奴らばかりでないことを願うような気分になった。

戯れ言 160 12.14 「静かに壊れる。静かに壊れている。静かに壊されている」

12 14, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・ランドセルを背負う男の子の顔は笑っていて、紫といえばいいか、青といえばいいか、そんな色のダウンジャケットを着ていて、その手には手提げ袋があり、男の子は横断歩道を右から左に向け独り言を呟きながら、手提げ袋を前後に大きく振り、舞うように歩いている、のを見ているのは車の中で信号待ちしている男で、その対向車線で同様に信号待ちしている黒い軽自動車の女は、目の前の横断歩道を左から右へ歩いていく男の子を見て英雄みたいな歩き方だ、と思っていて、それで空は曇っていた。わたしは、ちょうど、カフェのソファーに座り、買ったばかりの本を開きながらも睡魔に頭を揺らされて文字も目に入らず、けれどその手に単行本の重さだけは何故か感じながら、中学時代に好きだったのに結局一度も声をかけられずに終わってしまった女の夢を見始めているところだった。

・めちゃくちゃだ。でも結構すき。

・静かに壊れる。静かに壊れている。静かに壊されている。

・今日はJames Brown「Say It Loud」を。聴きながら。

・「食うために」とかなんとか書くと「じゃ、それで食いたくはないのか」とか「それに時間を注げるならいいじゃないか」とか思うけれど、昨日書いた横尾忠則の発言って、多分、絵を描く時の「心構え」のようなもので、それは下地のようなもので、心意気のようなもので、、、といくら書いても書けない気がするけれど、とにかく「描く!」というときの動機に「金」を絡ませないとか、もっと(衝動的かどうかわからないけれど)やりたいようにやるとか、と書いても何も書けていない気がする。

 例えば結果的にその作品が誰かに認められてお金を生んだとしても、それは「こう書いたら売れるだろう」という意図とは別のところでおこったこと。といってもこれを完全に切り離して作品をつくれる人がどれほどいるかということになるけれど、それでもやっぱり、こういうことを感じ続けながらやる、ということは大事だと思うのだけれど、、、。

戯れ言の箇条書き・159 12.13 「受け手の要請に応えることこそがプロだ、などという場所にいかない」

12 13, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・昨日の夜、電話をして、思ったのは、やりたいこと、というのはお金を得るための手段としてではなく、それは子供の夢と一緒のように、例えば音楽であれば、音楽という言葉に住むことじゃなく、やりたいことを好き勝手にやるというか、だからそれはジャンルとしての音楽ではなく、やりたい音、表現を勝手に、誰に知られずともやる(受け手の要請に応えることこそがプロだ、などという場所にいかない)ということで、食べるために、名を残すために、音楽をやるということとは違うのだろう、と思って、でもやっぱりうまく言葉にできない。

・横尾忠則のツイッターで、若い頃どれだけ貧乏していても、「食うため」に絵を描いたことは一度もなかった。という言葉にふれて、やっぱりそうだよね、と思ったことを、上の文を書きながら思い出した。

・ヴィム・ヴェンダース「パレルモ・シューティング」を今から観る。

戯れ言の箇条書き・158 12.12 「『あほ』と自分にいう」

12 12, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・枠などにはまっていない。と思えてしまうほどに、実は枠にがんじがらめにされている。という実感。

・受け取る側にいる時はそうでもないのに、やる側にまわるととたんに自分自身が自分自身に規制をかける。という実感。

・それを実感したところからの始まり。丁寧に壊す。壊したものを眺める。「あほ」と自分にいう。

・曲をつくるアプローチももっといろいろあっていい。それは別にギターじゃなく、ピアノで、ということじゃなく、ギターにしてもコードの縛りから、進行の信仰を解く。あるいはリズムを先、それから生まれるものを書く。他の楽器もできず、まわりに音楽をやっている人間がいないとなると、セッションしながら曲をつくるとかいう方法は難しいのかもしれないけれど、でもまあ、一人でもそれはやれるか。

・いままで聴いてきた音楽を、聴く側としてでなく、やる側として聴き直すことが必要と思う。例えばカバーを一曲やると、そうかこういうことか、という実感が生まれる。それは聴いているだけではわからなくて、実際自分の身体をとおして演奏してみることでしかわからない。

・五、六年前に購入して手をつけずにいた「千のプラトー」を「リトルネロについて」から読み始めている。わからないものをわからないまま読む、という読書を久しぶりに体験しているけれど、そのわからないものをわからないまま(全くというわけではないけれど)読むということのおもしろさ。それはどう説明していいかわからない。持ってるものを総動員して読むしかない。ということの大変さとしてのおもしろさ。少しづつ読み進めようと思う。

戯れ言の箇条書き・157 12.11 「まさかの翌日渡し」

12 12, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・何冊かを同時に読む。宮沢賢治。保坂和志「アウトブリード」を断片的に読み返す。他。

・中村勘三郎のニューヨーク公演の録画を観る。

・伝統芸能のなかで受け継がれていくもの。のことを考えることは、そうでない他の表現のことを考えることに繋がる。気がする。

・ギターの修理完了したと連絡あり。夜受け取りにいく。彼の身内に不幸がおこりそうで、いつ渡せるかわからないから、ということできのう渡してすぐ作業にとりかかってくれたらしく、まさかの翌日渡し。ありがとう。

戯れ言の箇条書き・156 12.10 「彼が残し得るものもまた——」 

12 10, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・それは眩い太陽の光でもなく、道全体を照らす大きな明りでもない。夜風に踊る小さな小さな灯火。彼をこの場所まで連れてきたのはその小さな小さな灯火であり、彼が残し得るものもまたそんな小さな小さな灯火。

・今日はJohn Coltrane「Live At The Village Vanguard」をヘッドフォンで。大きな音で聴きたい。最近はなんだかこればかり聴いている。

・ギター六弦を7フレットあたりで弾くと音がこもるという症状が何ヶ月か前から出ていたから気になってはいたけれど放置していて、今日ボディーを裏から叩くと明らかに音がおかしいから中を覗くとブレージングが剥がれかかっているのが目視で確認出来てしまうほどで、さすがにまずそうだったから、何度か修理でお世話になっている人の工房へいき、修理の依頼をしたら、結局四カ所ほど剥がれているらしくて困った。

・伝統のかたち。受け継がれるかたち。幾百年という時間。それとは別に伝統とは無関係のように、突発的に、個人的に興ったように思われるものの中にもそれらに先行して「在った」ものがかたちを変えて存在する。そこに受け継がれるのは「かたち」ではない。それは?

戯れ言の箇条書き・155 12.9 「夜迷子の 影のように 淡く踊る」

12 09, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・初雪かき。水気が多く重たい雪。まだスノーダンプを使うほどの量ではないけれど、それでも息が上がる。

・雪が街をすっぽり覆い尽くして、空高く高く積もっていく。月灯りを受け止めるものは真っ白な雪の大地だけ。全ては眠る。眠る。草も、蛙も、人間も、猫も、眠る。

・今日はThe Inpressions「Complete A and B sides 1961-1968」を聴いている。

・考えることは大地をつくることだろうか。その上に何を築いていくのかというのは実践にかかわる。音楽って? という答えの見つからないような問いを見つめる、考える、こと。大地。それがなければ何も育たない。

 音楽をやるということは、実際に曲をつくる、うたう、演奏する、ライブをする、ということ以前に考えることじゃないか。実践する時間の中でしか生まれないものは当然あって、それは実際につくる、うたう、演奏する、という時間の中にしかない。のかどうか。

 あるいは、行為の中で身体が考える、ということもある、という実感。例えばこうして「書く」という行為の中で、同時に考えること。もともと言葉として頭の中にあることの記述ではなくて、指を動かしながら生まれてくるもの。何が出てくるかは指もしらない。

 ——と書きながら思ったのは、ぼくが書いた「考える」というのは「定義」を与える、ということだろうか。ということは言葉を与えるということ。言葉を身体に刻むことで方向を決めるような。とはいっても「こっちだ」ではなく「こっちではない」というようなものかもしれないけれど。よくわからない。


・夜迷子の 影のように 淡く踊る 音の波を 渡る舟を あの航路へと その時は あなたの灯りよ どうか そばに そばに——

戯れ言の箇条書き・154 12.8 「わたくしにもまた、わけがわからないのです」

12 08, 2012 | 日記.戯れ言2012

2

・今日は「トラメシ」をした。とらめしとはつまり、「寅メシ」であり「男はつらいよ」を観ながらご飯を食べること。の意。今日のトラメシは夕飯。第43作「寅次郎の休日」。

・ぼくは「男はつらいよ」を観るたびに、マドンナも綺麗だな、いいな、と思いながら、毎度寅さんの妹、さくらに惚れてしまう。

・「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。——略——これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」 宮沢賢治「注文の多い料理店」序文より。

・宮沢賢治の「注文の多い料理店」の中の何作かをきのう読んで、おもしろくて、わらったり、いいなとおもったり、あらためて彼の「異質さ」を思ったり。その異質さを彼自身は自覚していたのだろうか。序文の中にあるように(引用した部分には書かなかったけれど、わたしは自然から受けること、そのままを書いたのです。自然それを見ていると本当にそういう気持ちになってくるのです。という記述があって)彼は自然からいろんなものを感じ取るひとだったようだ。観る人であり。聴く人であり。嗅ぐ人であり。触れる人であり。その中に溶け込んでいく人であり。彼が森の中でその木々を見上げながら笑っている姿を想像出来るような、、、勝手な思い込みなのかもしれないけれど、そう感じる。

・序文の数行で凄いと思う。凄いよ。

・あとは書くことがない。明日へ繋ぐ。

戯れ言の箇条書き・153 12.7 「ミュージシャンが週六日も働いてどうすんだ馬鹿野郎!」

12 07, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・久しぶりにThe Rolling Stones「Exile On Main St」。

・ラジオから流れてくる各党の公約の演説をたまたまきいていて「景気の回復が何よりも最優先です! 働いても働いても、先が見えない。必死に働いても給料があがらない、若者が未来への希望も持てないようなそんな社会でいいのでしょうか?」と何処かの党首が必死に訴えていたけれど、馬鹿にしてんのか、と思う。

 希望の有無はどうでもいいとして、給料が上がらないとか、先が見えない、なんてことが希望を持てないことの必然的材料かのように語られるのもくだらないし、というか、先が見えることが希望だとして、そんな安定とか、先が見えることが希望だ、なんていうみみっちい考えの若者を増やしてどうなるのだろうか。(やりたいことを考える、ということを避け)安定した収入を得て、その職に就いていれば一生食いっぱぐれがない、というような仕事に就くことこそが人生の目標、至高だなんて考えは軟弱以外のなにものでもないと思うけれど、、、まあそんなことはどうでもいいか。

 どうでもいい、、、とはいっても、自分で野菜を栽培して、収穫し、それを食べ、収入は少なくてもいいから、暮らしていけるだけのお金を得ることが出来て、あとの時間は本当にやりたいことに時間を費やしていきたい、そう考えて生きている人間のことを思うと、せめて、馬鹿にすんなよ、とはいっておかなければ、とは思う。希望ってのは金とか、安定とか、そんなものへ向けられる言葉か? というか、そういう考え方(月の収入がぎりぎりでそれでも生きている実感を得られることを生きる、やりたいことをやる)が出来ない人間ばかりが政治家なんてものに憧れるのだろうけれど、、、。


・こないだ鈴木常吉さんのホームページか、彼の関連の人かなんかの、どこだったか忘れたけれど、あ、CDのライナーノーツだったろうか、忘れた。その中に鈴木常吉さんの友達が彼を語る文章があって、常吉さんはミュージシャンの後輩とその人の店に飲みにやってきて、その後輩が週に六日バイトしている、ということを聞いて、その後輩を叱りつけたらしい。「ミュージシャンが週六日も働いてどうすんだ馬鹿野郎! おれもバイトしてたけど(妻子あり)、週三日だぞ!」と凄い剣幕で後輩を怒っていたらしく、すげえな、と思った。とか書くと「大丈夫?」と思われそうだけれど、彼がやっている音楽の濃さがそういうところ(選択)から生まれてくるのかと思うと、納得せざるを得ないわけ。

 音楽をやるとしたら、音楽に時間を割くしかない(音楽以外の表現でも)。もちろん、そうじゃない時間でも音楽のことを考える(そういう時間も大事だけれど)、ということは出来るけれど、何かをしながら片手間で考えるより、本当にひたと向き合って考え、実際に音楽に触れている時間の重要さ、はひたと向き合うことでしか実感出来ない。けれど、片手間でやっている時は「時間を見つけてやっている」という感覚に陥りやすくて「ちゃんとやっている」という風に考えてしまいがち(これが厄介だ)なものだとも思う。それでは駄目だ、足りない、ということにどの時点で気づけるのか。

 ぎりぎりでもいいから、それ以外の時間をやるべきことと真剣に向き合う時間に使う。ことと、ある程度の収入はあるけれど「やりたいこと」と向き合う時間があまりとれない。どちらがいいのだろうか。どちらがいい、という時の「いい」は社会的にいいか(世間に認められるか)、ではなく、やりたいことへの真摯さの話。

 (何故か「多作」ということを評価する人があまりいないような気がするけれど、多作ということはそれだけ時間をそのことに割いてることのわかりやすい証明だと思う。つくるということの難しさを知っている人間ならば、例えばうたうたいであれば、ディランの曲の数の多さ、それに比例する「音楽と向き合っている時間」の長さに驚くはず)

 鈴木常吉さんなんて「ミュージシャンが週六日なんて働くんじゃねえ!」といってしまう人なのだから、世間体としては最悪だ、と思うけれど、そういうところまでいかないと出来ないことはあるでしょう。やっぱり。そういうことを堂々と言葉にしていえる人は好きだ。ま、世間受けは悪いだろうけれど。知るかっ。


・ずっと不思議に思っていて「将来の夢はなに?」と子供に質問した時に「職業」を答えるのは何でなのだろう、と。最近すこしわかったのは、子供はその姿自体に憧れているのであって、それで「食べたい」わけじゃないんだろう、と思う。だから、「『憧れ』は『お金の外』」にあるのだ、きっと。大人だって同様に。憧れること。子供のように憧れること。夢見ること。凄い!! というものに接した時に、妬み、嫉妬に溺れず、その対象を憧れること。純粋に。「いい大人が何を子供みたいに、、、」なんていうやつらは放っておけばいい。

・あまえている。という言葉もよく使われる。いるんだ、そういう人。でも、どっちが甘いんだろう、と思う。やりたいことを見ないように、考えないように、遠ざけて日々を過ごしていくことはあまいといわないのか? ちゃんとやっている人にいわれるんであればいいけれど。いつまでも逃げてんじゃないよ。ま、これもどうでもいい話。どうでもいい。

・一気に勢いで書いたけれど、今日は酔っていない。

《追記》・鈴木常吉さんのホームページを見たら、深夜食堂の作家さんが漫画の中のマスターのていで書いた鈴木常吉さんのCDのライナーノーツだった。

戯れ言の箇条書き・152 12.6 「ま、確認として」

12 07, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・きのう書いた岡田利規のインタビューでの発言はやっぱり大事だな、と思う。やりたいことを達成させる、それに近づける、ことがまずあるのであって、どう受け入れられるか、なんてことは二の次なはずで、けれどそこが逆転して「受け入れてもらうこと」が何よりも先行したら、というか、そういうことで溢れているのが最近のエンターテインメントの実情なのかもしれないけれどやっぱりそこには興味がわかない。

・何をやっても拒否反応なんてのはうまれるのだし、いちいちそっちの方を向いてそういう人たちをこっちに向かせるなんてことをするより、わりきって進んだほうがいい。

・なんてこともいちいち書く必要もないけれど。ま、確認として。

・「男はつらいよ」第42作、「ぼくの伯父さん」を観る。

戯れ言の箇条書き・151 12.5 「表現したい本質的な部分に対する拒否反応だったら、それについてはどうしようもない」

12 05, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・岡田利規「わたしたちに許された特別な時間の終わり」の半分「三月の五日間」を読む。

・彼のインタビューの記事を読んでいいな、と思った箇所を(彼は演劇の人)。

・「(舞台を)見ていて、退屈したりすると言うお客さんはいませんか?(インタビュアー) いますね(笑)(岡田)。―—そういうお客さんに対して、退屈させないサービスは?(インタビュアー)。 僕の中にあるビジョンを僕自身が達成させられていないことが理由で退屈させてしまっているのだとしたら何とかしなくちゃと思うのですが、退屈されているのが、僕が豊かだと感じているもの、僕が提示したいもの、つまり僕の表現したい本質的な部分に対する拒否反応だったら、それについてはどうしようもないですね(岡田)」

・絵でも、音楽でも、映像でも、そして言葉でも、、、言葉じゃ至れない場所を実感しているひとの方の表現をおもしろいと感じるらしい。

・(上の文章とは関連せず)例えば風景を受容して音楽化する時に風景→言葉→音楽へと変換させるわけではなく、風景から与えられたものは言葉を介在させずにそのまま音楽へと転換される。ようなものに触れているとワクワクする。間に言葉が入るとするとそこ(言葉)から→が向かう「音楽」は「言葉」で説明できることになってしまうのではないだろうか? 

 言葉を挟まずにそのまま音楽に転換させるものは音楽そのものがその光景を現そうとしている(提示する側、受け取る側のレベルにもよるのだろうけれど)のだから、音楽を聴いてそのまま風景が浮かぶという体験も起こる(かもしれない)。「歌」はそこに「言葉」を挟まざるを得ない。——というのも思い込みに過ぎないのかもしれない。どうなのだろう。意味ではなく、対象をそのまま喚起させるような「歌」というのはどういう形をしているのか。あるいは、意味を持たせない歌。


・きのう書いた「俯瞰できるもの」というのは例えば見終わった後に、この場面は全体でいえばこういうところだ、という説明をつけることが出来る、という意味で、それは言葉で把握できてしまうということ(か?)。説明できるとか。

 映像の監督という立場の人でいえば、その人は始まりから終わりまで全て見通せていて、今撮っている場面が全体においてどのような位置にあるか、ということを把握できているということ。当たり前だろ、というかもしれないけれど、本当の意味でライブに没頭していると、今の自分が(ライブ後に全体を俯瞰した時に)どこにいるのかということがわからなくなる。そのまっただ中に居ると、、、。というようなことが起こる。

 俯瞰できない位置にいるということは次に何を出すか、あるいは何が出るか、は、事前の段階での自分には把握できず、その判断は、その場面にいる自分に任せるしかない。見ている人間にはそんなこと関係ない、という人もいるのかもしれないけれど、ライブをやっている! という実感をぼくが得られるのはそういう状態にある時で、そういう状態にいる時はとてもワクワク(と同時にハラハラ、もっというと、どうなるの、これ? どう収拾をつければいいの? と迷うような)している。そういうぼくを見て楽しんでくれる人たちも少ないけれどいる。そういうことがしたい。


・ここ一週間ほど頭がさっぱり働かず(と感じている)、今日も考えてというより、勢いに任せて書いてしまったから、読み返すのはこわい。けれど、それはそれで。

・ショーン・ペン監督「イントゥザワイルド」を観る。


追記

・言葉で把握出来るということか? というのは、要約出来るということだ。とわかった。要約=俯瞰。か?

・スモーキー・ロビンソン「Love Songs」を聴く。

戯れ言の箇条書き・150 2012.12.4 「とか書いても具体的に何を、はさっぱりわからない」

12 05, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・言葉にするたびそれは死んだ。形を与えるたびそれは死んだ。姿を見ようとすれば、それはもう別の何かで、違う誰かだった。ただ形を留めず止めどなく揺れ動くときだけ「それ」は「それ」であって、ぼくはそれを「読む」ことが出来ない。「聴く」ことには少し近いのかもしれない、、、。

・現時点で音楽を聴く側としての態度——俯瞰を拒む。一つ一つ繰り出される音のそのままを受け取る。

・音楽をつくる側として態度(というか最近気づいたこと。実践は遠い)——同様に簡単に俯瞰を許すものをつくらない。という場所にいくこと。曲の構成という縛りから。の逸脱。

・とか書いても具体的に何を、はさっぱりわからない。聴く側としてのそれは今までもそうしていただろうけれど、つくる側としては、、、。そもそもコード楽器で歌っているわけだし。難しい。

Next Page »

RSS
プロフィール

harunobiwonder

Author:harunobiwonder
松沢春伸の日記

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ