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戯れ言の箇条書き・115 10.31 「着物を着た二人の髪の長いオカマ」

10 31, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・着物を着た二人の髪の長いオカマ(というよりほとんどおっさん)が注文したホッケを二人が座るカウンターに運び、取り皿と醤油も渡した。二人が皿に醤油を注いでなめると、それは醤油ではなく墨汁で、二人のうちの偉い方のオカマ(この一帯を仕切っているらしい)にこっぴどく怒られた。その歯は墨汁で黒く染まって汚かった。——という夢で目覚めた朝。

・十時の一服の時点でHさんは足を引きずっていて「ダメだ、薬のまんなねな〜」といって車の中でご飯を食べていた。痛風の薬は食後にのむものらしい。

・畑の近くの家ではもう既に雪囲いを終えている家もある。早いなと思うけど、この地域は雪が降るのが早いのかもしれないし。やっと庭木も紅葉し始めてきたのに雪囲いしてしまったらそれを眺めることも難しい。まあ業者の都合もあるだろうし仕方がないか。

・実は朝顔というのは秋に盛りを迎える花らしく、近所の家の壁には今も(さすがに数はへっているようだけど)朝顔は咲いている。
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戯れ言の箇条書き・114 「はいはい、終わり、終わり」

10 30, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・昼近くにもなれば光は射してきて、昼食後は「暑い」とさえ感じるほどで、久しぶりに半袖で仕事をした。気温はそれほど高くもないのに。以前いっしょに働いていたきくっつぁんが「こういう日はよ、やっぱりお天道様のありがたみがわがっべ? 『様』ってつぐのわがっべ?」っといっていたのを思い出した。その日も同じような陽気だった。

 それでも三時を過ぎると風が冷たく感じるようになって、長袖を着始めるぼくから三十メートルほど離れた場所で、Hさんは風に揺られて落ちたリンゴを草の上に座りながら丸かじりしていて、めんこいなと思った。

 仕事おわりに足を引きずって歩くHさんに「何、けがしたの?」ときくと「んね、痛風の始まりだ」といった。「こないだなったばっかりだべした」「んだ、んでもよ、わがるんだず。始まんのが」「薬は?」「薬はあっから大丈夫だ、こないだもらってきたやづ、だい〜じにとっておいでっからよ」。処方してもらった薬をのみきらずに、起こるであろう次の発作のために残しておいたらしい。

 話しながら、Hさんは落ちたリンゴをいくつか拾い、両手に抱えて足を引きずりながら歩いた。「リンゴはやっぱり皮がらみ食った方がほうがうまいずね?」というと「んだ」とHさんはいった。それから「ひっひっひ」とHさんは笑った。


・日記というものの良さは推敲を重ねる必要がない、というかそれをやっていたら次の日の日記が書けなくなってしまうということ。

 曲づくりは一日で一曲を完成させられるようなものではないから(そういうことが出来る人もいるだろうけれど)つくったものを吟味し、破棄し、落ち込み、放り投げ、最初から書き直す、とか一日では終わりを迎えることの出来ない作業。日記はそれをやっていたら日記にならない。

 日記はある程度インプロヴィゼーションに任せるようになるというか、勢いで書いてそれでよしとする他ない。誤字脱字は訂正するとしても。内容の濃さよりも場当たり性や「もうこれでOK」とする「潔さ」みたいなものが必要になってきて、とりあえず「ここで終わり」と決めるしかない。この「終わりを決める」というのは実は結構難しいことで曲作りにしても実は「終わり」というのはなく、いじろうと思えばいくらでも修正出来る。

 「はいはい、終わり、終わり」とある意味強制終了をする、というのは訓練のようなもので、「いつまでもそれに時間を費やして、うだうだやっているんなら、次、次」という心構えを持つために必要なことのようにも思う。とはいっても曲作りをそういうものにしたいという気持ちはない。どっちもあっていい。昨日書いた短い短い曲をつくる、というのはそういう訓練のようなもの。


・ここまで書いて夕飯を食べる。思いがけずドリフを見て、いろんなことが浮かんだ。余白のこと。マニュアルのこと。

・アマゾンに注文していたRay CharlesのBOXセットが届いたので聴いている。八枚分で千円いかないというのは安い。けれど、そこにはやっぱり思い入れのようなものは生まれない。必死にバイトしてためた金を使い込んで買ったCDとかに比べると、、、。困ったものだ。

戯れ言の箇条書き・113 10.29 「ようこそ2mm先のぼく。そして、」

10 29, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・祈りを舞踏に。

・酔っぱらいの唄うたいが二人。と眠る女。始発電車の光景。

・鳥の声と迎え酒。

・短い短い曲。日々のメモのような曲をたくさん書こうという思いつき。これは日本語で。

・今回のライブで初めて意識的に試みたこと。ライブという舞台に上がる、挑む、のでなくライブという舞台をこちら側に引き寄せる(それは客を、ということじゃなく)。あそびおどるように、ひとりうたうときのように、ちいさないのりのように。

・昨日はうたっているあいだずっと身体が喜んでいるのがわかった。久しぶりの感覚。あの場所にいれたことへの、それを見届けてくれた人たちへのお礼。どうも。

・また少し何かに触れた。指先で。掴むことはできないが。でも、触れた。ようこそ2mm先のぼく。そして、またきみを追い越していくからよろしく。

戯れ言の箇条書き・112 10.28 「基本的には『奉納』なんですよね」

10 28, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・今宵歌う。夢人で。どんな夜になるでしょうか。わかりません。

・「アルテス」の中の言葉たちに勇気をもらっている。特にこの部分。三輪眞弘の言葉。

・「つまり、音楽なり芸術的な表現というのが『一体誰に向けられているものなのか』というところです。少し話しましたけれども、少なくともつまり震災とか、被災者の人にたいする『癒し』というものがどうしておかしいのか、なんとも変なのかというのはさっきはメディアのひとつの問題として説明したわけですけれども、もうひとつは宛先がちゃんとあるというところなのです。つまり、その人たちが喜べばいいとか、その人たちのためになればいい、というふうに芸術表現を考えることはひじょうに無理がある。というか、そうだと芸術にならないんだと思います。

 芸術というのは、僕の独特の言い方なんですけど、基本的には『奉納』なんですよね。神に捧げるものなんです。音楽でいえば、『聴衆』というのは基本的にはそれに立ち会う人であるわけです。クラシックのベートーヴェンのコンサートで、ピアノを弾いている人は基本的に僕ら聴衆に向けているんじゃなくて、それはプレイヤーが神に奉納しているのです。その場に居合わせるというのが芸術——僕が考える芸術としての音楽の形態だと思うんです。

 という意味で、けっしてピアニストは聴衆に向けてピアノを弾いていない、という点が僕にとってはとても大事なところです。もし僕に向けた演奏だとしたら僕が喜ぶか喜ばないかがすべてになるだろうし、笑わせてなんぼみたいな話にすぐになってしまうんですね。そのへんの定義というのは、僕はすごく大事だといつも考えています。

 つまり、相手というものは『人間ではない』ということです。または『死者』や『まだ見ぬ子供たち』を含むある広がりということです」——「アルテスvol.1」p73より引用。

・ずっと考えていたことが他の人の言葉(もちろんぼくはこんなに的確な言葉にはできないだろうけれど)によって表現されていて驚く。と同時に感動する。同じような考えを持っている人間が周りにいなかったから不安だった。でも、誰かひとりのこういう言葉に出会えたらそれでやっていける。やっていかなくちゃいけない。

戯れ言の箇条書き・111 10.27 「またイメージに頼った話」

10 27, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・五時前に河原について芋煮客が多いかとおもったら誰一人いなくて芋煮の集まりはどうやら先週がピークのようだった。それともぼくが来る夕方前までは芋煮客で溢れていてもうすでに片付けを終えて帰ってしまったのかもしれない。場所取りのためのビニールテープが貼られている場所は一区画しかなかった。いつもぼくが車を止めるのはそのずっと奥の方で基本的にあまり人は来なくて、出会うとしても、たまに犬に連れられる人。一度だけ下校途中に川に泳ぎにくる高校生。たまに釣り人。それから狸。よく会うのは白サギくらいのもの。

・満月には至らない月。月明かりの中うっすらと見える星。流れる川。川の縁を通り過ぎる影。狸だろうか。橋を渡る車のライト。その中でうたう。いい夜だ、本当に。

・そういえばこの間「狸祭」で歌うために前日の夜、会場の「うつくし森」に移動してる途中「うつくし森」のすぐ手前で道路に飛び出してきた狸をひきそうになってビックリした。のを思い出した。「狸祭」にいくというのに、、、。無事通り過ぎてくれて良かった。本当に。

・人のいない工場から昇る煙。システム。またイメージに頼った話。システムをつくったのは人間のはずなのにいつ頃からかそこに人間が必要なくなってしまって、工場は工場だけで稼働している。だから、システムを壊す時に「特定の誰か」をやっつけたとしてもそれは止まらないのではないか、というイメージ。例えばラスボスがいて、それをやっつけたらハッピーエンドというようなものではないのではないか。誰かを糾弾して、そいつらを退ければ何かが劇的に変わるというものでもなく、その根底にはもうほとんど人間とは離れた場所で稼働しているものがあるんじゃないか。だったらそれを変えていくには? というのは全然まだわからない。わからないからどうしたもんかね、と考える。しかない。

戯れ言の箇条書き・110 10.26 「到底掴めそうにない」

10 26, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・今日の音楽はPercy Heath「A Love Song」。徐々に満月に近くなる月。公民館の調理室の灯りが点いていて揺れる人影。窓に反射するランタンの灯り。

・何かを「わかっている」から表現するのではなく「わからず」のまま手探りで、文字通り手探りで進むしかないというときの、その手の動きのためらいや、迷い。それがそのまま表現であってだからいつまでたっても「わかる」ことが出来ない。ある瞬間の「わかった」という感覚もすぐ遠くにいってしまう。ぎりぎりと伸ばしたその指先にかすかに触れる何か。到底掴めそうにない。

・たまに出会う「すごく論理的でこれを書いた人は頭がいいんだろうな」と思わせられるような文章。でも何も残らないというような文章。多分それは足りないからなのだと思う。論理なんて破綻してもいいからそれでも伝えたい何かがあるんだ、という何かが。そういうものを感じ取れる文章は論理が破綻していようが、整合性に欠けていようが、何かをその中にかんじることが出来たりする。そっちのほうがずっと重要なことだと思うのだけれど、、、。

・今日は「独りごと祭り」か、というくらい独りごとが溢れてきた。端から見たら気持ち悪いに決まってるだろうけど、こういうの必要。

戯れ言の箇条書き・109 10.25 「Hさんは車から降りてきて『は?』という」

10 25, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・久しぶりにArt Blakey「A Night At Birdland vol.1」をかけている。本当はNina Simoneの歌うブルースアルバムが聞きたかったのだけど見当たらない。誰かに貸したままなのだろう、きっと。

・ブログというものが「他」に向けて、読んでくれる人たちに向けて書かれるものだとすると、ぼくの書くこれはそういう感じが薄い。外へ向けて書く、という意識を完全に消し去ることは難しいけれど、出来ることならそうじゃなく書きたい。だから拍手も消した。毎日引き出しから取り出され、文字を刻まれてまた引き出しへ戻されるノートに書かれる文章のように誰に向けられるでもなく、自分の中へ向かう。そういうものを書きたい。といいながらこうして公開しているのだから矛盾しているといわれればそうなのだけど。このあいだ友達に「読んでる人いるみたいですよ〜」といわれたけれど、やっぱりそれはぼくにとってあまり関係ない。読んでいる人がいるとか、その人数の増減に関わらず、毎夜引き出しにしまわれるノートのように書き続けたい、と思う。

・畑に着くと雨が強く、仕事開始の十分ほど前に園主の奥さんが車で畑に来て「雨強いし、昼から雷がくるから今日は休みにしよう」といって「んだね、休むびゃ〜」といって今日は休みになった。

 その時にはまだHさんは来ていなかったから「今日は休みらしい」と伝えるためにHさんが来るまでここで待ってる、といってぼくは畑に残って他の人たちは帰っていった。山際の道路を走るHさんの赤いワゴンRが見えたから、ギターを弾くのをやめて、田んぼ脇に駐車するHさんに向けて窓越しに指でバツをつくって「今日休み」という合図をしたけれど伝わらず、Hさんは車から降りてきて「は?」というから「今日休みにすっべど」といってHさんは「んだが」といった。

 何日か前にも同じように強い雨が降って休みになったことがあって、Hさんに「今日なにすんの?」ときいたら「朝から呑むべした〜」といってその次の日Hさんは仕事に来なかった。それで今日も「今日はなにすんの? 朝から呑むんだべ?」と聞くと「んだ、んでもこないだ朝から呑んだらわげわがんねぐなってよ〜、今日はなにすっべ」というから笑った。

 園主も一緒に働く人たちも携帯というものに頼る人ではないから(携帯を持っているとしても使わないし、一人は持っていない)、事前の連絡という概念がそもそもない。今日やる、か、今日やらないかはその場所にいってみないとわからないという、とんでもなく手間も時間も金(交通費)もかかってめんどくさいけれど別にぼくはそれが嫌いじゃない。むしろ一旦外にでてしまったからどうせなら、と、あてもなく車を走らせたり、河原にいってギターを弾いたりして、何かしら思いがけないことに出会えたりするからそれはそれでいい。とてもいい。朝にぎったおにぎりを食べて、お湯を沸かしてみそ汁を飲んで、河原に佇む一羽の白サギを眺めたりする。

・今日は朝をぬかしてはほとんど晴れていた。まあ、いいよ。

戯れ言の箇条書き・108 10.24 「ということを昨日書こうとしたわけじゃないのだけれど」

10 25, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・誰にも知られることなく死んでいくということに対しての「こわさ」とも呼べるような感覚、あるいは自分が生きていることを一人でも多くの人に知ってもらいたいという感情、を多くの人たちが持ち始めるようになったのはいつごろなのだろうか? 具体的にいつの時代というのは想像がつかないけれど、電気の普及、ネットの普及は、それに深く関係しているだろうという想像。ネットや携帯での「繋がり」に対する過剰な執着をみるとどうしてもそう思ってしまう。それ以前の時代では誰にも知られず死んでいくこと、なんてのは当たり前だった訳で、会ったこともない人間が自分の存在を知っているなんてことはまずなかった。よほど何かに秀でている数少ない人間達くらいのものだったはず。

 なにがいいたいか今日も分からない。異常に眠い。けれど、ネットを通じていろんな人と「通じている」「繋がっている」と思うところの「通じている」「繋がっている」は「錯覚」じゃないか、とは思う(そうではなくて「繋がる」という言葉のもつ意味が変容を迫られていてもうすでに「繋がる」には、ネットでの繋がりのような「広く浅い」ものも含まれるようになっているのかもしれないけれど)。

 随分と前の時代に生きた人間がいて、その人が死んだとして、その人は世に名を残すこともなく、大勢に知られることもなく死んでいく。でも、その周りで暮らしてきた人達はその人間のことを何かあるたびに話す。「あんな馬鹿な奴はいなかった」「あいつはおんなたらしでどうしようもなかったけれど、あれはあれでいい奴だったよ」「あいつが酔っぱらって道ばたに寝てるのを見たよ」「あいつが子供の時はそれはくそガキで手を焼いたもんだよ」とその死んだ人間の話をすると誰かがその話に乗ってきて、人が集まってくる。というようなイメージ。あくまでイメージでしかないけれど。そういうことが想像できて、その人間が「生きていた」ということをその人間を直接しらない人間もまた「そういう人がいたんだね」と思えるようなこと。ぼくにはそいういうことがネットだけの繋がりで起こることをイメージできない。


・ツールが人間の内面を変えていく。人が道具を生み出して、生み出した道具によって今度は人間が変容していく。

・ということを昨日書こうとしたわけじゃないのだけれど。

戯れ言の箇条書き・107 10.23 「ただの郷愁にならずに、『今この時』に過剰を過剰と断言すること。の難しさ」

10 23, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・例えばこのブログの広告を消そうと思ったときに「この広告を消すと更新の速度がおそくなります」などという文章が出てきて、これって単純に脅しの一種だろうと思う。いちいちそれに正直につきあって「えっ、遅くなるんだったらそのままにしてようかな」なんてやってたらそいつらの作戦にまんまとひっかかることになる。実際広告を消してみても特に遅くなったとは感じない。こういう便利さを盾にした脅しみたいなものが社会に溢れていて、そこに騙されてちゃ馬鹿らしい。過剰なものを過剰だと認識できる冷静さを取り戻さないと。

 とはいってもこれが普通という環境で育ってしまったぼくらよりもっと若い世代の人間はこれを異常だと感じることはないのだろうか? というよりぼくがこうやって書く行為だって親父の世代からみればもう既に異常なのだろうし。それでも、ただの郷愁にならずに、「今この時」に、過剰を過剰ということの難しさ。


・不安、迷いをそのまま抱きながらも、媚びることなく、屈服することなく、群れることなく歩いていくための勇気を与えてくれる数少ない未だ見ぬ友の足音を聴きながら今日も進む。いてくれてありがとうと、誰かに向けていいたくなる。

・今日は何をかけようか迷って、これは音楽を聞きたくないということだ、と気づいたけれど、それで手が伸びたのがオーティス・レディングだったのでかける。夕飯を食べてそこからマディー・ウォーターズの「folk singer」に移る。

・書きたいことというより、自分で確認したいことがあって、だから書くという行為を通してそれを確認しようかと思うけれど、それを書くには時間がかかりそうで今日は眠気が勝っているから別の機会にして、ギターを触って眠ろうかと思う。

戯れ言の箇条書き・106 10.22 「客商売はもういいや、とおもって降りることにして」

10 22, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・最近はっきり、強く思うこと。「うたう」ということが「客商売」だと思っているとしたらそもそも向いている方角を間違えている。うたは「客」に向かってなされるものではない。それはエンタテイメントと呼ばれても、芸術ではない。

・ぼくが「まだ見ぬ友」という時のそれには既に死んだ人間も含まれていて、まだ生まれていない人間も含まれている。一度も会うことのない友。それでいい。死んだ人間の鳴らした鐘は誰かへと引き継がれ今も鳴り響いている。

・客商売をやっていた(雇われだけど)時期が何年かあって、その時は「どういうことをしたら喜んでくれるだろう」と考えたりもしたけれど、客商売はもういいや、とおもって降りることにしてからはそういう風に考えることをやめた、というより減った、というよりそこに頭を使う必要がなくなった。好きなようにやればいい。好きなように振る舞って、歌って、嫌われたらそれでいいし、受け入れられたらそれもそれでいい。というよりそもそも客商売をしてるときでもそう考えることは可能だけれど、雇われの身でそう考えることは難しい。ただ今になって思うのは、百人いたら百人を客として獲得しようとしてるような表現や店には興味がないということ。金のサイクルに絡めとられることなかれ。そこからはみ出して考える。

・昨日は車の中で眠った。家の駐車場で。階段をのぼれないほど酔っていた、という訳じゃなくて「あえて車で寝よう」と思って寝た。車には簡易畳が敷いてあって、寝袋も常に用意してあるからどこでも眠れる。家にいるのに車で眠るという体験は初めてだった。狭い空間で灯りをつけているとそれだけでいろいろな考えが頭をよぎっていってそれがおもしろい。ぼくのたびぐるま。

戯れ言の箇条書き・105 10.20 「と書いたのは夕方で」

10 20, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・側薬にマッチを擦り火をつけてランタンの芯に近づけても火は移らずマッチは消えた。燃料タンクを揺すると灯油切れらしく、燃料ボトルから灯油を注いでもういちど試すとランタンに火が灯る。上弦の月は南向きの窓から見ると、時計の短針でいえば一時と二時の間くらい。窓を開けていてもまだ寒さは感じない。大通りを通る車の音が途切れることなく聞こえる。遠くのほうから。

・と書いたのは夕方で、もう既に月は窓から見えない位置に移動している。

・今日はもう切り上げて、曲作りに時間を割くことにする。

戯れ言の箇条書き・104 10.19 「『鐘を鳴らしに』と男はいった」

10 19, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・ドアを開けると砂漠だった。驚いて部屋の中に戻る。雨(おそらく雨)が床板をノックし続けている。その音に耳を澄まし、目を閉じる。リズム。覚えのあるリズム。目を開けるとわたしは大通りの真ん中に立っている。通りを歩く人々は皆その目を閉じたまま行き違う。遠くから汽笛のうたが聞こえてきて、その方角に目をやると、わたしは既にその汽車の座席に座っている。古くさい、埃の匂いがする。むせそうになりながら、向かいの席に座る帽子を深々とかぶり、顔中に白髪まじりのヒゲを生やした男に「どこに向かっているのだろう」と聞くと「鐘を鳴らしに」と男はいった。

・引用。——「被災地の子供たちが『津波ごっこ』とかやっているでしょう。神戸のときにも『地震ごっこ』とかあったし、それから一九九七年の『神戸連続児童殺害事件』のときも、その地域の子供たちは自分が犯人や被害者を演じる遊びをやっていた。大人からみると、そんな恐ろしいことを遊びにしたりして、と眉をしかめるかもしれませんが、僕はこれがある意味で『癒し』のプロセスだと思うんですね。正視できないほど恐ろしい経験を、虚構として反復するということが。——略——場合によってはその恐ろしい経験をもういちど別な形で、つまり虚構化や象徴化をとおして、いわば安全な形で追体験することも必要とされるのです。」——吉岡洋「アルテス vol.1」p68より

・本当の「癒し」は強烈な体験だと思う。と昨日書いたけれど、やっぱりそう思う。意味の幅が広い言葉だからこれを語るのは難しいけれど。何の気持ちの揺れも起こさない予定調和な音楽を聞いて「あ〜癒された、癒された」などと世間で流通する意味での「癒し」。誰かがいうところの「麻痺させるだけ」のもの。と、上で語られている「癒し」は同じ言葉だけれど、その二つを同じようにあつかうことは出来ないだろうと思う。

・いつも畑に現れるにゃんこ先生は茶虎で、今日黒と茶色の混じった虎縞の猫をはじめてみた。にゃんこ先生の家族だろうか。この黒茶虎も最初の茶虎と同じように、にゃんこ先生と呼ばれるだろう。先生が増えた。しぇんしぇいが二匹になった。

俺うたう。うたうんだ、俺は。うたをうたう人だから。

10 18, 2012 | Liveのお知らせ

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・10/28(日) 仙台 居酒BAR 夢人
Start 20:00 Charge¥1000(ドリンク別) 共演 少太
仙台市青葉区中央1-7-18 日吉第一ビルB1F TEL 022-266-7505

居酒Bar夢人

いろいろと曲を書いたり、迷ったり、迷ったり、迷ったり。そんな日々。
それで、こないだまでに間に合わなかった曲をここで歌います。
久々に夜に歌えるということで非常にわくわくしたりする。
少太兄やんと一緒です。
夜のうた。
どひゃ〜ん! うりゃ〜! とやります。、、、と思います。

戯れ言の箇条書き・103 10.18 「それがぼくの態度です」

10 18, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・田んぼの前。車の中でギターを弾くぼくの右側を何かが通り過ぎて、稲を刈り終えた田んぼに降り立ったそれは一羽のアオサギ。しばらくギターを弾くのをやめてアオサギの姿に見とれながらコーヒーを飲む。時々、河原で浅瀬に立つ一羽のシロサギに会う。魚を捕まえるでも、何をするでもなく、ただただじっと立つシロサギ。一羽。やっぱり一羽というのがいい。

・「歩いても 歩いても」という曲があってそれをどう受け取られようが別に構わないのだけれど「頑張りましょうソング」ではない、ということは、いっておかなければ、とは思う。

・ずっと前から、その頃はやり始めた「癒し」という言葉に違和感を持っていて、同時に「癒しの押しつけ」に嫌気がさして、それに関することを何年か前(ブログを始めるよりずっと前、ライブを始めるずっと前)に文章として書いたことを思い出した。夜中、仕事から帰ってビールを飲みながら書き始めて、結局眠れなくなって布団の中で朝まで書き続けた。

 ぼくの音楽で「癒される」と感じる人がいるのかどうか、そこには全く興味がないし、いたらいたでそれでいいとは思うけれど、これもいっておかなければならないから書くと「誰かを癒すつもりなんてさらさらない」し「癒しなんてくそくらえだ」。それがぼくの態度です。ましてや表現する側の人間が「これは癒しです」などといって誰かに提示するなんてのは本当に馬鹿げていると思う。——と書いてその何年か前の文章にも同じようなことを書いていたのを思い出す。変わってない。

・何年か前の文章には、おそらく日本の女性ジャズシンガーのことを書いたのだと思う。シンガー本人は「癒し」など提供するつもりがなくても、宣伝する側、売る側は「癒しのなんたらかんたら」というコピーで売ろうとする。本人がそのコピーに対して怒らないのだから本人も「癒し」という言葉に対して自覚的でないのかもしれないけれど「癒し」なんていう言葉で片付けられるような生易しい音楽じゃないのに、と思った。というようなことを書いた記憶。本当の「癒し」という体験はもっと強烈なはずだ。ということも書いた気がする。

・——と、ここまで書いて、飯をくって、新聞のテレビ欄を見たらBSで九時から「ダウン・バイ・ロー」やるじゃありませんか。ずっと見たくて、でもどこのビデオ屋さんでもおいてなくて、それならば買ってしまえ、買おう、と思ったのは随分前のこと。いいタイミング。録画して眠る。

戯れ言の箇条書き・102 10.17 「リンゴは刻一刻とその色を染めている」

10 17, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・漠然としていたものが「考え」と呼べるようなものとして定着、身体に刻まれ始めていると感じるのは、毎日こうして書くという「修行」をしているからだろう。出来ることをやるのでなく、出来ないことをやる。難しいことをやる。やり続ける。ぼくにとって「書く」という行為はそういうものだ。即修行。そういう日々を通してしか見えて来ないものがある。今の自分の2ミリ先の自分。との出会い。少しづつ、ゆっくりでいいから進んでいくこと。

・「才能」という言葉は「才能があるからこの人には出来るんだ」「だから才能のないわたしには出来なくて当然、よかったよかった」という認識を自分に押し付けて納得しようとして結局は何もしない人がよく使う。それは「ボブ・マーリーは神様だから出来たんだ」と崇める姿勢と変わらない。もっと大事なことがあるでしょうに。太郎ちゃんなら何というだろう。決意? 覚悟?

・上手いだの、下手だの、才能だのと、うらやんだり、ねたんだり、落ち込んだりしてる時間があるならさっさと修行。われわれがちんたらやり過ごしている間にもリンゴは刻一刻とその色を染めている。

・以前書いたけれど吉本隆明は「十年」といった。やるしかない。

戯れ言の箇条書き・101 10.16 「なにもでない、ことばのかけらさえも。ねむろう」

10 17, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・「If you want me to stay」一曲のエンドレスリピート。身体に刻む。 

・二日間会わなかったリンゴ達はだいぶその色を変えていた。収穫された木もある。二日という時間の長さ。

・なにもでない、ことばのかけらさえも。ねむろう。

戯れ言の箇条書き・100 10.15 「繋いでゆけ、その果てまでも」

10 15, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・三人の子供達よ。大地を蹴れ。小さな足を踏み鳴らせ。その生まれたての小さな小さな足音を世界に刻みつけろ。遥か遠くの誰かからわたしへ、わたしからあなた達へ、あなた達からまだ見ぬ誰かへと。繋げ、繋いでゆけ、その果てまでも。いずれやってくる誰かが彼らの夜の中で迷ってしまわぬように。その暗がりの中で立ち止まる時、鳴り響く足音と共にもう一度足を前に踏み出し歩いてゆけるように。踏み鳴らせ。足音を。あなた達が鳴らした足音は消えない。それらは続いてゆく。それらは終わらない。それらは死なない。

・雲隠れの星。揺れる炎。風に舞う灰。静寂を裂く木々の爆ぜる音。白猫。ホットラムと砂糖。焚き火台に置かれたケトルの口から立ち上る湯気が冷たい空気に溶けていく。二日目の夜。

・Gillian Welch(ギリアン・ウェルチ)「Soul Journey」を聴いている。潔い。録音方法の選び方一つでも何かを提示することが出来る、それだって表現の一つだ、ということを感じさせられる。録音されたものをコンピュータでいじくり回す、という主流に対しての抗い。音楽をする、ということはそういうことを考えることも含めている。

・「歩いていけるって、大丈夫だって、思えたよ」「どうして」「足音が聴こえたから」「ぼくにも聴こえるだろうか」「耳を澄ます、それだけさ」


戯れ言の箇条書き・99 10.13 「全部綻びてないといけない」

10 13, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・狸祭。焚き火。酒。焚き火。そして酒。あと、歌も。

・以下「アルテス 創刊号(2011.winter)特集『3.11と音楽』」高橋悠治のインタビューより。

・「それはいわゆる『癒し』とはちがうものですか(インタビュアー)。——違いますよ。癒しは麻痺するだけ。これもよくいわれる言葉には違いないけど、癒されるのではなくて何かに目覚めるわけですよ。いままでになかった何かを見つけるということ」

・「われわれの言葉はすでに資本主義化しているんですよ。どうしても力とか利益とか方法とか理想とかいわなきゃ話にならないわけでしょ。だから言葉から変えていかなきゃならないと思うけどね。でもそれはなかなか難しいです」

・「(話を)きちんとまとめるというその態度、それが体制だと思う。全部綻びてないといけない。思想なんて断片じゃなきゃいけない。そんなに整然と隅から隅へと矛盾のないものが権力をとったらどうなりますか? それはすごい危険なこと。だから隙間だらけで、説明がつかないことがいっぱいあって、矛盾だらけで、不完全である。(略)完全なことがいいということは、神がいちばんだということでしょ。それは間違っているんですよ」

うた〜う。階段の四段目で歌うように。

10 13, 2012 | Liveのお知らせ

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日曜日にうた〜います。
狸祭。
告知が遅れましたが別に謝りません。

歌って飲みます。
飲んで歌って、二日酔いになります。

家の階段の四段目で歌うのが好きで、たまにはそういうライブがしたい。日常の延長。そういう歌。

狸祭

戯れ言の箇条書き・98 10.12 「一瞬、虎かと思った」

10 12, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・「あなたは社会にとって役にたたない人間だ」といわれて笑う人間でありたい。苦笑いでなく、ちゃんと笑う人間で。ぼくがやろうとすることなんて「何の役にも立たない」。役になどたってたまるか、と思う。だって、、、というのは昨日書いたからもう書かない。「役にたつかどうか」なんてことばかりに気をもんでいる人間は、多分、表現する、ということにそもそも向かない。

・堂々と真っ正面から「役に立たない」ことをやる。買収されることなかれ。「何かの、誰かの役に立つことはあるか」などと考えるより、後からやってくるだろう同じような迷いを抱いて歩いている人間達にちゃんとその「役に立たなさ」を見せてやることの方が重要。

 「大丈夫、おれ『全然何の役にもたたないこと』をやり続けてるけれど、ちゃんと生きてるよ、そっちの方が大事。大丈夫」と、そういう姿を見せること。だって、そういう奴らはやっぱり少ないのだから。少ないから、周りに自分と同じような迷いを持つ人間がいないから「本当にこんなことしてていいのだろうか」と迷う。そういう時に「役に立たないこと」を堂々とやっている馬鹿な人間が周りにいたとしたらきっと勇気づけられるだろう。ぼくだってそうだったのだし、そうやって誰かに勇気をもらったのだから、それを繋がないと、と思う。馬鹿の連鎖。いえい。

・堂々と、馬鹿で結構。結構毛だらけ、猫灰だらけ、尻の周りはクソだらけ、だ。

・寅さんに会いたくなる。寅さんだってそうか。何の役にもたってない。けど、そういう人間にしか出来ない何かはある。、、、ある。

・にゃんこ先生、Hさんの発音に正確に書けば「にゃんこしぇんしぇい」。今日にゃんこ先生はコンテナとコンテナの間に身体を丸めて寝ていて、そこに収穫したリンゴを運ぼうと、コンテナ脇に停めてあったトラックの荷台に歩み寄って(にゃんこ先生の存在に気づかず)思わず目が合ったぼくを警戒しながら野生の目つきで睨む。一瞬、虎かと思った。

戯れ言の箇条書き・97 10.11 「特別なことはなく、ただ何かを日々紡いでいくということ」

10 12, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・単純なこと。「社会に貢献する」というときの社会が「資本主義社会」なわけだから「金」を生めなくちゃ話にならないよあんた、ということか。「社会に貢献できる人材をつくる」というのは、だから「金」ということ。イメージがはっきりした。ぼくみたいなのはそれに何の貢献もしない人間。いえい。

・一つのイメージ。——彼は死ぬまでずっと小説を書き続けた。彼にとっての時間とはすなわち小説を読み、小説について考えを巡らせ、小説を書き、書きあぐね、いつ終わるともわからない言葉を紡ぎ続ける、そんなものだった。彼は生前、自作を発表したり、誰かに読ませるようなことは一度もなかった。というより死んでなおそれを誰も知らない。——というイメージのメモ。

・今の時代は何かをやると「何のために?」と問われる。けれど、上に書いた男には「何のために」などという理由はどこを探しても見当たらない。知られるためにでもなく、名誉欲を満たすためにでもなく、金のためにでもない。ただただ書いた。ただ、ただただ書いたのだ。(あるいは世界の生成のために)

・「練習」と「本番」。思い返せばライブを「本番」と考えたことは今まで一度もない。ということだった。なるほど。というより「本番」のためになされるものが「練習」であるという考えが少し違うか。「本番」を持たない「練習」。そもそも「本番」なんて考えを取っ払った方がいいのか。特別なことはなく、ただ何かを日々紡いでいくということ。それだけでいいのかもしれない。

戯れ言の箇条書き・96 10.10 「黙々と煙を吐き続け、奇妙な音を出し続けている」 

10 10, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・「今日は少し歌っていこう」と思い、いつもの河原に寄って、さすがに外は肌寒かったから車の中でギターを弾き、歌う。五時半を過ぎたらもう外は暗くなりつつあって、三、四百メートルほど離れた、川に架かる橋を渡る車のほとんどはライトを点けている。目の前を流れる川も、対岸までの幅は確認できても、流れはもうはっきりとは見えず、橋の上を渡る車のライトや街灯の灯りが、流れの淀む場所や、中州の淵にあたっておきる小さな波のような部分だけに反射してそれを見て「流れ」を感じる。

・「アルテスVOL.1」という音楽誌をアマゾンで注文して昨日届いたから読む。高橋悠治のインタビューを読んで全文を引用したいくらいの気持ちになる。

・工場から煙が立ち上る。が、そこに人間の姿はない。大小さまざまな大きさの歯車が絡み合い、回り続けている。もう一度いう、そこに人間はいない。工場は今日も黙々と煙を吐き続け、奇妙な音を出し続けている。

・システム。

戯れ言の箇条書き・95 10.9 「月出時刻は23:47ということでもう寝ているだろう」

10 09, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・簡易畳の敷いてある後部シートでの昼寝を終えドアを開けると外にはたくさんのトンボが舞っていて、すぐ近くにいたトンボを見て思わず指をたてたその人差し指にトンボは止まり、それは赤とんぼだった。

・今日の月出時刻は23:47ということでもう寝ているだろう。最近、月齢や月出、月入の時間が気になって、毎日調べている。

・今日考えていたことと、今日届いた本のインタビュー記事を今読んでいて、そこに書いてあったことがリンクするように感じておもしろい、と思いつつもそれよりも眠気の方が勝ってしまってどうしようもない。眠る。

戯れ言の箇条書き・94 「勢い余って本日2度目。音楽万歳だ、馬鹿野郎」

10 08, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・友人がYou Tubeに投稿してくれた「心の音楽祭」で歌った動画を見た。自分で見て「こんなことをやっていたのか」と自分で思う。ドラムを叩いてくれたシュンちゃんのおかげで楽しくやれているように思うけれど、どう見ても「変なおっさん」にしか見えない。いつまでたっても洗練されないね。これはこのままでいこうかしら。

 最後の曲で友人の娘さんが口をフル回転させて「ドゥルルルルルルル」とやって、それに友人が「うちの馬鹿娘です」と周りの人に謝る音が入ってきて、これがこの動画の原動力になっている。ぼくの歌はこのやりとりのための布石に過ぎない。本当に。ぼくの演奏じゃなく、そこが本当に素敵。この娘さんは以前書いたMちゃん。犬飼ともに「呼び捨てすんな」といったMちゃん。後から聞いたら「ドゥルルルルルルル」というのは犬飼ともがMちゃんに仕込んだものだった。素敵だ。

・これに感化されて四月、五月に録音して放っておいた自分の音源を聴いてみたら酒が進んでしまって困った。これは一体何なんだろう。自分の演奏を聴いて酒を飲むってのは。気持ちが悪い、けどしょうがない。どこか自分と切り離して聴いているから出来ることで、そうじゃなきゃ具合が悪い。「へえ、こんな人がいるんだ」と、、、。録音してから時間が経っているからこそ聴ける。ぼくは「聴ける」と書いた。「聞ける」じゃなく。そういう音。

・音楽があるからいれる。それがあるから、そのことばかり考えていれるから、ぼくはいれる。此処に。それはぼくを導いてくれた先人達がいてくれたからいれる。此処にいるよ。涙が出る。それを全うしてやろうと思う。

・勢い余って本日2度目の箇条書きをする。

・音楽万歳だ、馬鹿野郎。おやすみなさい。

戯れ言の箇条書き・93 10.8 「にゃんこ先生」

10 08, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・トンビの円舞。空に雲はなく。北の方角からヒヨドリが一羽来る。それを見ながら小便をするぼく。

・畑にいつも現れる茶色の野良猫をHさんは「にゃんこ先生」と呼んでいる。Hさんは「ひっひっひ」と笑う。そんなHさんからぼくは名前で呼ばれることはなく「親方」と呼ばれたりする。なんのこっちゃわからないけれど。昨日ぼくは園主に「Hさん、なんだか用事があるっていってました」とちゃんと伝えて、今日Hさんは「うまぐいってけだが?(上手く言っておいてくれたかい?)」といった。「ちゃんといっといだよ、スナックさいったの?(当たり前じゃないか、それでスナックにはいったのかい?)」というと「んだ、いった。昨日もいったんだ(行ったとも、昨日も行ったさ)」といって、今日も二日酔いだった。そんなHさんはおもしろい。

・Sly&The Family Stoneの「If You Want Me Stay」が大好きで、どれだけリピートしても聴いていられる。飽きない。この「一回性」は凄い。理想のテイクがあって、それに近づかなければ「没」とされるのではなく「一回性」の中で起こることを重要視して、そのつど演奏が変わっていく。という緊張感がこの曲を支えている気がする。もう一度録音したら全然違う音楽になったろう、と聞く側に思わせるような音楽。そこが何度聴いても飽きない理由の一つだと思う。

戯れ言の箇条書き・92 10.7 「『出来てしまい方』といったほうがいいのだろうか」

10 07, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・対向車線上の真ん中で蛙の死体をついばんだカラスが一羽、後方から迫る車を察知して飛び立ったその下には稲刈りを終えた田んぼが広がっていて、南へ向け翼をゆっくりと上下に揺らしながら飛んでいく姿を北へ向かう車の中で目撃するわたし。

・言葉が感覚より重要、優位と思って疑わない人間からの質問攻めほど面倒くさいものもない。何かを、誰かを「嫌いだ」と感じるとき一番まともで純粋な理由は「何となく」「何か嫌い」「何か無理」でいい。理由とすら呼べないもので一向にかまわない。言葉に出来る以前の感覚、感触でいいはずで、それは「いい!!」「好き!!」「すんげえ!!」でも同じことで「どこが嫌い(好き、良かった)なのか説明してみろ」といちいち「言葉に変換する」のを強要してくる人間の面倒くささ。大体にしてそういう奴らの語る言葉はありきたりでつまらない。

・昨日見つからなかったSly&The Family StoneのCDが見つかって聴いている。D'Angeloが二枚目の「Voodoo」を制作する途中ずっとSly&The Family Stoneを聴いていた、と語っていたのを思い出す。確かに曲の出来ていく過程を想像するとその手順(作り方、というより「出来てしまい方」といったほうがいいのだろうか)が似ているのかもしれないと思う。

・月が見えず、外にでて空を見たらそれでもまだ月は見えず、けれどオリオン座を確認する。それで部屋に戻って月について調べたら今はまだ月出の時間にもなっていないのだ。なるほど。小学生のころに習ったようなことを復習する。

戯れ言の箇条書き・91 10.6 「何だい、スナックにでもいくというのかい?」

10 06, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・コオロギの足は真新しいアルミシートの上で転がり回る。人間の目では捉えられない早さでその足は動いている。が、少しも前に進まない。坂道なのだ。おまけに新品のアルミシートが敷いてある。あなたのカギ付きの足をもってしてもそれは捉えられませんか。人間達はリンゴの木の下にアルミの反射シートをひく。太陽光の反射を利用して、リンゴの色づきを良くするため。コオロギは跳ねる、跳ぶ 、普段通り草の上であれば、、、。アルミシートの上では跳ねることも、跳ぶことも出来ず、同じ場所で、足をただ掻き動かしている。

・仕事終わりにHさんが「今日よ〜、飲みがだなんだず、んだがらよ、明日俺こねっけごったら、何が用事あるっていってだっけよ、ってゆってでけねが?」といって「何、スナックさでもいぐの?」とぼくがいって「その可能性大ありだな」とHさんがいうので「わがった、んだらば、ゆっくり飲んできてけらっしゃい」とぼくはいった。

 日本語に訳すと「今日飲み会があって、もしかしたら明日仕事を休むかもしれないから、その時は園主に何かしら用事があるといってましたよ、と伝えておいてくれないか?」「何だい、スナックにでもいくというのかい?」「その可能性が高いね」「そうですか、それでは、ゆっくり飲んできてください」という感じか。このやりとりがぼくにはおもしろく、今頃Hさんは「若い人いんの?」と質問したぼくに「おばちゃん一人でやってんのよ」と説明してくれた、その、ど田舎のスナックで飲んでいるのだろう。


・Hさんは来年還暦を迎えるおっさんで、基本誰とも話さない。ラジオを聞きながら黙々と作業する。前に記事に書いた暑くなると帰ってしまうのはNさんで、Nさんも園主も「Hはわけわからない」といって何処か敬遠しているけれど、ぼくはHさんのことが好きだ。おもしろい。

・久しぶりにLedisi「Soul Singer」を聴いていたけれど、なんだかあまりワクワクしないので、変える。Tina Brooks「The Waiting Game」。本当はSly&tThe Family Stoneが聴きたかったけれど、探しても見当たらない。どこかにやったか、誰かに貸したか、ただただ消えたか、、、。そういうことはよくある。

戯れ言の箇条書き・90 10.5 「おばあちゃんは『人見知りしない子だねぇ』といった」

10 05, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・ダブルレインボー。今朝、畑に向かう途中にそれを見た。以前一度だけその「ダブルレインボー」とやらをみたことがあって「何だこれは?」と感動したけれど、それを「ダブルレインボー」と呼ぶのを知らず、「ダブルレインボー」という言葉をある人に教えてもらって、それが一昨日だった。から、ビックリした。

・待合室に戻るとソファーはほとんど人で埋まっていて、一人分だけ空いていた場所に座ったその隣には、おじいちゃんと孫息子、あるいは、お父さんと息子、どちらともいえない年齢差の二人が座っていて、男の子は「これを読んで」と『お化けのコックさん』という本を持ってきて、それをおじいちゃんともお父さんとも判断のつかないその男性は低く良く通る声で読み聞かせていたその隣でぼくは「城」を読んでいたのだけれど、絵本を読む男性の声に気がとられて、文字を目で追いながらも意識は絵本を読む声の方に集中してしまっている。

 男の子はソファーを離れ、また本棚まで歩き今度は「アンパンマン」の絵本を「これ読んで」と手渡し、男性はさっきの絵本より、より感情のこもった声でその絵本を読み始めた。「〜さん、お入りください」というアナウンスが響くと、その二人は絵本の読み聞かせをきりあげて診療室に入っていった。

 そのあと、その席には生後五ヶ月の赤ちゃんを胸の前に抱いた女性が座った。もう1人分空いている僕の隣の席には診療室から戻ってきたおばあちゃんが座って、赤ちゃんを抱く女性に「かわいいね、何ヶ月になるの?」と声をかけたから、その赤ちゃんが五ヶ月なのだと知った。話しかけるおばあちゃんの顔を見て、胸に抱かれた赤ちゃんは声も出さずに笑った。その笑顔を見て、おばあちゃんは「人見知りしない子だねぇ」といった。


・なんだか思い出したこと。心の音楽祭で出演者のリンクでクリックすると他の出演者はプロフィールなどが書かれたところに移るのに、ぼくのはブログにとんだ。以前「牛さんなめんなよ」という題の記事を書いたことがあって、「松沢春伸って誰よ?」と思ってクリックした人が最初に見る文字が「牛さんなめんなよ」だったとしたら、さぞかし「なんじゃこりゃ!?」と思っただろうと今更ながら想像すると楽しくなって、笑ってしまう。そういうのが楽しい。別に変なやつだと思われたくてやってる訳じゃないけれど、、、。

・今日の窓からは月も星も見えない。虫の音も聞こえない。というのはステレオから流れるアレサ・フランクリンの音楽で消されてしまっているということだけれど。曲の終わりの静寂に虫達の鳴く音が聞こえる。消防車の鳴らすパトロールの音も聞こえる。

戯れ言の箇条書き・89 10.4 「けれどその『2ミリ』を頼りに」

10 04, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・「練習というものを経験していない」と以前書いた。それはぼくには「練習が必要ない」ということでなく、ぼくの「没頭」の仕方がひどくて、一度その場所に行ってしまうと飯もとらず、時間の感覚も薄れて、ずっと歌ったり、ギターを弾いていたりする。そういう状態を「練習」とよべるのかわからない、ということで、それは子供が何かに夢中になって「遊んでいる」それを「練習」と呼ばないのと同じことで、だからぼくのそういう状態もどちらかというと「遊び」に近い。時間の長さの違いはあっても。

 その遊びの中ではいろんなものが生まれてくる。それは後に曲という形になったり、歌詞になったり、どこにも定着せずに消えていったりする。その時間の中に「住んでいる」のはただただおもしろく、結果その時間が継続していく。「何かを強いられている」という感覚はもちろんない。

 こないだ「できないことをあえてやった方がいいのかもしれない」と書いたのはなんというか課題のようなもの。今までの遊びの中だけでは生まれてこなかったものと出会うために、あるいは「遊びをもっと遊ぶ」ために、クリアしていかなくちゃいけない課題を自分に強いるほうがいいのではないかということ。例えば単純なことでいえば、憧れてはいたけれど手を付けていなかった他人の曲の構成、コードを知って演奏してみるとか、使えるコードの数を増やしていくとか。そういうものは違和感なく「練習」と呼べる、と思う、、、。「遊びをもっと遊ぶ」ために。


・日々ひとりで歌ってはどこにも記録されない音。「遊び」と呼んでも「練習」と呼んでもどちらでもいいが、そういう時間の中で生まれる音のほうが、誰かに聴いてもらえる音より圧倒的に多い。誰に聴かれるでもなく、空中に放り出される音達。その膨大な数。

・「ライブとはどういうもののことをいうんだろう」あるいは「どういうものがライブとよばれるに相応しいのだろう」と、そういうことを常に考えている。けれどそれはすぐに答えの見つかる問題ではなく、その問いの中でもがきながら考えて、演奏して、歌っていくしかないもので、いつまでも断片的なことしか見えてこないけれど、それについて考えた、考えながら歌われたもの全てがその問いに対する(あくまで自分自身の)答えのようなもので「ライブとは〜です」などといった単純な言葉では言い表せないだろう。出来てしまったとしたら、それは単に思考の停止を意味する。

・誰にも聴かれず日々の「遊び(練習)」という時間の中で鳴らされ、歌われた音より、ライブで誰かに聴いてもらえた音のほうが大事だ、などという気持ちは全くない。そうじゃなく、ライブは特別なのではなく「特殊」なのだ、おそらく。「人前に晒される」という特殊な環境。

 「やってはいけないと思っていることをやってしまいたくなる」というこれまた病気のようなものがぼくにはあって、それがライブの場面(人前に晒される時)ではいつもより強く出てしまう。「おとなしくやってりゃいいじゃないか」と思う自分がいて、同時に、そんな自分のいうことを聞いてどうするんだ馬鹿野郎、という自分がいる。演奏しながら「これやってみたらどうだろう?」などと、やってみたこともないものが浮かぶと、ビビりながらもその誘惑に負けてそっちを選んでしまったりするのだから、自分でビックリする。もちろん全ていい結果に繋がる訳がないけれど、それでも、こんなこと出来たんだっけ? とか、こんなものが自分の中にあったのだろうか? というものに出会える時がある。そのおもしろさはおもしろい。


・ライブというのはぼくにとってそういうもの(概念としてではなく、実際にそうなってしまうものとして)だから、遊び(練習でもなんでもいい)」の段階では生まれなかったものと出会えたりする。もちろん、遊びの場面でもそれは起こるけれど、程度の違い。進んでも「一歩二歩」なんてものではなく「2ミリ」程度のもの。けれどその「2ミリ」を頼りにまた誰に届くでも、聴こえるでもない歌を歌い続ける日々に戻っていく。「ほんの少しでしかないけれど前進することができた」という感覚を頼りに、、、。

・以上勢いに任せて書く。なるほどそういうことか、と自分で思う。

戯れ言の箇条書き・88 10.3「来たついでに春さんのFace Book登録しておきますか?」

10 03, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・表現の世界で「神」と崇められる人々がいる。けれど、ただ崇めていればいいというのはもうやめにしよう。彼らだって人間でそこには闘いがあって、迷いの夜だってあった。1人の人間の闘いを、そこを見つめずにただただ「神」だなんて祀りあげられたらその闘いが、その迷いと共に刻みつけられた足跡が、、、、、、歩みから「迷い」はとりあげられる。ただの足跡としか見られない。大事なのはただ崇めることじゃなく、その足跡の中から1人の人間の闘いの痕跡を、迷いを嗅ぎ取ること、ではないだろうか。

 何が書きたいのかここ二日ほどで十分に酒に浸った頭に任せていても進まないように思うが、だからこそ、そのまま分からず、のまま書こう。ボブ・マーリーの写真や絵はそれこそ神のように撮られ、描かれる。けれどぼくの心のなかに鮮烈に宿る彼の写真は「ボブ・マーリー レゲエの伝説」の中にある母セデルラ・ブッカーと病院のベッドの上で聖書を読み、衰弱してゆく身体、弱々しい瞳でカメラのレンズを見つめる一枚だ。そこにいるのは神ではなく、死期を悟った1人の人間。闘った人間の姿。はじめにその写真を見たときはショックだったけれど、その写真との出会いがあったから「彼だって1人の人間だったのだ」と思えるようになった。


・「食うため」という理由はものすごく分かりやすい。単純に皆の理解を得ることが出来る。だからつまらない。「食うために」を掲げていれば、その理由があまりにもまともなためにそこで思考が停止してしまう。あるいは、もともとあったもっと純粋な衝動のようなものも「食うため」というものに絡めとられてしまう、とでもいえばいいか。

 ゴッホが描いた絵は生前一枚しか売れなかった。美術商をする弟テオの仕送りを生活の資金にあてていた。「もう少しで自分の時代がやってくる」と信じながら。もちろん自分の絵が売れてそのお金で生活できることを望んでいただろうし、結局そうはならなかった訳だけれど、絵で「食える」ようになることを切望しただろう。けれど彼が描き上げたその絵は「食うため」という理由だけで描かれたのではないのだろう、と思える。絵が売れてそれで食べていけたとしたら「もっともっと自由に、もっともっと素晴らしい絵が描ける」「今以上にもっともっと自分の憧れた先人達に近づける」そういう思いで絵を描き続けたのではないか。もともと根源にあって、彼を絵を描くことに向かわせたものはおそらく「食うため」というものとは別にあったのではないか。


・思い出した言葉を。佐々木中と保坂和志の対談から。

・保坂「だから、売れるために書かないけど、書いたものは売りたいんだよ。売れるためには書かないんだけど、書いたものは売りたいんだ。」——佐々木中『この日々を歌い交わす アナレクタ2』p31より。

・北海道の友達よっちゃんが京都に妹のバイクをとりにいった帰り道ぼくのところによってくれて(この男はいつでも前日とかに急に連絡をよこすから「まじか」と思うけれど、それがよっちゃんのよっちゃんらしさなのだ)一緒に飲みに出かけて「来たついでに春さんのFace Book登録しておきますか?」と、そういうものに疎いぼくを少し馬鹿にしたかのようにいうので「しねえよ、そんなもん」とはいったものの結局登録だけしてもらった。家に帰ってきてパソコンで見たけれど、何がなんだかよくわからない。

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