戯れ言の箇条書き・86 9.30 「とりあえず寝てみる」

09 30, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・台風はこんなにも急にやってくるのか。三十秒前まで弱い雨が降っていただけだったのが、あっという間に暴風雨。これは凄い。

・「何か」を「伝える」のでなく「何か」を「ただ提示」すること。ただ「そこに在る」こと。ただ「そこに現す」こと。

・と書いているうちに風どころか、雨すらも止む。さすが。

・言葉によって世界を区切ってゆくのだとしたら「自然」という言葉がそれと人間を離れさせる。

・すっかり静かな夜になる。虫の音が聞こえる。これで台風おしまいということなのかどうか。とりあえず寝てみる。

・と書いてるうちに雨の音がまた始まる。さすが。

戯れ言の箇条書き・85 9.29 「やめれるものならやめてみたい、とすら思う」

09 29, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・いつもどおり七時半には畑に着いて、眠ろうかとも思ったけれど思い直してギターを弾く。いつも畑をうろつく野良猫が現れて足の運びを停止したまま車の窓越しにぼくを見つめている。そのままぼくはギターを弾き続け、猫はまだその姿勢のまま耳だけを動かす。しばらくの間その状態が続いて、ギターを弾く人間の観察を切り上げたその野良猫はゆっくりと後方に歩きリンゴの木の根元に横になった。

・遠くから聞こえてくるラジオではお笑い芸人が出ていてネタを披露しているらしい。笑い声が聞こえてくるのは観客だろう、もちろん。聞きながら思うのは、その目の前にいる百人を笑わすことより、(例えば)松本人志一人を笑わすことのほうがずっとずっと難しい、ということ(それは彼らも分かっているだろうし)。

 お笑いをやっている以上笑わすことが仕事になるのはわかる。観客の前で修行と呼べるような日々をこなすうちに「こういうものがうけるのか」とわかるようになってくるのだろう。けれどそこだけを、その感覚だけを追っていくと「相手(客)なんて誰でもいいから、とにかく笑いをとれればいい」になってしまわないか? 

 もちろん売れるというのはそういうことだし、エンターテイメントとはそういうものだろうけれど、笑いの転換を起こしてきた人はそういう場所にいなかったのではないか? 松本人志は百人にうけることより自分が本当に見て貰いたい(その道に進むきっかけとなった)人に向けて、あるいは、それまでの既成の笑いを無視してただ好き勝手に表現したのではないか? その結果それまでの笑いをひっくり返したのではないか? その結果百人を笑わせる笑いを生んだ。全然違うんだ、そこは。本当に全然。 

・音楽を「始めた」という意識がないから音楽を「やめる」という概念もない。というか持てない。これはよく考えたらおそろしいことだと思う。やめることが出来ない。降りることが出来ない。だから、ずっと思っていたことだけれどたまに聞く「音楽をやめる」という言葉の意味がわからない。本当にわからない。やめれるものならやめてみたい、とすら思う。

・漫画「ワンピース」のサウスバードのようなものか。それは「南」しか向くことが出来ない。他の方向を向こうとしても、身体がいうことをきかずに必ず「南」を向いてしまう。彼らに「いつ南を向き始めたんですか?」と聞いても仕方がない。「理由なんてない、こうしか出来ない、そういう身体なんだ」とサウスバード達はいうだろう。それをやめることは出来ない。降りることは出来ない。

戯れ言の箇条書き・84 9.28 「ハンマーを振るえる腕をもつために」

09 28, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・ただただ向き合う。ひたすら向き合うという時間をもっと増やさないと、と思う。上手くなるためにではなく。練習というものともまた少し違う。ただただ歌っていた日々があった。誰に向けてでもなく、ただただひたすら。あのころの向き合い方。を、思い出さねば。

・ただひたすら何かに没頭している状態を「練習」と呼ばないぼくは、だから練習というものを経験していない。ただただ没頭している。といいつつも、もう少し自覚的に「できないこと」に挑戦することも必要かと思う。それを練習と呼ぶのかはわからないけれど。上手くなるためにではなく、より多くを壊すために。巨大なハンマーを振るえる腕をもつために。

・視覚の共有。昨日書いたカラスが飛ぶ光景を外から眺めて記述するのではなく、カラスの視覚を共有するかのように書くにはどうすればいいのだろうか。文章を読んで光景が思い浮かぶのではなく、その視線を文章を読む側も同時に体験するようなもの。そんな文章、、、。

・Miles Davis「Bitches Brew」をこれまただいぶ久しぶりに聴いている。こんなにもおもしろいんだっけ。

・今日思った。ますます「終わり方」ってもっと自由なんじゃないか、と。ジャンルに関係なく。「終わりよければ全てよし」というのもつまらない。「始まりからおもしろさを持続させようと努めて、何かを繰り出ていく、それを続けていけたのならば終わり方なんて何でもよし」というほうがしっくりくる。今のぼくにとっては。「Bitches Brew」なんか聴いているととくにそう思う。だからいちいち「オチ」なんていらない。お笑いにしても「オチ」があれば途中がおもしろくなくても許される、という考えが今のぼくにはおもしろくない。全然おもしろくない。話のオチなんてなくてもいいから、聞いている間ずっとワクワク出来るもののほうがずっとずっといい。

戯れ言の箇条書き・83 9.27 「今日一日なにもなくともそれでいいと思えた」

09 28, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・背丈の半分ほどを枯らした大きな一本杉のてっぺんに停まっていたカラスが二羽、同時に、雄叫びにも似た声をあげたかと思うと次の瞬間身を低くかがめ、枯れた枝を蹴り上げ飛び立った。

・朝一に見たこの光景があまりにもかっこよくまたまた全然言葉にできないのだが、この光景を見れたことがそれだけでよくて、これから今日一日なにもなくともそれでいいと思えた。

・風のように考えが吹き抜けていく。どこにも記録されず、どこにも定着せず、本当に一瞬だけわずかに身体に触れて去っていく風みたいに。葉つみの作業中、視覚は葉や枝の状況などをしっかり捉えてそれに連動して手はあくせく動ているのにそれがほとんど独立した機能のようになっていて、頭の中は全然別のたくさんの考えとも呼べない考えや、言葉で溢れて次々と入っては押し出す、を繰り返している。単純な作業をしているとたまにこういう状態になることがあっておもしろく感じる。

・尻をみせる蛙、枝に停まって、葉っぱでつついたら、しょんべんをかけて、手足をびょーんと伸ばしながら、別の枝に飛び移った。

・「蛙コワいコワい病」をなんとか克服しつつある。普通のアマガエルであれば急に目の前に現れたりしないかぎりびくつかずにすむようになった。「よっ」と挨拶ができるくらいの余裕だってある。けれどまだ殿様クラスになるとコワい。あの姿や、あの跳躍力を見せつけられたりすると「殿様にはかなわない」と素直におもう。

戯れ言の箇条書き・82 9.26 「なんだかとってもこわい」

09 26, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・趣味というほどのことではないけれど「これだ」と思える安物のスコッチを探したりしている。今日もはじめて行く酒屋に寄って二本買ってきた。二本買うというのは珍しい。大体はどれを買うか迷って一本にするのだけれど、今日ははじめて入った店ということもあって勢いで二本買ってしまった。もちろんお金をだしてシングルモルトやそれなりのブレンデッドを買えるのがいいのだろうけれど、そうじゃなく。

 「一本千円あたり」を基準にしていて、スコッチに限らず安いのを探せばいくらでも見つかるのだろうけれど「これはさすがに、、、」というのもあるから一応スコッチで、ということにしている。どちらかというと奥の方にピートの香りのするものが好きで、でも今回買ったのはどちらもおとなしめで、ピート香も少なく別に主張もなくするりと飲める。そうじゃなく「おっ」というものが欲しい。けれどなかなか巡り会わない。

・今日ラジオから流れてきた女性の曲をきいていて、若者の共感を得ている歌手だそうで、きいていたらその歌詞の内容がとってもこわくて「あなたを愛しているのに、、、あの電話の子は誰なの?、、、私だけを愛してほしいのに、、、あなたは私だけを見てはくれない、、、あなたがいなくなったら、、、私はあなたにとってどういう存在なの?、、、」とか、よくよく覚えていないけれど、そんなことばっかり歌っていて、それが今の時代の女子の共感を得ているのだとしたら「こわっ、、、」と思った。最近の女子はなんだかとってもこわい、ということになる。ま、あんな歌をきいて「いい歌」だの「歌詞に共感する」だのいう人間になんて興味ないけれど。それにしてもこわい。

・今日は久しぶりにラサーン・パターソンを聴いている。ディアンジェロの同世代では彼も天才だと思う。

・すぐには咀嚼できずに胃を悪くするようなもの、と前に書いたけれど、ディアンジェロもまさにそうで、最初は「なんだこれは?」だった。それが聴き続けているうちにその凄さをわかっていくようになる。「歌もの」ばかり聴いていたぼくを「音楽」に目覚めさせてくれた人。

戯れ言の箇条書き・81 9.25 「遠火で炎があがったら水をさすようにようにして」

09 25, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・うちわを扇ぐ。物置からバーベキュー用のコンロを引っ張りだしてきて、頂いた秋刀魚を焼くために火をつけたばかりの炭に風を送る。枯れてしまった百日紅の枝を火付けの薪として入れてはみたものの十分に乾燥していなくて「ぷすぷす」と水分の蒸発する音が火の中から聞こえてはきたけれど、何とかおき火の状態になって、それから秋刀魚を焼いた。

 脂が炭に落ちて、炎があがってしまうとただただ表面だけが焼けてしまって、焦げてはいるけれど、中まで火が通らないような状態になってしまうから(去年がそうだったので、すこし勉強した)遠火で炎があがったら水をさすようにようにして(これはどこかの映像で見たのをその場で思い出して)じっくり焼くことにした。

 秋刀魚が届いていたことを知っていたから「せっかくだから今日はビールを飲もう」と思って、帰りにコンビニで発泡酒でもなく、第三のビールでもなく、れっきとした「ビール」を買ってきて、冷蔵庫に入れてから、すだれの隙間から見える半分より少し満ちた月をたまに眺めながら、うちわを扇ぐ。

・窓から見えるのは月と、それから星が一つだけ。雲は少ないのに星は見えない。

・音楽をかけず虫の鳴く音だけを聞きながら書く。その音も今日はあまり大きくはなく、遠く聞こえる。

・もうさすがに蝉の鳴く音は聞こえなくなったけれど、蝉は雨のふる直前から鳴かなくなる。だから「あ、これは雨が降るのだな」と分かった。雨が降り終わるとまた蝉は鳴き始めるのだった。人間は天気の変化に他の動物より鈍感で、だからすぐに体調を崩したりするのだろうか。人間だってその一部だというのに。

戯れ言の箇条書き・80 9.24 「すぐには咀嚼できずに胃を悪くするようなもの」

09 24, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・日々の訓練のようなもの。時間があるとか、無いとかそういうことじゃなくてもっと自分に課してみるようなこと。本当に面倒くさがりで、飽きっぽくて、だらしがない人間だから、何かをやり始めるまでに意識が散らばって結局何も手に付かなくなる。だからなんとかある程度時間が規則的に決まっていたほうがいいように思えて、それで曲をつくるときもなるべくそうしている。気が向いた時に、ということでなく「今日も書くぞ」という気持ちになるためにある程度決まった時間に一旦机に向かうことにする。自分を机に座らせてしまえばしめたものであとは何となく集中できる。机に座るまでが大変なのだ。どこかでトムウェイツが「今までは気が向いた時に曲を作ろうとしていたけれど(誰かの創作の姿勢を見て)これじゃダメだって思ったんだ、それ以降は、、、(なんとかかんとか)」といっていたような気がした。だからなんだということじゃないけれど。

・ということは(先の発言がいつのころのものか定かではないけれど)初期のメロディアスな楽曲よりもメロディーのないような散らばっているようなあの楽曲のほうがより「よしつくるぞ」と自分に課してつくったことになってそれを思うとなんだか楽しい。というかそりゃそうか。あれは意識的じゃなきゃつくれない。

・彼は「良いよね」とかいわれることに飽きたんじゃないだろうか。自分の表現がすんなり受け入れられてしまうことに対するバカバカしさ。自分に対して起こる「何? そんなに受け入れられたいわけ? あんた」という思い。すぐには咀嚼できずに胃を悪くするようなもののほうが後々はまる、ようなことを経験しているから自分のものがあまりにすんなり受け入れられてしまうことは「これでいいのか?」を生む。

・何でか知らないけれど、ボブディランとトムウェイツの本名(ボブディランは本名をボブディランに変えたのだけれど)は何処か頭の片隅に入っているからすぐにいえて、ロバート・アレン・ジンママンとトーマス・アラン・ウェイツ。それからボブマーリー、ロバート・ネスタ・マーリー。別に何の自慢にもならないけど。

戯れ言の過剰書き・79 9.23 「その指先で、そのつま先で」

09 24, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・女性クライマーのテレビを見る。実家の古い牛舎を改装してつくったクライミングのジム。壁を大小様々な突起物が埋め尽くす。壁を身体一つでつたってゆく姿を見ているだけでおもしろかった。身体の思考。その指先で、そのつま先で。

・ライブ中の感覚に少し似ている。曲を演奏しながらその先端のぎりぎりのところにいる、という感じ。事前に用意したものがあるのじゃなく、ぎりぎりで「何か」が生まれてきてしまう、という感じ。音を出す直前まで自分がどんな音と出会うのか分かっていない、という感じ。手を伸ばし、その指先が思考する、頭に任せていたら間に合わない、という感じ。こうやって言葉にしようとしてもほとんど言葉にはできない、という感じ。

・雨の二日酔いを久しぶりに経験。

戯れ言の箇条書き・78 9.22 「雨降らなければチャリンコ山形トリップ決行しやす」

09 22, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・歩道をかごに買い物袋をいれた自転車をひきながら歩いていたおばあちゃんが、急に立ち止まって空をみたその先にはちょうど半分ほど姿を見せたお月様があって、おばあちゃんが眺めるその月を、ぼくも車を走らせながら眺める。

・昨日届いた仙台の友人からのメール「明日、雨降らなければチャリンコ山形トリップ決行しやす。 夜空いてたら一緒に飲もうぜ〜」。いったい何時間かかるのか? 彼は今も自転車を走らせ山形に向かっている。ということで飲みにいく。

・「(略)ロビンソンが、島のいちばん高い地点、正しくはいちばんよく目につく地点にしがみついていたとしたら、その原因は反抗心、謙虚さ、恐怖心、無知、憧憬、なんでもいいが、もしそうしていたら彼はまもなく破綻したことだろう。しかし彼は、航行する船舶や、その貧弱な望遠鏡を当てにせず、島中を探索し、この島によろこびを見いだしはじめたために、生きのびて——むろん当然すぎるほど当然な帰結として——やはり最後には発見されたのである。」——フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』P219

戯れ言の箇条書き・77 9.21 「鍵、鍵穴をもたない鍵」

09 21, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・あなたは鍵、鍵穴をもたない鍵。目の前にはハンマー、けれどあなたはそれをもつ腕をもたない。

・「曲の終わり方」というものがずっと分からず、今もよくよく分かっていない。というかいちいち終わりをつけるのは「なんとなく」であって、終わらなくてもいいのではないかとも思う。何をいっているのか伝わらないだろうけれど「曲」って、それ自体は「終わり」をもっていないのではないか。終わらせる誰かかいるだけで、、、。

・ディアンジェロ『VOODOO』の十二曲目の終わり方は凄くかっこいい。まだまだ続くだろう、実際録音はそれ以上続いただろうそれをバサッと切る。

・持ち時間全てを一曲で、そこから派生していく何かで使い切る、というのをやってみたい。「次の曲は」とかじゃなく。その場で、その場でしか生まれない音でその時間を埋めていく。そういうことが出来たらもっともっとおもしろく、おそろしく、訳の分からないものになるんじゃないかと思う。それをやってみたいという、漠然とした思い。を抱く。

・夕方まで見えていた三日月(?)はもう雲に隠れて見えない。外は窓を開けていられないくらいに冷たい空気、にいつのまにか変わった。外仕事をする人間がこんなにもビックリするくらいの変化なのだから、どうか体調崩さぬよう。

戯れ言の箇条書き・76 9.20 「癒えぬ、癒し得ぬ病」

09 20, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・芸術に生きてきた先人達。そして同時代に生きながら芸術の衝動に突き動かされ踊る者、書く者、描く者、奏でる者、思考する者、撮る者、そこに時間を捧げ、愛を捧げ、生きた、生きている人間がいてくれる、からこうして生きていける。その歓びがそのまま自分への重責というか「この人たちがいるのにそれ以上自分がやるべきことが果たしてあるのだろうか?」という思いに変わるのだけれど、、、。

・興奮する出会い。人との(生きているかどうかに関わらず)、作品との出会いがあったときの、そのあとに訪れる虚無感は凄まじい。「おまえなどいらない」を突きつけられるような思いがする。

・根っこから揺さぶられるものと出会ったときの興奮、そしてその後に訪れる思い。「もう何もすべきことはないのではないか?」「彼らの作品や、言葉や、生き様を伝えていけばそれで事足りるのではないか?」。でもそこに留まらずこうして何かをしようというのはどういうことなのか? その思いを、その疑問を払拭してくれる言葉に出会うまでにだいぶ時間がかかった。ある本の中のある一節に、、、。

・とはいいつつも、先にあげた先人達だって、彼らだって同じような思いを抱いていたのではないか? 「自分にこれ以上何か表現しうるものがあるのか? もうほとんど表現され尽くされていて自分にはもう彼らの “真似事”しか出来ないのではないか?」そう思っていたのではないか? そう思いながらも、そこを見据えながらあえて向かっていったのではないか、あるいはそれ以前に「そうとしか生きられなかった」のではないか。

・これはもうほとんど「癒えぬ病」に近い。「もし〜をやっていなかっとしたら、何をやっていましたか?」というくだらない質問はどうでもいいけれど、「どうやってもこうしか生きられない」「どうやってもそのことしか考えられない」という他にない。癒えぬ、癒し得ぬ病。

・アレサ・フランクリンの五枚組をだいぶ前に買っていて、しばらく聴いていなかったその音を聴いているところ。友達にダニー・ハサウェイのことを教えたら、何枚か組のCDを買ったらしく同じような企画のCDだろうか、と思う。アーティスト別の主要なアルバムをまとめて安い値段で買えるようになった。ネットの通販などで。ぼくのような貧乏人には助かる。けれど高校時代に授業を昼まで受けて、そこから学校をサボって一人電車に乗って仙台までCDを買いにいっていた頃の思いの方ががやっぱり強くて、ワクワク具合はその頃の方がずっと強い。


戯れ言の箇条書き・75 9.19 「『原曲』という概念があまりない」

09 19, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・ぼくには「原曲」という概念があまりない。らしい。自分のつくる曲に関して。楽譜も読めないし、もちろん書けないし、読める必要も書ける必要も微塵も感じないけれど、だから「音符どおり」という概念もない。らしい。曲はかっちりと固定した形があるものではなくて、「ぐにゃぐにゃ」と形を変えながら流動する。「曲」に対するイメージがそういうものだからぼくの歌は歌うたびに変わったり、する、してしまう。

・ライブで歌うとその傾向がますます強くでて自分が歌っているにもかかわらず自分で制御が効かなくなる。だからぼくは歌われている「歌」の方に主導権を渡す。ぼくはそれに必死で食らいついていく、それが自分の中で起こっている。「どこまでもいってしまえ、自分を置き去りにしてしまえ〜!!」と。これほどこわくてこれほどおもしろいものはない、ように思う。見ているひとにそれが伝わっているのかどうかわからないけれど「この人はどこに着地しようとしているのだろう」と一緒にドキドキしてもらえる、あるいは「この人、変」とでも思ってもらえたらそれで別にいい。し、思ってもらえなくても別にいい。

・こないだ心の音楽祭でシュンちゃんにドラムを叩いてもらいながら「ついてきてよ」と生意気なことをいったが、それは自分にもいっていて「俺、ちゃんとついていけよ、俺に(歌に演奏に)」といっているのである。そういえばシュンちゃんのバンド名は「ざ・べっが〜ず」ではなく「ざ べっがーず」でした。調べたらそうでした。ごめんなさい。

・雨のせいか頭が回らない。だから場当たり性の少ない本当の日記のようなものにしかならないときがある。今日はそれ。おとなしく飲んで寝よう。

戯れ言の箇条書き・74 9.18 「新しい飛行機雲が空にかかる。子供達は家へと帰る」

09 18, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・郵便配達のおじさんが運転するバイクの音が聞こえる。近くの公園で子供達の遊ぶ声が聞こえる。雀の鳴く声が聞こえる。風が吹き、庭先の風鈴の音が聞こえる。台風が近いからか風は強く、風鈴はいつもより音数が多い。空を覆う雲の隙間から飛行機雲が少しだけ見える。今日も気温は高く、仕事終わりのビールを既に飲んでいるぼくの左腕は石巻の牧山の石の上で寝ている間に蚊に刺されて腫れていて、痒い。公園で遊ぶ子供の声がよりいっそう大きくなる。ありふれた日々のありふれた音達に囲まれながら日記のような文章をあてもなく綴る。夕飯まではまだ時間があり、この文章を書き終えたら曲作りに向かう。

・石巻から帰る道中は祝日だったこともあってとても道が混雑していた。観光客で溢れる松島の海岸近くの川(ほとんど海なのだろうけど)に当たる太陽の光が反射する様子があまりにも美しく、その河岸に停めてある木製の舟や、道ばたを歩く人たちを信号待ちの車の中から眺めることがとても気持ちよくて、川面に反射してキラキラ光る太陽の光を、あるいはそれを見て揺らぐ心の動きを音楽で表現したとしたらどのようなものになるのだろうと漠然と思う。それは歌詞という「言葉」によって表現したい、ということではなくて、あのキラキラ光る川面をみて揺れ動く心の動きと同様に誰かの心を揺るがせるような音楽とはどういうものだろう、ということ。本当に漠然としているけれど、そういうこと。

・ゴッホを引き合いに出したら失礼になるだろうか、いやそんなことは関係ない、だろう。ゴッホもああいう光や景色をそのまま愛したのだろうと思うとそれだけで泣きそうになった。あの光景に人間の解釈でつまらない意味など込めてしまったらそのとたんにあの美しさはどこかに去っていってしまうような気がする。

・「これで十分じゃないか」と思えることをそう思える、という所にいたい。過剰なものを押し付けられて「こんなもの本当に必要なのだろうか?」という本質的な疑問さえ遠くなってしまっている世の中で「これで十分じゃないのでしょうか、他に何かいるのでしょうか?」ということを思いながら書いた曲が『歌にもならない溢れた日々の』だった。

・次から次へ目新しい商品がうまれて、あたかもそれが「必要なのだ」と思わされているぼくたちはやっぱり何かの動きに絡めとられている。「もういらないよ」という人が増えて「もうたくさんだ」という人が増えていかない限りずっとぼくらはその「何か」に絡めとられていくだろう。

 「原発がなくなったら電気代が三倍になるよ」という脅しはその極みであって、金のことしか語っていない。「原発が事故を起こしたらもっとそれ以上の金がかかるじゃないか、だからやめるべだ」という反論も的を得ているようで結局のところ金のことしか語っていない。
 
 そうじゃない道筋を見えるようにするには、何が必要なのか、ぼくの頭では結論めいたことなんてすぐ出てきはしないけれど、小さなことを歌う、ありふれた些細なことを歌うということは出来るのかもしれない。大きなものを動かす時に大きなもので対抗するのでなく、そいつらが見向きもしない小さなことをたくさんたくさん集めること。

・なんだかんだ書いているうちに新しい飛行機雲が空にかかる。子供達は家へと帰る。

戯れ言の箇条書き・73 9.17 「石はつめたく、あたたかい」

09 18, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・ステージの裏手を山の斜面にそって歩くと出演者用の駐車場があって、そこは普段は採石場らしく採石現場に置かれた石(大人四人と子供一人が寝転がっても余裕がある大きさの石、岩?)に乗るとそこからは石巻市街が見渡せた。草のない時期であればもっとよく見えるのだろう。

 ビールを置いて石に寝転がって空を見ると遠くにある秋のうろこ雲はほとんどその位置を変えず、地上に近い層の雲は強い風に吹かれてものすごいスピードで流されていく。それを眺めているのがとても面白くて「これすげえね、なんていうんだべ」といったら犬飼ともは「これが有名な『石巻現象』らしいよ」といい「まじすか、すげえ」というと「いや、しゃねげっと(しらないけど)」といった。

 ステージの方からは「HIt The Road Jack」をアレンジしたような音がきこえてきて「いい感じだね」「センスいいね」といってる隣で小学一年生のMちゃんは砕石を拾い集めて積み重ねて遊んでいる。犬飼ともが初対面のMちゃんに「〜だね、M」と話しかけるとMちゃんから「呼び捨てすんな」と怒られていた。そのやりとりがしばらく繰り返されて寝転びながら大人達が笑う。


・朝七時に家を出て、会場となる牧山の入り口に着いて受付のところで、ざ・べっが〜ずの三人をみかけ声をかけて会場まで移動した。彼らは前日の出演だったからもう帰ったと思っていたけれど「今日も見て行きますよ」といったのでそれだったらライブ本番でいきなり呼んでやろうかな、とぼくは「ふっふっふ」と悪い顔をしながら企んで、そして実際そうしました。しゅんちゃんを呼んでステージにあがってもらった。パーカッションでもやるのかな、と思っていたぼくは彼がドラムを叩き始めたのでびっくりした(自分で呼んでおきながら、、、)。かわいい顔して心臓の強い男。彼とは昨日で会うのが三度目くらいだし、彼がドラムを叩くところも見たことないし、彼もぼくのやる音を知っているわけでもないし、ぼく自身ぼくの音楽をそれほど知っているわけでもないからどうなるか分からなかったけれど、おもしろかった。どうもありがとう。音を出しながら本番中に彷徨うことが出来るというのはこわいながらもおもしろい。

・家に戻るまでの道。いろいろなことを考えた。高速を使わずに帰ったから四時間ほどかかってしまったけれど、独り言をいいながら頭に浮かんでくる「考え」とも呼べない断片のようなものに浸るには必要な時間だった。少しずつ言葉にしていけたら、と思う。

・ライブ後飲んで、話して、飲んで、、、。ステージ前にも大きな石が配置されていて、そこで飲んで、結局その石の上で寝た。石はつめたく、あたたかい。

戯れ言の過剰書き・72 「足を繰り出すことで精一杯の彼の目は感知しない」

09 15, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・彼は夜通し歩いた。とはいってもまだ太陽は登らない、であれば夜通しというより、いまだ夜のまっ只中という他ないのだろうけれど、足を繰り出すことに、繰り出すことを繰り返すことだけに夢中になっているとはいえ、どう考えてももう太陽は昇っていいはずだ、そう思える時間を歩いている、と彼は思った。

 太陽が昇るどころか歩き始めた地点で見えた遥か遠くの高い高い山々よりも高い一本の木(それは本当に木なのか、すら分からないほど)の高さは、その異様なまでの大きさは、歩き始めた時に感じたものと全く変わっていないように思えた。それほど重要で単純な物差しでさえ、足を繰り出すことで精一杯の彼の目は感知しない。

 「私は何一つ、ただの一歩でさえ、進んでいなかったのか」と彼が思ったその瞬間、目の前が光で満ちた。太陽。朝の訪れを告げるあの太陽が、夜の歩みを肯定するあの太陽が、忽然とその姿を現した。——と思ったその光は夜の闇を彷徨う一匹の蛍の小さな小さな灯りだった。


・日課というものがないぼくの最近の日課。でしょうか、これは。書けないときはパソコンが近くにない時か、前日朝まで飲んでぐだんぐだんになっている時か、二日酔いの時か、三日酔いの時か、いずれにしても酒にやっつけられた時。

・これがいつ途切れるかは分からない。飽きたらすぐに書かなくなるだろうし。

・明日は石巻。心の音楽祭。何を歌おうか、分からない。その場の自分に任せよう。とはいいつつも自分の名義のライブよりやることが縛られることは否めないな、と思う自分が本当はダメなのでしょう。うりゃー、とやれよ、と思う。自分に飽きること、がまだ出来る。飽きないように闘うのが一番だけど、自分がやってることに飽きるという感覚がなくなったらいよいよヤバい。

・書きたい曲がなんだかすこんすこんと出てきて、おろおろしている。いかんせん「し」が追いつかない。ライブが「こなす」作業みたいになったらいかん、と思うし、だんだん自分がやってることに飽きてきたから(といっても最近は「へえ、こんな自分がいたんですね」と思える自分と出会えることがあるけれど)少し曲づくりをしたい。スコーンとまた飛び抜けようと、思います。それが終わったらこないだBar Tarjiの少太にいやんと話したけれど、二人でどこかを回りたいな、と思う。近所でも、ちょいと離れたところでも。身体弱い2人組で行くんだぜ。楽しみだぜ。

戯れ言の箇条書き・71 「『ゴッホ最後の70日』を見て、、、」

09 14, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・「ゴッホ最後の70日」を見て、、、。

・本当にゴッホは自殺したのか。右利きのゴッホが自ら撃ったとするにはあまりに不自然な弾道。や、ゴーギャン、弟テオとの関係。口をつぐむゴッホ。調べれば調べるほど自殺ではない、と思える。——と専門家(専門家という人で本当に信頼に足る人がどれくらいいるのか知りませんが)達は語る。とはいっても「誰がゴッホを殺したのか?」というようなミステリー(物語)にはそれほど興味を持てなかった。「ほー」という思いだけ。

・一番興味を持ったのはゴッホとゴーギャンの描き方の違い。二人で同じ場所に出向き、同じ対象を描いても二人の描いた絵は全く違ったタイプの絵になった。ゴッホは目に映る光景に意味を与えようとせず「そのまま」を描いた(ゴッホという身体を通して描かれたのだからそのままといってももちろん彼にとっての「そのまま」ということで)。短い線が連なったり渦巻いたり、あの描き方で。

 ゴーギャンは、といえば絵に「意味」を込めようとする。何らかの「象徴」を絵に込める。顔に手を当て陰鬱な表情で腰掛ける少女と、その少女の後ろに近づく死神のような気配をもつ人間。実際にそのような言葉は与えられていないとしてもその絵は「これは〜を意味しているのではないか?」と観る側に「意味を探る」ことを要求する。

 それに対してゴッホは目に見えるそのままの光景を描いた。「ぶどうを収穫する人々」を「ぶどうを収穫する人々」として、そこに流れる「川」を「川」として、そこに照りつける「太陽」を「太陽」として。そこに裏読みすべきものは何もなく、何かの隠喩でも象徴でもない。「世界」はただただ「世界」として描かれる。

 ゴッホは自然をそのまま愛した。自分の(人間の)解釈でそこに何らかの意味を与えたり何かの象徴として描くことなく、自然を人間の側に寄せて矮小化したりすることなく、彼によっては「世界」はそのまま「世界」として描かれた。

・その二人の描いた絵はゴッホ「赤い葡萄畑」ゴーギャン「人間の苦悩」と名付けられゴッホの「赤い葡萄畑」は彼が生きている間に唯一売れた絵だ。

・「僕に関しては、今すべて注意を集中して自分の絵に没頭している。僕は大好きで感服してきた何人かの画家たちと同じようにいいものを描こうと努めている」——『ファン・ゴッホの手紙』P398より

・これを書いていて、保坂和志の「猫」を何かの隠喩としてではなく「猫」は「猫」として書かれる。を思い出す。「あの猫は何を意味しているの?」と裏読みする読者に対して保坂和志は「猫は猫だ」というだろう。

・ゴッホの描く夜の色が好き。何年か前に沖縄旅行に行った時にガラス工房で一目惚れしたガラスのランプを買ったのを思い出した。今思うとそのガラスの色がゴッホの描く夜の空の色に似ている。 

戯れ言の箇条書き・70 「蠅は素手で捕まえられるのですよ」

09 13, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・出来うる全ての表現をやる。音も言葉も。相互に混ざり合って相互を高めていくような全てを。音をやろうとしながらも音以外のものの方により影響を受けてきたのだから。

・ぼくの音を聴いた人に「何を聴いてきたらそうなるのですか?」とたまにきかれることがあるけれど、いえることは「本を読む」あるいは「歌わない」あるいは「ただただ音楽を聴く」あるいは「音楽を聴かない」としかいえない。表現のジャンルに囚われていたらその枠の中にしかいられない。表現の形態に関わらず「表現そのもの」の根本を見つめる、ことしかない。

・「良かったです」という評価に対していえることは「そうですか」でしかない。褒められたくてやっている訳ではなく、認められたくてやっている訳でもない。一応「ありがとうございます」とはいいつつも、いう度に自分に嘘をついているような気持ちになる。「ありがとう」なんていう必要はないのかもしれない。ただただその場所で自分の知らない自分に出会えたか、ということでしかない。進む、というのはそういうことじゃないのか。

・車の中で昼寝していたら、あまりに蠅がうるさくて、膝にとまる蠅を、先週の探偵ナイトスクープを参考に捕まえてやろうと思ってやってみたら捕まえられた。蠅が手の中でバタバタと動く。はじめての経験。蠅は素手で捕まえられるのですよ。

歌います。

09 13, 2012 | Liveのお知らせ

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16日日曜日「心の音楽祭」での出演時間が決まりました。

12:20〜12:50ということです。
よろしくお願いします。

心の音楽祭



戯れ言の箇条書き・69 「何一つぐらつかせてくれないから」

09 12, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・得るべきもの、と捨て去るべきものの選択の際「上手さ」というものをどちらとするか、ということ。

・「技術」というものに人が魅入る、憧れをもつ、ことは理解できるけれどそうやって「技術」を追い求めてきました、という人間の表現に触れるときに大抵「つまらん」としか感じないのは、何一つぐらつかせてくれないからだと思う。

・そういえば録音のことについて書いていなかったのを思い出した。今は飽きてしまってほったらかしにしている。時期がくればまた始めるだろう。し、来なければほったらかしのままだろう。というかそもそもの録音という考え方自体を取り違えていたように思えて、そこを突き抜けたらそこにいくでしょう、また。

・意味を届けることに徹する歌い手と意味を届けることが必ずしも一番の目的ではないという歌い手の考え方の違い、音楽の、歌の捉え方の違い。をまた最近考えている。

・身体から眠りの要求。ゆえにそれに従いませう。

戯れ言の箇条書き・68 「本日二度目の箇条書き」

09 09, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・本日二度目の箇条書き。

・誰かが言っていた「笑いの感覚が似ているというのは重要」という言葉を思い出して笑っているところ。確かに一緒にいたい、と思える人は笑いのつぼというかそれを共有できる。それがないと一緒にいてもつまらなく思える。男でも女でも。

・それから好きなものが一緒ということより嫌いなものが一緒ということが重要、というのもなんだか分かる。好きなものに関しては別に一緒である必要もないけれど「これは許せないよな」というところを共有できる人とは一緒にいることが出来るように思う。男でも女でも。

・石巻の渡波の少年Nはどこにでも小便をする。三月に石巻の某有名飲食チェーン店に犬飼ともと子供達と夕飯を食べに行って、その途中で外にタバコを吸いに行った犬飼ともが大笑いしながら店に戻ってきて、少年Nがその店の看板に小便をして「Nが看板にしょんべんした〜」といって店に入ってきたのだった。ぼくも外にでてそのしょんべんの痕跡をみて笑った。大笑いした。少年Nは有名チェーン店など関係なくしょんべんをかける。宣戦布告。その一時間前に少年Nは石巻市役所にしょんべんをかけている。まだ小学生にもならないその少年は意識せずともかけるべき場所をわかっているかのようにしょんべんをかける。犬飼ともとぼくはそれをみて大笑いする。

・ちなみにぼくの車のタイヤの四輪すべてに少年Nのしょんべんはかけられた。車の中で寝ている隙に。それでまた僕らは大笑いする。そんなことでいちいち怒らない。ただただ笑う。本当にただただ笑う。そのままいけよ少年N!!

・少年Nは猫みたいだ。小便の量も猫みたいだ。「なんでそんなにしょんべんが細切れに出るんだ?」といったら「なんだかでたくなる」と少年Nはいった。

・サムクックの「SAR Records Story」を聴いている。これで当分やっていける。特にDisc1。

戯れ言の箇条書き・67 「『ねむり』とさえ打てずに誤って『ぬめり』と打つ」

09 09, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・夢のない短い眠りから覚める。本当に起きているのか、あるいは夢も見ずに眠り起きた、という夢を見ているのか、の「判断」は放置され意識はただ漂う。キーボードを叩く指の感触とそれが発する音とが徐々に目覚めていることを教えてれる。というのは本当だろうか。それすらも広大な夢の一部だ、と何故言えない? というようなテーマはもう使い古されたものであり、、、。

・眠い。極めて眠い。ここまで身体が眠りを欲している、というのはどういう状態か、と思う。「ねむり」とさえ打てずに誤って「ぬめり」と打つ。誤っていないのかもしれないけど。

・たまに言葉の持つ音感が頭の中で上手く定着せずに「スプーン」という音と、物としての「スプーン」が結びつかなくなったりすることがある。狂っている人みたいにずっと「スプーン、ス、スプーン?」と呟いたりする。

・「弁当を売る時 駅の人が弁当を一つ取って 中を見ていんちきしてるか してないか けんさをするので 弁当やおかずをつめて 売る時 駅の人がけんさをして貰えるのを別に これはけんさをする時見て貰える弁当で これはけんさをする時見て貰えるおかずを わざと別に造って けんさの弁当だけ沢山つめて けんさのおかずも沢山入れて かっこう良く入れて 弁当を売る時 けんさの弁当だけ別に持って行って 別にしてあるのを見て貰えるようにしてあるのです」 山下清『裸の大将放浪記』第一巻P462

・「裸の大将放浪記」には山下清の書いた絵が所々に載せてあってその絵には山下清自身が描かれているのだけれど、ほとんどが後ろ向きで描いてあってそれが誰の視点なのだろうとおもしろく感じる。

戯れ言の箇条書き・66 「『拝啓天皇陛下様』を見る」

09 08, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・BSで放送して録画していた「拝啓天皇陛下様」を見る。寅さん以前の渥美清。どう撮るか、何を撮るか、どれくらい撮るか、という撮り方以前に渥美清が画面に映っているとなんだかそれだけでわくわくしてしまって困る。

・山下清(芦屋雁之助じゃなく本物)がちょっとだけ出演していてはじめて肉声を聞いた。ドラマ「裸の大将」シリーズの山下清はだいぶ芦屋雁之助の創作が入っているというか、本物のイメージとは違っているのだな、と思う。先月、古本屋で山下清の「裸の大将放浪記」全四巻が一巻百円で売っていたのでちょうど読もうと思っていたので「しめしめ」と思いながら買って少しずつ読んでいる。

・「松戸へ行く方へ行って あの時は一月だから 寒くて寒くて 手が冷たくなって 口へ手をあてて はあはあ言いながら歩いて行きました 松戸で人をだまして むすびを貰って食べました」 山下清「裸の大将放浪記第一巻p77」

・同じくBSで放送したゴッホ「ゴッホ最後の七十日」を見ようと思ったらなんだか思いのほかミステリーっぽくて期待していたのと違って眠たいのもあって十分で寝てしまったので後回しにして「拝啓天皇陛下様」を見た。眠たくない時に見ようと思う。そういえば何年か前にもらった「ファン・ゴッホの手紙」まだきちんと読んでいなかった、のを思い出した。別の場所においてあるのでとりにいって読もう。

戯れ言の箇条書き・65 「牛さんなめんなよ」

09 07, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・頭を垂れた田んぼの稲の上をオニヤンマが飛んでいてそのオニヤンマが田んぼからリンゴ畑へと繋がるのぼり坂をリンゴ畑の方へ向けて旋回するその近くで男はリンゴ畑からその斜面へ向けて立ち小便をしている、は、ぼく。

・田んぼの先にある牛舎から牛の鳴く声が聞こえる中、上半身裸の男はリンゴの葉摘みをしている。高い声であるいは低い声で鳴き続ける牛の鳴き声はどう聞いても「モウ」ではないように思えて、男はリンゴの葉を摘みながら何度も何度も牛が鳴くたびにその真似をした。その音は明らかに「モウ」ではなかったけれどそれを言葉として書くことは困難だ、と男は思った。

・「はい、みなさん、牛は何となくでしょう〜?」「モウ!!」「はい正解で〜す」というような先生と子供の会話。みたいなことってつまらんな、と思う。だって「モウ」じゃないもの。「『モウ』なんて牛は鳴かないよ!」という子供がいたとしたらそれは「間違い」とされて「おかしな子」と皆にいわれるかもしれないけれど、もしそういうことがあったとしたらぼくは絶対その子の側に立って皆ひっぱたいてやる。皆ひっぱたいてはダメか、でも先生はひっぱたこう。

・と書いてる、その隙に見事に蚊にやられてしまった。小指の関節のところ。一番刺されてはいけないところ。小指が腫れていく。げんなりする。蚊の姿は見えない。蚊の飛ぶ音。ひっっっっっっぱたいてやる。

・予定調和のような表現は「モウ!!」「はい正解で〜す」に似ているな、と思う。

・「モウ」なんてかわいらしく鳴かねえぞ、牛さんは。もっとこええええぞ、牛さんは。牛さんなめんなよ。

戯れ言の過剰書き・64 「くだらんものに巻かれるなよ、俺」

09 06, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・お客さんがいるから、金をもらっているのだから、それに応えるようなものをしなくしゃならないとか、お客さんのために、とかそういうもののために表現がなされるとしたらそれほどつまらないことはない。そこじゃない。大事なことは。そこだけの間で起こることに興味はない。

・そいういことをやんややんや言う人がいる。「金をもらっているのだからその責任をもて」と。でも本当に大事なのはそこを越えていくことだろう。お金を払って「受け取り」にくる人の期待に応えるのじゃなくその人たちをビックリさせるような「何か」を提示すること。

・前にマイルスの言葉を書いたけど、そういうこと。なれ合いの為に表現があるのじゃない。聞きにくる人の世界を引っ掻く。ある意味「何じゃこりゃ」という思いを抱かせること。その人達の根っこをぐらぐらと揺らすこと。

・やっぱりうまく語れない。けどやっぱりここは譲れない。そこにいる人たちに向けてではなく遠いどこかに向けて歌うこと。「良かったね」といわれることではなく、「何だったんだろうあれは」といわせること。

・このことに関してはずっと書く。飽きずに書く。伝わる伝わらないはどうでもいい。これは重要なことだから。うまく語れないとしてもそこでめげてちゃどうしようもないし、上手く、とかそいういうことに関係なく考え続けなくちゃいけないことだから。感じ続けなくちゃいけないことだから。

・お客さんを喜ばせるために歌うのではない。そういうのはそういうことをやっていてそれで満足できる人たちに任せていればいい。

・例えば神に向かってなされるものがあればそれは神に向けてなされる、のであり、ただひらすらにそこに向けられている。祈りとはそういうものだろう。

・「お客さん」と書くのが面倒になったから「客」と書くが、ただ客を「満足」させることに徹することができたなら「どんなに楽か」と思う。そこにはいない。そこにはいたくない。

・書いてることが重複することを承知で書く。今日のような日のために過剰書きはある。何度でも何度でも同じようなことを書く。重複を恐れていたら何にもできない。

・言葉として表現できたものと、できなかったもの、それは実際に書いていくことでしか分かり得ない。だから書くしかない。全くの失敗に終わったとしても、、、。

・ライブというのがもし客にだけむかっているのだとしたら、盛り上がるだろうし、売れるかもしれないけど、そういうものは大抵「くそつまらないもの」になる。といってもそこで楽しめる演奏者も客もいるのだから、それはそれでいい。そこにいちいちなんだかんだいうつもりはないけれど、表現というのはもっと「大きな何か」に向けてなされるものだとぼくは思うから、そこに混ざりたくない。はじめはそのつもりでやっていてもだんだんそういう流れに巻き込まれてしまって表現が縮こまっていく人をどれだけ見ただろうか。そこにはいたくない。

・今日は一気にばーっと書いた。ダメだ何一つまとまらない。そして今宵も眠い。眠る。くだらんものに巻かれるなよ、俺。

戯れ言の箇条書き・63 「上手に育てている家の朝顔はまだ咲き続けている」

09 05, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・秋の雲と夏の雲が同時に空に広がっていて、季節の境目を実感するけど「まさしくラピュタはあそこにある!」というほどのあの恐ろしくさえ感じる入道雲を見れる機会もなくなるかと思うとそれはそれで少し寂しい気もする。九月に入っても、上手に育てている家の朝顔はまだ咲き続けている。毎朝その家の東側の壁沿いに咲く朝顔を見ながら大通りへと進む。AMのラジオしか聞けないぼくの車の中では「カトリック教会の何とかかんとか(失礼、全然タイトルが覚えられない)」というような番組が流れていて、それを聞きながら大通りを進んで、それが終わって「実力養成中学生講座」という受験勉強する中学生のための番組が始まるとNHKAMに変えてニュースを聞く。けど内容はほとんど入ってこない。そのころにはいつもセイタカアワダチソウの見える田んぼ道を過ぎて、県内で一番大きな川の上に架かる橋を渡り終わっているところ。

・車に用事があって玄関から駐車場まで行き、用事を済ませて家に戻ってくるほんの一、二分ほどの間に足を何カ所も蚊に刺されてしまって、今それで痒い。のを我慢しながら、どこまで我慢できるか足をそわそわ動かしながらこれを書いている。から集中力がない。

・まだ掻いていない。

・探偵ナイトスクープで二十年(くらいか、もうすこし若かったか、忘れた)生きてきて一度も蚊に刺されたことがない、という女性が「一度でいいから蚊に刺されてみたい」という依頼をして、竹山探偵ともうひとり「蚊に刺された後、蚊取り線香の匂いをかぐと痒いのがおさまるから試してください」というショートネタを応募してきたおっさんと三人で蚊に刺される実験をして、結局どんなことを試してもその女性は遂に一カ所も刺されず、竹山探偵とおっさんは何カ所も刺されて「蚊取り線香効果」も専門家に聞いたら「気持ちの問題です」と言われてしまっておっさんはただただ蚊に刺されにきただけだったけど面白かった。

・蚊に刺されるというのは分泌物の量とかなんとかわからんけどそんなことに関係しているらしくて、一度も蚊に刺されたことのない女性は要するにとってもとってもきれいだ、清潔だ、ということらしい。だから一、二分で数カ所も刺されるぼくは不潔なのだろう、よほど。家に帰ってきてすぐにビールを一缶飲んだからそのせいもあるかもしれないけれど、、、。シャワーだって浴びたのに、、、。よほど不潔なのだろうか。すこしへこむ。

・痒い。が、まだ掻いていない。足はもこもこ腫れている。貧乏揺すり。体質が変わったのか蚊に刺されるとだいぶ腫れるようになった。どういうことか、はわからん。

戯れ言の箇条書き・62 「見つめるは本物だけでいい」

09 04, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・日に日にお天道様に挨拶する時間が遅くなってくる。というよりここ数日は東側の山々に低くたれ込めた雲が群れていて、それがますますお天道様が顔を出すのを遅らせているが、その雲のかかり具合がとても印象深くてお天道様よりその不気味といってよさそうな雲の群れのほうに気持ちが寄せられる。それでも八時にもなればいつものように「八時にして暑い」と感じるような日差しが照りつけてくるが、その時には既に一回目の休憩に入っていて、椅子に腰掛けながら「今日もやりますか」という気持ちにようやくなる。

・さいごには感覚で書ける人が好き。頭のいい人たちが書いた文章をよんでも「へえ、なるほど」としか思えないが、さいごのさいごに感覚で書く、ということを忘れない人の文章というのは刺さる。言葉通りに「刺さる」。結局受け手を「よっしゃ、やるで」と思わせてくれる人というのは「感覚」を忘れていない。だから、論理ではない。どれだけ読むことに時間のかかる文章でも「この人は感覚で、感覚に訴えることを忘れていない」と思える人たちの言葉があるからぼくのような馬鹿な人間でも「よっしゃ、やるで」と思える。

・今はもう蝉の声が聞こえない。

・見つめるは本物だけでいい。負け戦の面白さというか、それを分かりつつ挑む、という場所にいたい。

・誰かが進んでいくところを、変わっていくところを、面白いと思える人間でありたいと思う。「お前変わったな」なんて言ってしまう人間にならないようにいようと思う。進んで進んで、ぼくの相手をしてくれないくらい進んで。互いにサヨナラを言い続けるような関係がいい。その分ぼくもがんばるから。

・月の軌道が随分と変わった。窓枠にはもう月は顔を出してくれない。と思ったらいた。いつも見ている窓の九十度左側。右上が立派に欠けている。

・ダメだ、眠い。ぼくは眠る。夢を見るだろうか。そして虫達は鳴く。鳴き続ける。

戯れ言の箇条書き・61 「セイタカアワダチソウのあの鮮烈な黄色」

09 01, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・いつも通る道路の端にセイタカアワダチソウが小さいながらも姿を見せていて、もうそんな季節か。と思う。田んぼ道の秋の色のイメージはススキの色だったけれど、それが今後セイタカアワダチソウのあの鮮烈な黄色に変わっていくのだろうか。

・相変わらず暑い日が続いている。けれど明らかに夜に窓を開けて網戸越しに聞こえてくる音は真夏の騒々しさとは違う。蝉も鳴く、が別の種類だろうか。秋の虫達が鳴いているその風景にはススキが似合うなあ、と思う。のは郷愁か。

・以前一緒に働いていた「きくっつぁん」は仕事現場に向かう車の中で一面に咲くセイタカアワダチソウを見つけるとその度に「あだなのでできたのさいきんだな。むがしはないっけず。がいこぐからくんのはいぐないやづばっかりだ〜(あんなものが出てきたのは最近で、昔はなかった。外国からくるのは良くないものばかりだ)」と怒っていた。毎回のように、何度も聞いた。それを聞くたびにぼくは笑った。もう少し季節が進んで道路端一面にセイタカアワダチソウが高く高く咲くようになれば「きくっつぁん」はまた今年も同じように怒るのだろう。

・セイタカアワダチソウは戦後日本に一気に広まった外来種のようで、二年くらい前、昼飯を食べながら座頭市だったか、水戸黄門だったかをみていて、バタバタと繰り広げられる河原での決闘シーンの背景はセイタカアワダチソウであふれていて、「おいおい」と思いながら見たのを思い出す。

・家を出て最初の大通りを左に曲がってすこし進むとガソリンスタンドがあってその前の歩道をおじいちゃんが自転車に乗って走っていて、おじいちゃんの上半身は裸だった。こういう光景を見ると安心する。近所には温泉があるからその帰りだったのだろうか。

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松沢春伸の日記

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