戯れ言の箇条書き・60 「ぼくが掲げるのは『脱・洗練』」

08 31, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・朝、コンビニによって駐車場に車をとめて隣を見たら運転席で新聞を広げながらサンドイッチをかじろうとしている太った男がそのままの格好で眠りに落ちていた。左手で新聞を広げ、右手にはサンドイッチを持っている。そのまま何かの勢いで眠りについてしまった。エンジンはかかったままで冷房をつけている音がする。

 ぼくが外にでてドアを閉めても起きず、コーヒーを買って戻ってきて「これ写真にとりたい、でもその瞬間に起きてにらみつけられたらどうしよう」と携帯を持ちドキドキしながらドアをしめたその音でその太った男は目覚めて、眠りに落ちる前の行動を一時停止後の一連の動きのようにサンドイッチを口に入れた。その口への持っていき方があまりに素早くて、寝ていたことに自分でもビックリしたようだった。あわててギアをバックに入れて、太った男はどこかにいってしまった。ぼくはコーヒーを飲みながら仕事着に着替えする。

・「洗練」という言葉を受け付けず。という自分がいる。というか、そうなっている、そうなっていく自分を知る。ライブをやるたびに「洗練」から遠ざかっていく。嫌いだもの、そんなもの。というか意識せずともそっちにいくということはぼくの「身体」がそれを嫌っているのだ。身体の意志。だからあれこれ考えてもしょうがない。そっちにいくんだもの。ぼくが掲げるのは『脱・洗練』。

・いきなり満月か。まだこれは「満」ではないのか。数日前までだいぶ欠けてましたよ、月。早い、あまりに早い。ぼくの窓枠にまだ月は入ってこず、身を乗り出さないとその姿は見えない。

・何故かここ毎日こうして書いている。のは、なんでか? は、わからない。ぼくの後ろではライクーダーが歌って、弾いている。

・今日もスイカをごちそうになった。でも今日のスイカは小さく四角に切られていた。今日はぼく以外の手伝いの人たちは休みで、だからリンゴはもがれず、出荷もなくて奥さんは「きょうはあそびにいってくるよ〜」とぼくにいって、ぼくが「どごに〜?」といったら「ぱちんこ〜、いちえんの〜」と奥さんが笑いながらいったのが朝の八時過ぎで、結局奥さんは四時過ぎまで帰って来なかった。勝ったのか、負けたのかは聞いていない。でも、機嫌は良かった気がする、、、。

・なんだかまた昔の話をおもいだしたから書こうと思ったけど、眠い。だから眠る。ことにする。

戯れ言の過剰書き・59 「くだらんものに巻かれるなよ、少年」

08 30, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・昨日の男の子は、小学一年生だった。下校する小学生に「ども」と頭を下げてみたらそれが昨日の男の子で、彼のランドセルには黄色のカバーがかかっていて、彼の頭には黄色の帽子がのっかっていた。「こんにちは〜」「どもっ、こんにちは〜」。今日も彼は彼の家の隣の家、それは他人の家だけれど同じように独り言をいいながら昨日と同じ場所で遊んでいた。四時過ぎくらいにその家の(駐車場の家の)女の子がおかあさんの車で帰ってきて女の子は男の子に「遊べんの六時までね〜、そこからはしふく(私服か?)に着替えなくちゃいけないから〜」といって男の子の家の方に二人で走っていった。

・今日の男の子の独り言は昨日より数段のっていて、昨日より大きな声で、それがとてもうれしかった。人に迷惑をかけて遊び回れ。そしてげんこつから逃げろ、逃げろ、笑いながら逃げろ。久々に「くそガキ」の資質を見た気がしてうれしい。くだらんものに巻かれるなよ、少年。

・小学一年生の頃といえば、、、。学校までの距離は3キロほど。お寺を過ぎると学校まで一直線の上り道になる。左右はどちらも田んぼに囲まれていて、それはそれは田舎道。小学校までの道のりは同じ三丁目の一年生から六年生までの六、七人で通学班をつくって一列になって歩いていく。先頭は副班長、これはだいたい五年生。一番後ろは班長、これは六年生。ぼくら一年生は班長の前を歩いていく。一番後ろのすぐ前。遅れたり、しゃべりながら二列になったりするとすぐに班長か副班長に怒られる。

 お寺を過ぎたあたりからぼくと、幼なじみのまさとは歩く気がなくなってきてだんだん遅れていって、しまいには班長さえも僕らをおいて先を歩いていく。ぼくとまさとは班から離れてしまったから、もうどうでも良くなって風で飛ばされた黄色い帽子が水はりを終えた田んぼに飛んでいってしまって、それがまだ植えられたばかりの稲の隙間を風に揺られながら漂っていくのを田んぼ道にしゃがみながら「う〜み〜はひろい〜な〜おお〜きい〜な〜」と歌いながら眺めていた。

 そうしているうちにほとんどすべての通学班から追い越されてしまって、ぼくらはそれでもずっとそれを眺めていたから結局その日は学校に遅刻した。一年生だったから先生達も心配したらしくだらだら歩いているぼくとまさとを探しに坂道を下ってきた。まさか一年生から学校をサボるとは先生達も思ってはいなかっただろうし。ぼくのサボリ癖はそのころからもう出来上がっていた、のだろう。

・今日の新聞の記事から引用。

 ——「山でキノコを集めることがおばあちゃんの生き甲斐でした。それを賠償して下さい」と東京電力に請求した人がいる。返ってきたのは「賠償の対象外です」という一通の手紙だけだった。——

・ああ、どうなのだろう。新聞を見た時はなんだか印象的だったから、この記事を書こうと思ったけれど、少し考えたら請求した人も立場は違えど同じ土俵にたってしまっているのではないか? と思ってしまった。

 だって賠償ってのは「金」を払ってくれってことでしょう。辞書をしらべたらそうだった。ということは訴えた側の孫もそのおばあちゃんの生き甲斐を「金」に換算していることになるんじゃないか? と、先の文章を写し書きしながら思った。というかこうして書きながらますますそう感じる。ばあちゃんの生き甲斐はそのやりとりで解決される場所にはない。絶対に。

戯れ言の箇条書き・58 「そのままいけよ、少年」

08 29, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・今日はリンゴはもがないで、園主の家の庭の手入れ。午後三時過ぎくらい、庭木の手入れをしながら向かいの家の駐車場で水を撒いて遊んでいる子供を眺めていた。流れていく水が側溝にすい寄せられて落ちていく手前のところで独り言を呟きながら両手に持つ石かなにかをぶつけながら遊んでいる。小学二、三年だろうか、彼は。少し離れていたから言葉の意味はわからない。ぼくはぼくの仕事をする、一応。彼は彼の独り言の中にいる。これはぼくだ、と思った。その当時の。あの頃のぼくがそのままそこにいる、と思った。独り言をいいながら遊ぶ。寂しさなんて全然ない。「独り」とかいうとどうしても「寂しい」イメージがまとわりつくのかもしれないがそれは完全に間違っていて、それはそれで凄い。凄く凄い。というか普通。というのをそのころからぼくは実感していた。といえば嘘か。どうだろうか。しばらくして、その子のお父さんくらいの年の男がその家の隣の家から歩いてきて、その男の子に向かって「他人んち(ひとんち)の駐車場で他人ち(ひとんち)の水使って遊んで駄目だベな!!!!」と怒鳴り込んできて、殴られると思ったのか、その男の子は隠れて逃げ回っていた。まさか、他人の家だったは、、、。そういうところまでこれはぼくだ、と思った。そのままいけよ、少年。

・録画していた探偵ナイトスクープを見る。さいごの素人のロッククライミングが良かった。インストラクターに「ここを素人が登るのは絶対に無理です」といわれたその素人はぐんぐん登っていく。下から「そこに足のせて!!」とかいう女性スタッフの声が聞こえた時にぼくは「黙ってろ!!」と思った。邪魔なのだ、そんなのは。プロとか素人とか関係なしに何かに向き合っている時にその関係の外にいる人間の助言もどきのいかに邪魔なことか!! そんなものは登っている人間と岩壁との対話の中でしか解決されない。そこと向き合っていない人間がそれがたとえその道のプロだとしても関係なく邪魔だ。すいすい登っていくその素人をみてプロであるインストラクターは「彼は天才だ」とかいっていたが「当たり前だろ」と思う。とんでもない人間は結局のところ金に収拾されない別のところにいるのだから。

・帰りみち。白い半袖と青の短パンのジャージを着て歩いている男を見た。十代か、二十代前半か。彼はランニングするわけでもなく、ただ歩いている。けどその歩き方が「肩で風をきって歩く」といえば伝わりがいいのか、そんな感じの歩き方。ヤンキー歩きか。その道は四方八方が田んぼで囲まれていてその中で彼は肩で風を切って歩いていて彼の顔にはロバート・デニーロか!? ダスティン・ホフマンか!? というくらい茶色でまるぶちのサングラスがかけられていて、それが西日を受けてキラキラ光っていた。トレーニング中なのかどうか分からないけれど、とても印象に残ったので書いておくことにする。

・トイレに行く時に見えた、ただのなんでもない街灯の灯りに釘付けになってしまう、そんな受け取り方をする時は大抵「テレビ」とは縁遠くなっている時だ。

・テレビの凄さは「なくてもいい」というところか。なくてもいいのに惰性で見れてしまうところか。バラエティーなんかとくに見なきゃ見ないでどうでもいいものを「見なくちゃ」とおもわせてしまうところか。ということはなくてもいい。自分のなかで「これはなきゃまずい」「生きていけん」とおもうものをちゃんと見極めるという、その選別。

戯れ言の箇条書き・57 「もう一人は『お盆の味がする』といった」

08 28, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・私はただのリンゴもぎ。最近はリンゴをもいでいる。山の緩やかな斜面沿いにある果樹園で。斜面だから脚立をかけるのも大変でかごのリンゴもとても重いけど、遠くの街の景色が山の斜面伝いに見える、のが気持ちいい。とてもゆるい雰囲気の果樹園で、ぼく以外二人いる手伝いの人の一人は六十歳くらいのおっちゃんで太陽が高くなり暑さがしんどくなると「だめだ、やんだぐなった〜(嫌になった)」といって時間に関係なく帰っていく。ゆるい。ここ数日は三十五度を越える日が続いていて、十二時になると二人が帰ってしまうのでNHKラジオのお昼のニュースをききながら一人おにぎりを食べ、冷製みそ汁をシェラカップにつくって飲み、食事が終わったら、炎天下の中ゴザをリンゴの木の下に敷いてその木陰でパンツ一丁で昼寝をする。山側から吹いてくる風がリンゴの木の間をすり抜けて吹いてきてそれがとても気持ちよくて少し汗ばみながらもぼくは少しの間夢を見る。たまにハエが邪魔をしてくるが、今日は蚊取り線香を炊いていたから昨日ほどではなかった。

・昼過ぎからは上半身裸で運搬車に乗って収穫したリンゴを集めながら坂を降りたり、のぼったり。それをトラックに乗せて園主の家に向かい箱詰めの作業をする。スイカをごちそうになりながら。奥さんがいつも大きいのをくれるからそれだけで腹がいっぱいになる。今日はスイカを一つもらってきた。鳥につつかれて商品にならないリンゴもいくつか。我が家の食卓にでる初物のリンゴ。それを食べて一人は「昔なつかしの味がする」といい、もう一人は「お盆の味がする」といった。

・ポニョの津波が来た後、ポニョとソウスケが船でリサを探しにいくところあたりからはなんというか急に物語的になってきて、だから「解釈」や「謎解き」をゆるす余地がでてきたのだろうか? 前半のドキドキする映像としてのおもしろさは少し薄れてしまった。他の(といっても宮崎駿作品を全部ちゃんとみているわけではないけど)作品に比べて物語性は薄いのかもしれないけど、その分展開というものに囚われる必要がなくてその場その場で「どう映像をつくっていくか」ということにひたすら向き合った結果生まれた作品、か。 

・今、月が窓枠の真ん前にいる。高くいる。星は見えないけど月の周りが光でぼやけていてきれい。昨日の晩からずっと網戸にしがみついていた蛾は今はどこかにいった。どこかにはいるだろう。ここではないどこか。

戯れ言の箇条書き・56 「こんど鳴子に飲みにいこう、わざわざでも飲みにいこう」

08 27, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・「崖の上のポニョ」の凄まじさを、異常さを、痛感した金曜日。何を、どこを、「おもしろい」と感じるか、の、その感じる部分が変わりつつあるこの何年か。公開当時、映画館に弟と見に行ったのだろうか、別の誰かか、は忘れてしまったけど、何年かぶりに見たそれは凄かった。場面場面がそのつどそのつど面白い。ストーリー云々を軽々と置き去りにする、直接に目から入ってくるトンでもない映像群。いろいろな解釈ができる映画だそうで、そういうものが飛び交っているが、その面白さとぼくが感じる面白さの違い。を書きたい、が書けるだろうか。

・映画を見ている中で感じている違和感や、違和感から生まれるこわさ(船に乗った赤ん坊連れの家族や、ソウスケママとポニョママが会話している空間、これは皆死んでんのか? など)は、頭のいい人たちによっての解釈によって「なるほど」と解消される部分はある。けれど、それはその映画を実際見ているときに体感している「おもしろさ」とは別のもの。いってしまえば「謎解き」のような範疇に入るもの。そんなことよりもずっとずっとおもしろいこと、もっと単純なおもしろさが画面を通じて起こっている。津波の部分の映像なんかは笑ってしまうほど凄いと思った。凄いものに出会うと、ぼくは笑う。声をあげて笑う。

・場面場面でそのつどそのつど「おもしろい」と思えるもの。、、、、、、それは音楽ではどのような形をとるのだろう、と考える。そういうふうに考えを触発させられるものに触れているときがやっぱりおもしろい。

・それで次の日は鳴子温泉内での「郷鳴祭」。去年は、移動時間の計算を完全に間違えていて、出番の二十分前くらいに到着してしまって、焦ってビールを飲み、ステージの上でもラムをボトルから飲んだりして、最終的にギターも弾けなくなってアカペラで歌うはめになって、これはこれでいいかと思いながらもライブ後、車の中で一人反省会をしながらも酔いすぎて反省までたどり着けず、ただただ、ぐだぐだしてしまったから、今回は二時間前には到着しようと、その通り二時間まえにはちゃんと到着して、、、歌った。

・鳴子温泉好き。何で? といわれてもわからない。温泉街が好きなのか、特別鳴子が好きなのか、わからないけど鳴子は好き。まず猫がいる。猫が多い。ライブが終わってひとり町中を散策して猫の多さに気づく。「温泉街と猫」この組み合わせの凄さといったらない。この言葉だけできゅんきゅん来る人も少なくないでしょう、きっと。

・今回は打ち上げにも参加できてちゃんと呑んで、その後ライチカフェ(レゲエシンガーyucaさん)夫妻となんだかんだ朝まで飲んで過ごしました。ラーメンうまかった。ママの話とても面白かった。こんど鳴子に飲みにいこう、わざわざでも飲みにいこう。

郷鳴祭

踊るためにではなく、踊るように歌え。

08 21, 2012 | Liveのお知らせ

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ライブします。

今週末の土曜日は「郷鳴祭」
郷鳴祭

9月10日(月)はBar Tarji
水野たかし LIVE
出演 水野たかし / 松沢春伸
Open 19:00 Start19:30 チャージ1500円(ドリンク別)
Bar Tarji

9月16日(日)は「心の音楽祭」
心の音楽祭

です。
また分かり次第報告します。
それでは。

戯れ言の箇条書き・55 「それで呑む。いつもの安スコッチ」

08 16, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・ライブが終わった後に仙山線に乗って山形についたのが大体八時。それから地元へ向かう電車に乗り換える。座った反対側の席には自衛隊のごっつい男達が群がってものすごい笑顔をつくり誰かを勧誘しているポスター。一生懸命おつかれさまです。ぼくはあなた達のようには出来ませんが、あなた達もぼくのようには出来ないでしょう。

 地元の駅についてふらふら階段をのぼって、おりる。待合室にいた三十歳くらいのお母さんと小学生くらいの女の子が階段のもとへ走ってきて、ぼくのあとで階段を降りてきた女性をみつけて「おばあちゃ〜ん」といって駆け寄っていった。後ろからその声が聞こえてきて今日はこれで十分、と思う。後は寝るだけ。そこからまたふらふらギターを抱えながら自転車にのって家について、カップラーメンを食べて寝る。正直しんどい。毎回しんどい。なんでこんなしんどいことをやるのか不思議に思うけど、そういうしんどさも含めてライブだから。あの場所にはこのしんどさをも良し、というほかなくなるほどの何かがある。

・ノウゼンカズラが咲く。木槿も咲く。ひまわりも咲く。ひまわりのさいごの姿はなんだか切ない。とっても切ない。くたら〜っと首をもたげて朝が来てもそれ以上首があがらなくなってしまうその姿はなんだか、切ない、、、。くだらない擬人化してるだけだけど、、。

・小津安二郎「秋刀魚の味」をみる。笠智衆たちがショットグラスでウイスキーを呑んでいるその影響をうけショットグラスを購入。それで呑む。いつもの安スコッチ。

・曲づくりのなかで途方に暮れる。それはいつものこと。書いては消し、書いては消し。これだ、と思う次の瞬間の「なんじゃこりゃ」。どこまでいっても慣れることがない。要領よくなることがない。上手く出来ない。どこまでいっても、といえるほどの数を書いている訳ではないけれど、それでもこれはいつまでたっても慣れないだろうし、慣れてはいけないものだ、きっと。そこに慣れてしまったら、自分自身を越えていくための階段は消滅する。

・いやはやバンドがやりたい。が、バンドを組みたくはない。ぼくにはそれは無理だ。そうであってもバンドの音をやりたい。基本は一人。それはずっと変わらない。でも今一人でなく何人かの中で生まれてくるものに身を任せる音がしたい。そういうものは自分の範疇を越えていく。どこかにいますねきっと。こんな馬鹿を相手にしてくれる心優しいウッドベース弾き。と、寡黙でありながら静かに喧嘩をふっかけてくるようなドラマーさん。ま、ぼくがやることやってればいいだけの話。進め——————!!!!

戯れ言の箇条書き・54 「今日は酔っぱらいの戯れ言。それでいい。」

08 14, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・今日は酔っぱらいの戯れ言。それでいい。

・昨日のSHAFTでのイベントCOOKLESS面白かった。すごく。本当にいい場所。自分でも予期してないものが生まれてくる。やったこともないものが生まれてくる。自分をぶん投げる、放り出す。ああいうことが出来ればもっともっと面白いことが出来る、と思える。COOKLESSありがとう。

・Donny HathawayとRoberta FlackのデュエットのCDを聴いている。十代のころ、近所の中古CD屋さんで買って、夜にずっとずっと独りで聴いていた。何年ぶりに聴いただろうか。四曲目を聴いて泣く。十代の頃と相も変わらず泣く。

・進もう、前へ。前へ。

・突き刺さる、突き刺す。それだけでいい。それ以外のものはどうでもいい。「魂」といえばいいすぎか、いいすぎでもないか。とにかくそこに響くもの。それを無視してなにが表現なんだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!? そこだけでいい。そこだけでいい。

・出世術。そんなもの全部無視。面白くも何ともない。嫌いな人間とも上手くやっていく、とかそういうつまらないものは無視。「人生の糧になる」とかそんなものも無視。そういうどっかのベストセラー新書のようなもの全部無視。くだらない。とにかく好きな奴といる、なんだかこの人すげえ、とおもわせてくれる奴といる。それでいい。大体、嫌いな奴といるというのは結局のところ金でしかないから、、、。

・酔っぱらう、酔っぱらう、ヨッパラウ。ラウール、アモール、チャンリンシャン、、、。

・近づきたい、、、。少しでも。仰ぎ見る人たちに、、、。それだけが原動力。

戯れ言の箇条書き・53 「個条書きの連投」

08 11, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・柴崎友香「その街の今は」を読む。すげえなー、いいなー、読んでる時間ずっと面白かった。これを説明できない自分の言葉の足りなさを恨みつつ、それでも言葉にしたらその瞬間つまらないものになってしまいそうだから、言葉になんかしなくていい。小説を読んだり音楽を聴く時にそれを外から眺めて、評価したり、なんだかんだいったりすることが出来ません。全く出来ない。だから、作品の説明なんてものは一切出来ないし、するつもりもありませんが、おもしろい。(この「おもしろい」という言葉が厄介なのか? 多様だから。)

・窓から。向かいの家とその隣家の隙間に遠くの街の灯りが少しだけ見える。ピカピカとひかり揺れる。それよりぼくは月と星をみる。

・何で仕事をするのか。以前はCDばかり買って、あとは酒。今はとにかく本が読みたい。食う、という理由すら霞む。

・読めば読むほど、聴けば聴くほど、見れば見るほど、、、。どうあがいても届かない「本物」たちがいてくれること、その歓び。そういう人たちがいてくれるから何とかやっていける。ただただ仰ぎみる。夜を満たす月を仰ぎみるようにみる。歩いても、歩いても、、、それすら即歓び。ただただひたすらやるしかない。

・「豹どもが神殿に押し入って、供物の入った甕(かめ)を飲み干してしまう、これが何度となく繰り返される、おしまいにはその予測がつくようになって、これが儀式の一部となる。」 フランツ・カフカ 『夢・アフォリズム・詩 p156』より

・個条書きの連投。

戯れ言の箇条書き・52 「わかる」というのはそんなに大事か?

08 10, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・英語で曲をつくる(英語なんてできないくせに)ことの理由としては、音楽を言葉、メッセージを伝えるためのツールだと思っていない、ということが一つ。音楽はもっと言葉以前であり、原初的なもの。歌であり、言葉を使う以上そこには「意味」がつきまとうけれど、そこを越えたものをやりたいとずっと思ってきたし、これからだってそう。だから自分がつくっているにも関わらず、歌詞の意味がよくわかっていないし、何かメッセージを伝えたいというつもりもない。意味など越えた圧倒的な何かをやりたい。——箇条書きの範囲で収まらなくなっていくので、少しずつ。

・Donny Hathawayのデビューアルバム「Everything Is Everything」を聴く。三枚目よりこっちが好き。なんか動きがある。曲をつくろうと思ってからずっと何年もつくれず、十代からずっと聴いてきたブラックミュージックより、フォーク、ロックを聴くようになって(楽器が全然引けないから、そっちならへたくそなギター一本でも作れるような気がした)遠ざかっていたけれど、やっぱり好きなんです。こっちが。

・オーティスなんか聴いていても、これはその場で歌いながらつくっていったんだな、というのが分かる。もともと彼らの音楽では「曲(譜面に書いて固定されるような歌)」というものがはっきりしていない。もう一度うたったら、演奏したら全然違うものになる。(だからこそ、オルタネイトテイクがボーナストラックとして成り立つ)コーラスがメロディーラインをうたって、メインのボーカルはそれで遊ぶ、というようなものもあるし、歌は流動する。これは日本人がやろうとしても難しい。(ふと思った。即興性というのは何を起源にもつのだろうか?)どうしても、譜面に書いて誰もが共有できる「うた」になる。、、、、、、またわからなくなってきたから、また今度。

・話は上下する。(基本的に上から順に書いている)「ディランの歌詞は凄いね」という人間がたくさんいて、あの言葉はこういう意味だとか、この曲は隠喩だとか何とかいっていろんな解釈をつけたがる人達をみると「これを言ってれば安心」みたいな感じに見えてつまらない(有名で難解な抽象画をみた時にむりやり「俺はわかる」という奴みたいに、、、こういう人いたなあ)。

 そもそもディランは自分の歌詞の意味をわかろうとしているのだろうか? (韻をふむということで言葉選びに制限がかかることもふくめ)自分でもよくわからん、と思っていないのだろうか? 単に周りが意味付けだの、解釈だのに躍起になっていて、その状況をみて楽しんでいるというか、、、。どこかでディランが「歌詞の意味なんて実は俺もわかんねえんだよ」というようなことをいってたような気がする。違ったか? どうでもいいけど、歌詞とかそんなんを抜かして、ディランのうたう歌が好き。上手い、とか下手とかじゃない。ただただ歌が好き。意味なんてわからない。「わかる」というのはそんなに大事か?

・例えば演劇をみたとする。それを見終わった後にその劇に意味づけをし、部分部分の解釈をすることがどうして必要だろうか? みている最中に身体全部の感覚を使ってその劇を「おもしろい」と感じたのなら(あるいは、おもしろいとすら定義できないような凄い体験とか)それ以上言葉の入り込む場所はない。無理に言葉にしようとした時に、そのまっただ中で「おもしろい」と感じていた何かはぼろぼろとこぼれていくだろう。

歌うたいます。

08 10, 2012 | Liveのお知らせ

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日曜日に歌います。仙台のSHAFTで。
時間は翌一時くらいからでしょうか。
ぼくの体力がその時間までもつのか心配ですが。
よろしくお願いします。

8/12(sun)
COOKLESS seq.137

DOOR/1,500yen(1D)
モバイル会員/1,000yen(1D)

DJ's/
Monkey sequence.19 (WNP/CPR/松竹梅)
SERMON
HIROKI SATO (STILLBLUE/FlowerRecords)
Flatwell (SHARE)
Da-Hara
Crookedhuman
banishboy

HempAccesary/
SeeK (LAM -luv above mod)

Candle/
Flatwell

Staff/
ERI-Chang

cookless

戯れ言の箇条書き・51 「それは、終わりがない、ということを意味する」

08 06, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・今年の一月だったろうか、山形出身の写真家、鬼海弘雄の展示会をみに行った。静かに鑑賞するような作品じゃなく、だからもっとみんなゲラゲラ笑ったらいいのに、と思ったけど、皆静かだった。なんだかそれを思い出して、ネットで見つけたインタビュー記事に「フイルム代がかからないというのは駄目だよ~。いくら撮っても消せて。情報写真だったらいいと思うよ。だけど、作品ということになると難しいよね。自分の思っていることを濾したり、発酵させたりするときに便利すぎてプロセスが無いから失敗をしなくなってしまう」とあってそうだよな、と思う。録音でも、ボタン一つで何度でも消せる、という時代と、アナログテープに録音して、もう一度始めるまで金と時間がかかるのとでは何かが違う。何にも違わない、と思う人はそのままやっていればいい。文章でも現行用紙やノートにペンで書くのと、テキストエディットではやっぱり違う。何かが違う。

・と書いて、中沢新一の本の序文を思い出した。五、六年前にryudenの龍大さんのライブが盛岡であって、その日龍大さんの家に泊めてもらうことになって、酒を飲みながらその本を見せてもらって、面白そうだから買ったその本のはじめの文章を、何故かずっと忘れない。中沢新一「ミクロコスモスⅡ」の序文。引用はしない。

・と書いて、こないだ読んだサンボマスターというバンドの記事を思い出した。ちゃんと聴いたことがないからどういうバンドなのかよくわからないけれど、録音は基本的に一発録りで完全にワンテイクだという記事。かっこいいな、と思った。便利なものに惑わされるな、と言われているような気がする。

・ここまで書くと思い出さずにいられないのが、やっぱりディランで、1965年のアルバム「Bringing It All Back Home 」(だったろうか?)はバンドメンバーと何の打ち合わせも、リハもせずにレコーディングが始まって、バンドメンバーはディランが何度も録音する人間じゃないのを知っていたし、このテイクが最初で最後になるかもしれない、とわかっていたから、演奏しながら、ディランのギターを弾く手を観察し、コード進行を把握しながら、その場、その場で対応していったという、なんという緊張感!! そのレコーディングについていった演奏者ももちろん凄いが、それをやってしまうディランのこわさったらない。

・Curtis Mayfieldの「Super Fly」を何年かぶりに聴きながら書く。反〜という行動をとる時に、「バン!!!!」と机を叩いて、机を倒して、部屋中のものをなぎ倒して、、、というある意味暴力的な行為は、表面的というか相殺されやすいというか、、、。それよりも、一見静かなものの中に「物事の《リズム》を根本から変えてしまう」ような何かがあるのではないか、というようなことを漠然と思う。本当に漠然と、、、。そっちの方が実はラディカルなのではないかと。よう分からんが。とカーティスを聴いていて考える。考える、というか感じる。

・書くことが事前に何もなく、書いたことに考えが触発されて書き進める。———それは、終わりがない、ということを意味する。

2012.8.6 22:54

戯れ言の箇条書き・50 「予感。予感。予感。」

08 06, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・夕暮れ。雲は薄く山の稜線がうすいピンク色に染まる。向かいの家の屋根にカラスが一羽とまっている。なんだかおそろしくかっこいい。―――空を飛ぶ。立ち並ぶ家々の屋根を見下ろしながら。その中の一つに足をおろす。向かいの家の二階には、パソコンに向かうわたしが居る。わたしはこちらを見つめている。

・デヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」をみる。というか体験する。ビビった。いやービビった。「小説はそれを読む時間の中にしかない」という言葉を強く思い出した。外からは語れない。

・何かが「ぐいらっ」と変わる予感。予感。予感。

・何かに接した時「わからないからつまらない」と言う人間のつまらなさ。ま、どうでもいいか。

2012.8.5

戯れ言の箇条書き・49 「四葉のクローバーの声が聞こえる女の子」

08 03, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・こないだ「ほんとはもっとやりたいことがあるけど、売れるためにはポップにしなくちゃ、、、」ってのが嫌いとか何とか書いた。店だって一緒かと思う。不況だとか言っても、ぶれないでやってる店には客はちゃんと行く。それは多さじゃない。濃さ。ポップにやってる(内容が薄いというか、客に媚びてるというか)ところに比べればそりゃ客の数は少ないかもしれないし、稼ぎだって少ないかもしれない。それでも「そっちに手を出したら、自分じゃなくなる」という所を曲げないでやってる人はかっこいい。やっぱりそういう店が好き。

・とんでもなく暑い。干涸びそう。でも干涸びない。湿気があるもの。それにしても暑い。

・テレビに「毎週予約」という機能があることを知って、唯一「探偵ナイトスクープ」を録画して観ている。先週の良かった。四葉のクローバーの声が聞こえる女の子、孫にひたすら泣かれるじいちゃん、生まれてきた息子にかっこいいところを見せたいと、とんでもない斜面(最後は崖)をパートナーの犬と登って行く盲目の整体師。あまり制作側の意図がなく、成り行きでしれーと進んでいくところが好きだのだろうか? わからんけど。

・「はじめてのおつかい」シリーズは嫌い。大嫌い。あんな子供が泣いたりしてるのを、よくカメラ回して平気でいるよな、と思う。「もっと泣け泣け、へっへっへ、いい数字がとれるぜー」みたいなお偉いさんがたの意図がにじみ出てる。絶対見ない。新聞のテレビ欄や、CMで「はじめてのおつかい」があるのを知ると、その度に、餓死しそうな子供をハゲワシが狙っている写真をとってピューリッツァー賞もらって「そんな時間あったらなんで子供助けねえんだ」といわれ自殺したカメラマンを思い出す。

・小学生の夏休みの八月、幼なじみのまさととじいちゃんの家まで九時間ほどかけて自転車でいって、次の日河原で日が暮れるまで箱眼鏡とモリを使ってカジカを捕ったり、流れて遊んだりして、二人とも背中だけやけどみたいになって、仰向けでは痛くて到底眠れずに、うつ伏せになって痛さに喘ぎながら寝たのを何故か思い出す。

・二十歳の頃には仙台の荒浜にスクーターで出かけ、どうせなら日焼けしてやろうと、上半身をやいたら見事にやけどして、その日のアルバイトが手につかず「いって〜」とずっと言ってるから店長がきれて「わかったから、もう帰れ!!」と怒られた。今年も鼻と目の下をやけど、これはきつかった。日焼けひとつにしても計画性がない。なにも進歩してない。

戯れ言の箇条書き・48 「変わらない、は進まない、で、つまらない」

08 02, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・久しぶりに会ったそいつは見事に太っていた。アボカドみたい。指まで太った手を差し出してきたから弾いてやろうかとも思ったけど一応握手する。「んで今、何やってんの?」と聞かれたから「きせいちゅう」と答える。「あ、実家戻ってきてんだ」「いやそうじゃなくて、寄生虫。いろんなものにたかって生きてるわけ」


・「例えばさ、あんたの喉がこうあってさ、そう、喉がこう、で、俺がそこに入って行くとするじゃない、で、落ちないように喉壁をよじ上んのよ、崖のぼりみたいに、落ちてる魚の骨使ったりしてさ、、、うううっ、、、水飲んでも、ご飯飲み込んでも落ちないわけ、それ、、、。んで、そういうもんじゃないの? なんかすげえ表現ってのは。うっ、何だこれ、ずっといる、みたいな、、、全然引っかかんないで、するするする〜って落ちて行くようなもんなんて結局どっこにも残んないで、胃液にドボンでしょ?」


・引っ掻く。世界を。彼らは引っ掻いた、世界を。引っ掻かかれた世界に刻まれるのは、彼らの名前ではなく、その行為。行為そのもの。———名前を刻むだなんてみみっちいことをいいなさんな。そういう人は自分の銅像でも建てて眺めてりゃいい。お孫さんになでなでしてもらってりゃいい。神社のなで牛みたいにつるんつるんに。


・どこかの時点ではきっと、もう僕はそこを出て行くつもりだからサヨナラ、と言わなくちゃいけないときがくるのだろう。と、ずっとずっと思っているし、それはこれから何度もあるだろう。表現の話。人が離れていくのがこわくて、今周りに居る人たちのご機嫌取りするのは最低だし。ディランだって、トムウェイツだって、マイルスだって「昔の方がよかった」だのなんだの言われながらもそこに戻ることなくやっている。昔のディランは良かった。ディランは終わった。なんて言うのがどれほど簡単でつまらないことか。自分が好きだった時代に戻ってほしいだとか、変わってほしくないだとか、どうぞご自由にだが、置いてくよそんなもん、彼らは。平然と。好かれたくてやってる訳じゃないもの。変わらない、は進まない、で、つまらない。何十年も飽きもせず「テケテケテケテケテケテケテケテケ、、、ジャージャージャージャジャ、ジャジャジャジャーン、ジャージャジャージャッジャジャジャジャーン、、、テンテケテッテ、テンテケテッテ」って決まりきったギターフレーズやってりゃ食えるし、客もそれ聞いてりゃ満足だ、みたいな奴らと一緒にされたらかわいそうだよ、前に、前に歩こうとしてる人たちが。


・たまにすんごく太い鼻毛を発見して、自分でビビる。突然変異か、と思う。と、同時に鼻毛にも白髪が増えてきていてやっぱりビビる。おじさんだもの。

戯れ言の箇条書き・47 「ただの薄いナイロン生地を羽織って」

08 02, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・「屁こいだら、ちょびっとうんこ漏れだ」と言いながら親父が二階から下りてきて、それを聞いたおかんが笑いながら「はあ!? ちゃんと洗ってきたんだが!?」と言って、そう言われた親父が「あだりまえだべ」とちょっとムッとしたように言いながら、風呂場で洗ってきたのだろう、その濡れたパンツやらを冷蔵庫の脇にある洗濯機に放り込んだ後、照れくさそうに少しだけ笑って部屋を出て行った。———ソンナオッサンニ私モナリタイ。


・近所には喫茶店のような場所が一切なくて、車を使ってもそれでもあまりないから、結局大手チェーンの店に行くしかなくなって、ああいう場所は緊張する。ほとんどが女性客で、年齢層も若い。隣に座ったアジアン系の服(っていうのか分からんが、なんやらグラデーションの染め物のひらひらしてるやつ)の女性二人組が「あー、早くオオカミ子供観に行きたいよねー」「そうだよね、早く泣きたいよねー」と話してその脇でおっさんは「そんなに泣きたいんだ、へー」と思いながらノートに歌詞になる前の断片だったり、筆任せの文章を書いたりしていく。いつも、もうちょっと落ち着く場所があればそっちに行くのにな、その方が集中できるし、と思う。けれど、「あのこきれいだな〜」と思いながら、ちょっと緊張しつつ書くのも悪くない、という、やらしい気持ちを抱きながらまた今日もコーヒーを飲みに行く。


・座った席の前に子供用のいすが置いてあって、その背もたれの部分に「対象年齢18ヶ月〜60ヶ月まで」と書かれたシールが貼ってある。わかりづら、と思うけど、このくらいならまあいい。その方式にならえば自分は「354ヶ月」ということになる。「うちの子はやっと4ヶ月で首がすわってきたところなんです。おたくのお子さんは何ヶ月になったんでしたっけ?」「おかげさまで、うちの子は今月でやっと354ヶ月になりました〜。おっほっほっほっほ」


・久しぶりに、Levon Helmの「Electric Dirt」を聴いている。2012年4月19日、ニューヨークで死去 71歳。咽頭がんか何かで手術してからのほうが歌に凄みが出てきたな、と思っていた。The Band聴こうか。


・金はなく、全然かっこ良くなく、人生の計画なぞ全く立てることが出来ない場当たりの馬鹿で、「あんた本当にデリカシーがないわね」と女に疎まれ、財布はボロボロで小銭は散らばり、酒にのまれては錆びて尖った鉄フェンスにもたれ歩きダウンジャケットのダウンが全部飛び散りただの薄いナイロン生地を羽織って玄関先の氷にあしを滑らせ頭から血を流しながら家に帰って眠り、誰に届くともない訳のわからない文章を蚊に刺されて腫れた手で書き綴り、あてもなくただただ祈るように歌い、——そう、何も出来ないけど、歌があるじゃないか、と、遠くに、近くに、未来に、過去に生きる友に向けて歌う。———ソンナ人間ニ私ハナリタイ。……トイウカ今デモ十分ソレジャナイカ。バカヤロウ。

「自分の回で完結していると思っている者の鳴らす音などいったい誰が聴くか」

08 01, 2012 | 日記.戯れ言2012

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以下、保坂和志「カフカ式練習帳」p369より

『芸術に接するときに根拠を求めてはならない。根拠はそのつど自分で作り出すこと。社会で流通している妥当性を求めないこと。芸術から見放された人間がこの世界を作ったのだから、社会は芸術に対するルサンチマンに満ちている。彼らは自分が理解できないものを執拗に攻撃する。自分の直感だけを信じること。

――途中略――

人生は自分の回で終わらない。人生は自分の回だけで閉じていず、自分の前にも後にも開いている。自分の回で完結していると思っている者の鳴らす音などいったい誰が聴くか。音を鳴らしたいと思ったとき、もうすでに人生は前にも後にも開かれる。』


この文章だけでどれだけ勇気づけられるだろうか。この本は多くの断片で成り立っている小説だから引用した文章も多くの断片の中の一つの中の一節にすぎない。短くて数行、長くても数ページの断片。引用したような文章はあくまで引用しやすい一節。これが一番よかった、というわけではなく、この小説は基本的に一節だけを抜粋することができない。最初は普通に始まっていったものが進むにつれてねじれていったり、空間が歪んでいったりするからそういうおもしろさの文章は一節単位で引用しようがない。最初から最後まで読むしかないから。それにしてもすげえな、と思う。こんなの小説じゃないとか、いう人もいるだろうけど、そんな受け取りかたしか出来ない連中をどこかへ吹き飛ばしてしまうような本。むしろ、普段本なんか読まない他ジャンルの表現者の方に率直に響くのかと思う。

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松沢春伸の日記

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