戯れ言の箇条書き・46 「それが、それで、そのまんま正しい。」

07 31, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・衝動のやうにさへ行はれる
 すべての農業労働を
 冷く透明な解析によって
 その藍いろの影といっしょに
 舞踏の範囲に高めよ      宮沢賢治

・選手を国を応援することに徹する人、選手の動きを見ることに徹する人。つまり結果、勝敗を重視する人、勝敗よりも動きを見ること自体がおもしろく感じている人。身体全体での思考、というものを感じるにはオリンピックはいい機会だと思う。一緒に見ている人がやんややんや騒いでいるのに対して、ただ、じいーっと見ている。

・柔道の解説で「うまくかわした」と表現されるその動きは言葉が追いついてこない領域だから「うまくかわした」としかいいようがないけれど、その動きの中には身体による相当複雑な思考が起こっているのだろうと思いつつ見ると、やっぱりすげえ選手はすげえなと思う(普通の人であれば、「うまく」も、「かわす」も、できないだろうし)。音楽でも一緒で言葉が追いついてこない領域がある。だったら文章は? 文章は言葉で書かれたものなのだから言葉が追いつかないことはない(言葉で説明できないことはない)、というのは多分間違いで、その根底には言葉になる以前の何かが流れているだろうし、言葉にしていく時点でぼろぼろとこぼれていく、言葉になれなかった何かがある。そのこぼれ落ちたものを見つめて(ま、見えないけど)、言葉(形)を与えていこうという場所にとどまることの出来る人が本物と呼ばれるのだろうか。

・だからスポーツでも表現でも言葉以前のものでやっているわけだし、人に上手く説明なんて出来なくていいのであって、自分がやっていることを上手く説明できるような奴は言葉で追いつける程度、範囲のことしかやってないことになる。本当にすごい人なんかは、何を言ってるんだこいつは? と一般人が首をかしげる理解不能な言葉を使うけれど、それが、それで、そのまんま正しい。

・もう十年くらい使っている財布がいよいよぼろぼろになって、小銭入れのファスナーがしまらないのにも関わらず小銭をいれてしまうものだから、財布を取り出すたびにばらばらと小銭が散らばる。何度も落として、失くしたと思っても必ず戻ってくるから愛着もあるし、小銭入れだけ買おうと思ってもう何ヶ月たつだろうか。毎回毎回散らばる小銭をあたふたと拾うのは大変で、それなりに恥ずかしくて、早く小銭入れを買えばいいだけの話だけれど、いつもそれを忘れていて小銭を拾いながら、その時だけ思い出す。

戯れ言の箇条書き・45 「せめて遠くへ届くようにと」

07 24, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・街が眠る頃に
 あなたの目は覚めて
 夜の船が行く空を
 見つめている

 言葉にすれば
 こぼれゆくもの
 祈るほか手がないのならば
 せめて遠くへ届くようにと

・受け取る側も本気で向き合わなければ、享受できないものがある。「わかりやすい」「読みやすい」「聞きやすい」「見やすい」というような評価など蹴飛ばせばいい。芸術をするということはそんなくだらない評価のために時間を捧げることじゃないでしょうに。

・「ほんとは違うことがやりたいんだけれど、この場所で売れていくためにはもっとわかりやすく、ポップな感じにするしかないんです」というそういう姿勢が見る側を客を馬鹿にしている、ということにそろそろ気づいた方がいい。「これくらいなら皆もわかるでしょう?」というのは優しさでもなんでもない。

・タチアオイの花が咲く。近所のおじいちゃんに聞いたら梅雨の終わりまで花を咲かせ続けるという。以前はちいとも興味のなかったことに興味がわいてくるのはどういう変化なのだろう。タチアオイなんて花があることを今まで知らなかった。知らなかったからといってもともとなかった訳ではなく、もちろん世界にあった。当たり前だ。目、耳、心、いろんなものが更新されて、世界がますます色鮮やかになる。


戯れ言の箇条書き・44 「そして橋は常に夢を見るものです。」

07 20, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・男A「夢だなんて、何を馬鹿げたことを言っているのだ。遠くを見て何の益がある? すぐそこに山ほどの宝石が転がっているじゃないか。」

 男B「私達は橋です。そして橋は常に夢を見るものです。夢見ることが出来なければ、それは橋ではありません。そもそもあなたはそれ以上どこにその宝石を溜め込むおつもりです? その喉に飲み込むのだ、などと思っていないでしょうに。そんなことをすればそれによって、喉を詰まらせ死んでしまうでしょうに。…………嗚呼、そうか、あなたはそれをお望みなのだ。——私どもは夢見ることを選びましょう。」

・どれくらい歩いたなら、それは「道」と呼ばれるのだろう。——などということはどうでもいい。ただただ「歩いていく」というその行為、その繰り返し、反復の中にいることだけが全てで、後ろにあるものが「道」であろうが何であろうが彼にとってはどうでもいいのでしょう。その行為は何も「道」と呼ばれるものをつくるためにされているわけではなく、「歩く」というその行為の、ただただそのまっ只中にいよう、というそういう思いを抱きながらそれを全うしようと歩いている、そのことだけがその男の誇りだと言ってもいいのでしょうし————

・やる気が出ないから、ギターを、ペンを持たないのではなく、ギターを持たないから、ペンを持たないから「あの場所」に入っていけない。常に、常に、主導権は「私」のほうにではなく、ギター、ペンの側にある。

・だいぶ前にひどく参ってしまう出来事があった時に、当時勤めていた店のオーナーに「そういう時のために仕事というものはあるんだ」と言われた。毎日同じ時間に出勤し、同じようなことを繰り返し、時間に縛られるように仕事をする。そのことが、その繰り返しの中にいることで、自分を保つ、繋げる。嫌なことを忘れるためにではなく、そのことを受け入れるために。毎日毎日同じ時間に起きて、同じことをやるというその習慣によって生まれてくるものがやっぱりある。何かを創ることにしたって、そういう繰り返しのなかにある。「そんなことに縛られたくない、そんなの自由じゃないじゃないか」という人間もいるだろうけれど、それは何かにひたすら向き合うことを忘れているのではないか。日々の訓練、その繰り返し。

・このあいだ、犬飼ともと、彼がイタリアでお世話になった女性と三人で海辺にいって、彼のワークショップで使う流木やプラスチック系の漂流物(犬飼とも風に言えば「海のカケラ」)を拾ってきた。自分の感覚でおもしろいと思えるようなものをひたすらに拾っていく、というその感じがとても面白くて子供みたいに、というと子供を馬鹿にしているかのように聞こえるかもしれないけれどそういうことではなく、何かに夢中になっているときはそうなる。そうじゃない時は(いろんな計算をして夢中になれないときは)大抵金が絡んでいる時だ、なんてことはどうでもいいけれど、その拾ってきたカケラたちが彼のワークショップを経て子供達の手によってどういうオブジェになるのだろう、とそれが楽しみ。その想像の「し難さ」が面白い。

・昨日河原に行って歌っていたら、そこに高校生が五人くらい来て、制服を脱ぎ始め、泳ぎ始めた。リーダーのような奴がいて、そいつは颯爽とパンツ一丁で川に入っていって、他の奴らは慣れていないのか、その川の深さや、流れのことなんかを気にかけながらおっかなびっくり入っていった。その光景が凄くよくて、忘れないだろうと思う。

戯れ言野箇条書き・43 「本当にすげえの見ると笑っちゃうんだよね」

07 08, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・溶けてぐにゃんぐにゃんになる。境界線がなくなる。歌う「私」は消えて、そのものが「歌」になる。歌っているのは「私」ではなく「歌」が「歌って」いるのでありわた——ということを歌っているとたまに経験することがある。主体が消える。

・上に書いたようなことは言葉にはできない、とずっと思っているが、ふうん、と思う動画があったので貼付け。
ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作

・「本当にすげえの見ると笑っちゃうんだよね。」とそいつが言ったことを思い出した。それが凄くよくわかる。本当に凄いのを見ると、感覚はついてきて、「凄い」と感じているけど、それを表現する術がなくて笑ってしまう。文章を読んでも、すげえと思うと僕はげらげら笑う。それは「馬鹿にしている」でも、「楽しい」でもなく、「すげえ」と思っているのだけれど、そうすると何故か笑ってしまう。これはどういう反応なんだろうと思う。

戯れ言の箇条書き・42 「今度は小さな虫が入ってきて、腕を闊歩している」

07 06, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・雨の夜。月の見えない夜。窓を開けたら蛾が入ってきて、部屋の中を飛び回っている。飛び回っていた蛾はまたちょうど窓際にきたので、網戸を開けたら外へ飛んでいった。今度は小さな虫が入ってきて、腕を闊歩している。その虫の名前を知らないので小さな虫としか書きようがないけれど、ずっと腕の上をあるいていたから、そのまま網戸を開けてふっと息をかけ外にやった。

・街はもう眠っているのか。街と呼べるほど素敵な所ではないが、今日は灯りが少ない。歌も、愚痴も、笑い声も、全て雨の音にかき消される。雨を好きだと思うことはなかったが、向き合ってみるとそれほど悪いこともない。

・自分が書いたものを読み返してみるとあまりにも説明が足りなくて、これじゃ誤解ばかりを生むだろうな、と思いながらも、それをもう一度説明しようとすると嘘くさくなるので、それはやめよう。

・いつもいく本屋にいった。田舎のちいさな本屋だけど、保坂和志の新刊は置いてある。他のもう少しおおきな本屋にいっても置いていない。だから本を買うときはアマゾンとかで買うしかなくなってくるけれど、それでも置いてある本屋があればなるべくそこで買うようにしている。びっくりしたのはその本屋で山下澄人の「緑のさる」が「ベストセラー。売れています」と宣伝されていて、といっても二冊しか積まれていなかったが、「えっ、この本が売れるの?」とびっくりしたと同時に嬉しくなったと同時にマジか? と思った。本屋の中で声を出して笑ってしまった。自分が読むために一冊と、妹の誕生日プレゼントとして一冊買って、友達に紹介した一冊分と、それでベストセラーだったらものすごくおもしろいと思った。馬鹿にしている訳ではなく、こんな場末の(失礼か)本屋で売れているというのは凄い。読まれるべき。

・たった今またひとつ部屋の灯りが消えた。雨はまだ止まない。

・さっき書いた本屋でようやく「カフカ式練習帳」を買った。気合いを入れて読もう。だから、今読むべきではない。本気で読むというのが、本気で書かれたものにたいする礼儀。笑いながら。本気でゲラゲラ笑いながら。

戯れ言の箇条書き・41 「来たぜ、やってやろうじゃねえか」

07 05, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・「感動を与えられるようなプレーをしたいです」とかいう高校球児が嫌い。悪い何かに毒されている。「感動させる」とかそんなのどうでもいいから、もっと真ん中にいろよ。野球というものの真ん中に、まっただ中に。感動させたいとか、そういうつもりで成されたことのほとんどがつまらないのは、やってるそいつらがそのことの真ん中にいないから。音楽でも小説でも映画でも何でも。

・といっても高校野球は好きでよく見るけれど、ただ、いつの頃からか「見ている人を感動させられるような」とかいう風潮が広まって、そういうことを言うことが正解だ、みたいな雰囲気は腹が立つ。高校生がそんなやらしい考えでどうすんだよ、と思う。

・いったい何のためにやっているのだろうとか、どこに向けて表現しているのだろうとか、自分自身もわかることの出来ないまま、ただただそのまっただ中にいる、ということだけを頼りに繰り出されていくものだけに、何かは宿っていて、そういうものだけが誰かの心に響くのだろう、とずっとずっと思っている。

・トイレに行きたくなって、一番近くにあった本を手にとって、ぱらぱらとめくったその中にあった言葉を。

「自分が作ったものに『ナシ』と判断することがアーティストの質を決める。その判断を高めるものは何かというと、耳とか目とか感覚の受容の精度なんですよね。要するに自分の作った膨大な草稿に、他人の作品に対するのと同じ精度でクリティックできるか、ダメ出しが出来るか、ということだと思うんですよ。」

もうひとつ。

「思想っていうのは、『こんなに勉強しなきゃいけないのか』『もう何をやっても無駄なのか』と人を弱らせる思想と、『来たぜ、やってやろうじゃねえか』と人に元気を与える思想との二つしかないんです。どんなに頭がよかろうと、どんなに何でも説明してやろうと、前者はダメです。思想に値しない。こう言うとすごくナイーブな考えと思われるかもしれないけれど、そうでもないですよ。ゲーテがね、自分に元気も与えてくれずに説教だけするようなものは私は一切大嫌いだ、って言い放っていて、それをニーチェが嬉々として引用している。」

・見える魚は釣れない。とよくいうけれど、そもそもそこに糸を垂らしてはいけないんだな、とふいに思った。釣れるとか、釣れないとか、そういう「結果」ではなく、自分が持っている感覚を全部使って、それに従って糸を垂らす。釣れりゃそれで万歳で、釣れなきゃそれはそれで万歳だ、というような、そういうことだけがおもしろくてやり続けるんじゃないかと。

すいません、報告したつもりでいました。歌います。

07 05, 2012 | Liveのお知らせ

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7/21(土) VORZ BAR

start:21:00  
admission:1,000yen + ドリンクオーダー

VORZ BAR
仙台市青葉区国分町1-6-1 ルナパーク一番町ビル3F
TEL 022-224-0312

すいません。告知したつもりでいました。歌を歌います。
よろしくおねがいします。

戯れ言の箇条書き・40 「つられてその人参のようなものを追いかけ回す」

07 04, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・飽きる。という感情に忠実であること。本当に飽きやすい。けれどそれでいいんだ、と改めて思えた。もう既に自分がやっていることに飽きているにも関わらず、落としどころを探して、それを惰性で続けていくことの馬鹿らしさ。そういう雰囲気は受け手にも必ず伝わる。飽きる、という感情に忠実であること。

・枠だと思っていたものをグニャグニャにする。いつまにか自分の中に植え付けられていた「こうでなければならない」というものの枠を。これってやっちゃっていいの? というような方向に放り投げる。音楽とは、小説とは、絵とはこういうものだ、というときのこういうものというのは単に「これまでがそうであった」ということであって、それに準じていなければならない、ということはない、というようにグニャグニャにする。子供の言動が型破りに思えるのは、そもそもその型がまだないだけで、大人側から見て判断する時に「型破りだ」と思っているだけで、子供側からすればそれはありのまま。そういう子供でも成長する過程でつまらん枠や型を身につけ「社会化」されていく。大事なのはもう一度それをグニャグニャにできるか、とっぱらってしまえるかなのだろうから、「子供に戻る」ことに憧れるのではなく「子供の“あの感じ”を取り戻す」あの感じとしかいえないが、あの感じはあの感じだ。「常識しらず」はただ知らないだけで、「常識破り」は知ったうえで破っていく、みたいなことか。だから多分「枠に囚われていない」という人間よりも「自分は枠にがんじがらめにされている」と実感しながらそれをぶっ壊そうと、「あの感覚」を取り戻そうともがく人間のほうが凄い。それらが擦れる場所に何かが生まれる。その摩擦の中に。

・おもしろいと思えることの幅がだいぶ狭まってきた。けれど、おもしろいと思えるものに触れているときのうきうき具合は半端じゃないというか。振れ幅が大きいというか。だから、顔にも出るし、雰囲気にも出る。これからますますそうなる、と思う。おとなになったら少しはバランスよく、上手にその辺のことはやっていくべきだと言われても、そんなこと知ったこっちゃない。つまらんものはつまらんし。

・予定というものが全然たてられない。「人生の設計図」とかそういう類いのものの一切が「こいつは相手にしても無駄だ」と吐き捨てて通り過ぎていく感じ。そういうことがいい、と言っている訳では全くなくて、ただできない。本当にできない。これは誇れるものでもなんでもなく、完全な欠陥だと思う。だから、目の前にあることばかり手につく。それに加えて目の前にあることといえば音楽のことや、表現のことばかりでそればかり考えてしまって他は散らかるばかり。もうどうしようもないとは思うし、それで何とかやっていくしかない。鼻の先に人参をぶら下げられた馬みたいなもので、私もつられてその人参のようなものを追いかけ回す。足下は散らかるばかり。

・言葉では追いつけない何かがあるように、言葉に追いつかなくては、という思いもある。言葉が矯正器具のように骨格を身体を心を変化させていく、ようなこと。

戯れ言の箇条書き・39 「踊るように創作した人だっているはずだ」

07 03, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・山下澄人が「むかし、ボブサップいう人がおって、そいつが出てきた時にはもう誰もかなわんとちゃうかなと思った。ただただ体当たりして、ぶんぶん振り回して、たまたま当たってもうて勝つみたいな。けど、ボブサップがちゃんと技術を身につけようとし始めてから急激に弱なってもうて——」というようなことを言っていて、それはそのまま芸術にも当てはまるし、山下澄人はそうならないようにしようと思っているのだろう。技術など何一つ持っていなかったころの表現のほうが、より人を惹き付けるということはあって、それは技術よりもっと大事な何か、頭で考えることの出来る何かではなく、もっと奥の方にある何かが、そのまま何の邪魔もされずに現れてくるからなのではないかと思う。何年も前のことだけれど、ジミー大西がお笑いの世界から、一歩退いて、絵の世界に進もうとしたとき、それよりもっと後の話だったかもしれないけど、インタビューで「僕は絵の勉強をしたことがなくて、何にも基礎がないから、ニューヨークにいってちゃんと勉強がしたいんです。」と言った時に「ああ、もうジミーちゃんはダメかもしれない(つまらなくなるかもしれない)」と思ったことを思い出した。技術をもてばもっといい表現が出来るのではないか? と思うのは当然のことかもしれないけれど、そればかり追ってしまうと、表現が小手先だけのものになってしまうようなこともあって、そういうことでつまらなくなっていった人はかなりたくさんいるだろうと思うけれど、そういうことを自覚できていれば、技術なんかより大事なものがあるんだ、ということを忘れてしまわなければ、それほどこわいことでもないのかもしれない。そもそも技術なんてものは、ちゃんと取り組んでさえいれば自然と身に付く(あるいは身に付いて”しまう”)もので、本当に大事なのは、その築いていった技術をもう一度捨てる勇気を持てるかどうか、みたいなことで、それは岡本太郎が「人生は積み重ねるべきではなく、むしろ積み減らしていくべきだ」と言ったようなことで、それはそのまま表現の世界にも当てはまる。こういう書き方をすると、誰かへ向けて言っているように思えるけれど、それはひたすら自分へ向けて。

・「誰もやっていないことをやりたい」とか「他人と同じことをするのは嫌だ」とか言う人がいて、つい先日も似たようなことを言われた。それを言うことがかっこいいと思っているのかもしれないけれど、音楽なら音楽、小説なら小説をある程度、聞き込んだり、読み込んだりした人なら、そして、そういう人が自分が表現する側の人間になったら、なおさら「他人と同じことをするのは嫌だ」という言葉を口にすることの難しさがわかるだろう。優れた(優れたというのがどういうことか、よくわからないけれど)表現者は優れた読み手や、聞き手であって、そういう人たちのベースになっているのは、「書くこと」ではなく「読むこと、ただただひたすら読むこと」「演奏する、歌う」ことではなく「聴くこと、ただただひたすら聴くこと」だと思う。キースリチャードがオリジナル曲についての質問をされた時に「俺がつくった曲がオリジナルだなんて俺は口が裂けてもいえない」というようなことを言っていて、それはキースのキースより以前に音を出してきた先人たちへの敬意だろうし、そういう人たちがいたから自分の音があるんだ、というオリジナルであることより、その「流れ」に自分も加われていることの喜びとかそういうものじゃないかと思う。とはいってもただの真似事である訳にもいかないし、何かを刻もう、というのは当たり前の感情だろうし、その壁にぶつかりながら、もがく。もがき続ける。というか大体「他人と同じことをしたくない」という誰でも言っているような言葉を言う時点で他人と同じことをしているのだし。——というような言葉遊びみたいなことはどうでもいいけど。

・創作というのはやっぱり歓びなのだと思う。作家とかいうと皆しかめっ面をして、カリカリして、原稿用紙をぐちゃぐちゃに丸めてぶん投げる、ようなイメージがあるかもしれないけれど、そういう風な作家のイメージはおそらく日本的なすり込みの結果(文豪とか?)であって、ずっと笑顔でなんかいれるはずはないけれど、それでも踊るように創作した人だっているはずだ。カフカはずっと書いている人だったという話を聞いた。夜中から朝までぶっ続けで小説を書いて、そのあとにそれを妹たちに読み聞かせていたらしく、そういう場面をイメージする時、カフカはやっぱり笑っている。

・自分の中で感覚的に理解していることはまだ言葉にすらなっていない何かだけれど、その何かを誰かに伝えようと言語化していく過程でその何かがガラっと変容してしまうというか、スカスカになるというか、こぼれ落ちていくというか、矮小化されてしまうというか、言葉で表されたその「何か」を見ると「いや、これじゃない」と思うことがほとんどだけれど、そういう簡単に言葉に変換できない何かをちゃんと大事にしたい。

・車で信号まちしていたら、小学生の男の子が「おとといしやがれ、おとといしやがれ」と口にしながら1人で歩いていて、それをいうなら「おとといきやがれ」だろうと思ったけれど、そう思うことが多分間違っていて「おとといしやがれ」はそのまま「おとといしやがれ」だと思い直した。

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