本気でやってりゃ、きっとどこかに繋がるでしょう。

04 30, 2012 | Liveのお知らせ

0

6/02(土) VORZ BAR

VORZ BAR 6周年記念LIVE 2nd
出演:El Skunk Di Yawdie / 睡蓮 / 松沢 春伸

ライブが決まりました。
詳細は決まり次第報告します。
よろしくお願いします。


この人大丈夫? と、ちゃんと思われよう。と思う。歌います。追記。

04 30, 2012 | Liveのお知らせ

0

5/25(金)VORZ BAR

start:21:00  
admission:1,000yen + ドリンクオーダー

VORZ BAR
仙台市青葉区国分町1-6-1 ルナパーク一番町ビル3F
TEL 022-224-0312

詳細が決まりました。
よろしくお願いします。

戯れ言の箇条書き・27  「さあ踊るように歌え」

04 29, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・暑くてびっくりして、おもわず踊る。ぐだぐだな踊り。踊りと呼べない踊り。さあ踊るように歌え。

・かなり久しぶりに「Waltz for Debby」を聴いている。どうやったらこんな音が録れるのでしょう? という今までにない聴き方をするのは、もちろん録音をしているからだが、それにしても間に入るグラスの音とか、笑い声とか最高よね。

・桜の咲き始めに吹いた強風では花は全く散らなくてすごいなと、思っていたら、今日のそれほど強くない風に花びらは舞った。舞う花を見る。

・家の壁と屋根の間の隙間にもう二十年近く前から同じ場所に雀が巣をつくっている。もう何代目になるのでしょうね? この時期くらいからだんだん雀たちの動きも活発になってくるようで、雀の鳴き声が響いている。そして蛙もまた鳴き始めている。そして私はうたっている。

2012.4.29 16:30

この人大丈夫? と、ちゃんと思われよう。と思う。歌います。

04 26, 2012 | Liveのお知らせ

0

5/25(金)VORZ BAR

VORZ BAR
仙台市青葉区国分町1-6-1 ルナパーク一番町ビル3F
TEL 022-224-0312

ライブが決まりました。
詳しく決まり次第また報告します。
よろしくお願いします。

戯れ言の箇条書き・26  「その方がメロンの気持ちがわかる」

04 24, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・同じ景色を、車で見る。自転車で見る。歩いて見る。同じ景色といっていいかわからないほど見えてくるものが違う。スピードが違うだけでそこにあるものは一緒、という意見は正解なのか? 好きな人といる時間と、つまらんやつと一緒にいる時に流れる一時間は本当に一緒か? とか、そういうわけのわからん問い。

・さっき静岡のメロン農家の人がテレビに出ていて、その人は海パン(ビキニ)一丁でメロンに水を与えている。その人いわく、その方が「メロンの気持ちがわかる」と言う。バカだと思うだろうか? 人が本気で何かと向き合う時、どうしても「標準」から「逸脱」せざるをえない時がある。何でビキニになる必要がある? と聞かれても「その方がメロンの気持ちがわかる」としか言いようがないのだ。何でもかんでも、言葉にしてみろという人間には本当のところは絶対に見えない。本当に重要なものはいつも言葉では追いつけない場所にある。けれど、それを言葉にしようともがくことの戦いはある。もちろん。

・八十五歳の、そのあなたの顔に刻まれたその「しわ」そのものが時間で、それを言葉で表す術を、持ってはいないと思ったけれど、あなたが笑顔を浮かべた時に、より深くなったそのしわを見て、やっぱり言葉では表せないと実感しました。「人間の一生」などという簡単な言葉で表しきれない時間がそこにあることを忘れてしまったら、何でもかんでも、便利さや効率で片付けてしまう側の人間になってしまう。表現する人間がそっち側についたらおしまい。

・何もないこの場所で、心満ちる。押し付けられた過剰なものに囲まれて「もういらない」と誰かが言った。誰かが本気で耳を傾けるのならば、世界は変わるのでしょう。「踊りませんか?」 と誰かが言った。

2012.4.24 22:31

戯れ言の箇条書き・25 「とホーボートレインに乗った人が言った」

04 19, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・試行錯誤。それしか信じられるものはない、という実感。「これだ」と思うものが出来上がった次の瞬間にやってくる「もっと」という思い。試行錯誤の只中にいるということ。

・三月の初めに仙台のシャフトでライブをさせてもらって、そのときに知り合った友達からキャンドルポットをもらったのだけれど、というか、それをどこかに忘れてしまって、帰宅後必死で探して、ライブ後にいった中華屋さんとかに電話しても見つからなくて、結局、シャフトに置き忘れていたのを涌谷在住の友達に見つけてもらったのだけれど、ずっとそのキャンドルポットを気に入っていて、今もランタンとそのキャンドルの灯りのなか文字を打っている。そのキャンドルポットの外側には麻ひもが編んであって、それがキャンドルの炎が揺れるたびに影の姿を変える。それを見ているだけで飽きない。人間もそういうものだきっと。固定しているようで、常に変化してゆらゆらと揺れている。

・こんなことを書くとどうしてもそう。焚き火だ。もうそういう季節。

・馬鹿をやる。馬鹿だからしょうがない。まっすぐに、正直に。それでぼこぼこにされても構わない。「こんなの誰かに届くのだろうか?」というものを本気でやれば、だれか1人には届く。それはとんでもない確率かもしれない。その誰かに届いたときに自分が生きているかどうかなんてあまり関係ない。

・「未だ出会ったことのない古き良き友のもとへ連れて行っておくれ。」とホーボートレインに乗った人が言った。言葉として矛盾しているだろうか。全然矛盾していない。そういう友達はたくさんいる。はずだ。

戯れ言の箇条書き・24  「気軽に聞かれることを拒むような」

04 17, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・全部棄てたことによって、なんだかやる気が出てきた。初レコーディングという枠に囚われてしまって、軽やかな足取りを忘れていたようだ。自分自身が嫌いな、のぺらーっとしたものをつくりつつあった。運動性がそこにはなかった。歌をぐんぐんと引っ張っていくような「何か」がなかった。仕切り直し。今日、気がつけて良かった。足場屋さんが作業を始めた時は「まじかよ」と思ったが、そういう日だったのだ、今日は。

・「緑のさる」を読み終わった後、山下澄人が気になって仕方がない。ツイッターの読み方もあまり分からないけれど、パソコンを開くたびにチェックしている。18日には保坂和志の新刊も発売される。ドキドキする。

・ドキドキする。と書いたが、本当に好きだと思える表現者の新しい作品に触れる時は本当に緊張する。なんとなくいいな、程度の人のものだったら気軽に聞いたり、読んだりできるけれど、本当に好きな人のものは、自分がそれについていけるかどうか、とか、つまんない方向に走っていないか、とか、さらに前に進んでいるな、とか、そういうことを本気で考えるから緊張する。それって重要。気軽に聞かれることを拒むような、「聴かれる」ようなものがあったっていい。

・好きな歌手の新譜をケースから取り出し、デッキに入れる時のあの、ドキドキ。

・山下澄人の最近のツイートから「金持ちよ。無駄に寿司を食うなら天才に寄付をせよ。そのかわり見たこともない宇宙の扉を開けてやる。」


戯れ言の箇条書き・23  「全部棄てます。」

04 17, 2012 | 日記.戯れ言2012

2

・隣の家が屋根を塗り替えるらしく、足場をくみ始めてしまって録音が出来ない。ということで、録音して、ためていたものを、CDに焼いて(モニターがないので)コンポで聴いてみることにしたらヘッドフォンで聴いていたのと全く違ってとんでもなくびっくりした。とんでもなく焦った。何じゃこりゃ? だった。だから、ついさっきまで本当にあたふたしてた。原因を見つけた。ヘッドフォンをつけて録音していたからで、全然声が出ていなくて、全く自分の歌じゃなかった。みみっちい歌。(よくいう、自分の声を録音して聞くと違うように聞こえて恥ずかしい、とかそういうことじゃなくて……)根底からひっくり返ってしまったので焦ったけれど、急遽ヘッドフォンをつけず普段通り歌ったものを録音して同じようにCDに焼いて聴いてみたら、やっと自分の歌がそこにあったので安心はしたけれど、あんなクソみたいな音を聴かせる訳にもいかないので、全部棄てます。ゼロから録音をし直します。

・こんなことは録音をしたことがある人ならわかるのかもしれないけれど、初めての録音でモニタースピーカーの重要性も、ヘッドフォンをつけながら歌うことでこんなにも歌が変わるだなんて分からないまま録りためてしまっていた。ほぼ完了していたと思っていただけに悔しいけれど、これはしょうがない。保坂和志も言っていたじゃないか。途中まで小説を書いていたとしてもダメだと思ったら「全部棄てろ」と。もったいないから途中からやり直すなんてことはするなと。だから、棄てます。さようなら、えいやっ!!

・待ってくれている人がいるかどうか分かりませんが、そういう訳で音源が出来るまでもう少し時間がかかりそうです。この失敗を受け入れて進みます。前に。

2012.4.17

戯れ言の箇条書き・22 「のぺらーっとしているよりずっとずっといい」

04 12, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・なんだか頭がもやもや。してた最近ずっと。ここ数日何となくすっきりしてきたような気がする。季節に反応するものなのかどうか。そういう流れ。新しい緑が生まれる季節になる。人間だってそうなのだろう。フキノトウがやっと大きくなってきた。

・松本人志っていつも円の外にいる気がする。出演者が作る円があっていつもその外にいる。自分自身がその円の中にいても、もう一つカメラが別にあって視点がそこにある。あの人の「笑い」が基礎になりつつあるような時代で、それを追う人がいるのはわかるが、あれは「学」でどうにかなるものではないでしょう。inしたらあれはできない。あれはどう考えても身体性。

・面白いと思えることが限定されていくのは、感受性が乏しくなってきたためではなく、むしろ鋭敏になっているからであって、といいたいところだが実際どうなのだろう。表現する立場にいる人間がそうであるとしたら、それは自分自身の「表現」にも厳しくなるはずで、それは大変なことだけれど、その中で自分自身に「この野郎、馬鹿野郎」と喧嘩を売りながらやり進めていくことはそれだけで力になる。

・失敗をなるべく排除したものがいいものだという考えのもと作られたものは大抵面白くない。のぺらーっとしている。悪くはないがよくない。はみ出したものが好きと前に書いたけれど、そうやってはみ出した結果生まれてきたものを「これいいじゃん」と思えることは大事で、ほとんどの人が「これ失敗じゃね?」と思えるようなものでも、その一瞬に何かドキッとするものがあればそれでいい。のぺらーっとしているよりずっとずっといい。と思う。

2012.4.12 23:14

戯れ言の箇条書き・21 「でも、まあ、すぐ忘れる」

04 11, 2012 | 日記.戯れ言2012

2

・音楽自体(音源として)は変わらないのに、それを受け取る自分の立ち位置やコンディションでそれがまるっきり違ったものに聴こえることがあって、面白いなと思う。ただの音楽好きリスナーとして聴く時と、歌う人間として、録音する人間として、編集する人間として、聴く姿勢によってそれぞれ違った聴き方が出来る。自分勝手な聴き方しかしないもんだよな、とつくづく思う。

・簡単な言葉を使ってなんだかよくわからんことを書くというのは一つの理想。簡単な言葉だから、簡単だと思われるかもしれないけれどそうじゃねえぞ、と。一方で難しい言葉ばかり使って難解そうな文章を書く人がいる。一見頭が良さそうに見えるかもしれないが、よく見たら空っぽ、スッカスカじゃねえかというような。そういう人は「わからないと恥ずかしい」と考える種類の人間の弱さにつけ込んでいるだけじゃないか、と思ったりする。

・曲の説明をしてくれ、といわれても困る。どういうことを言いたくて書いたのか? とか、何を意味しているの? とか。そんなの正直自分でもわからない。本人なんだからわかるでしょう? という人は相手にしたくない。そういうことをいう人は自分で表現をしていない人だ。表現を真剣に考えていない人だ。「なんなんだ、これ?」「わっからん」というものが表出してきて、そういうことがあるから書いたりすることが面白い。これから書くものをすべて自分が把握しているならば、そこには書く喜びなんてないじゃないか。というのが自分の立ち位置。

・いつもながら自分の計画性のなさに呆れる。呆れると書きながら別に気にしてる訳ではないけれど。ごくたまにそう思うことがあって、でも、まあ、すぐ忘れる。昔からそんなんだから、「安定した職業」とか「老後も考えて」とかそういうワードに興味がないし、そういう言葉を発する人間にも興味がない。これは性質か? ずっと変わらんだろう、とは思う。

2012.4.11

戯れ言の箇条書き・20 「デタラメばかりいう猫」

04 09, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・本当に書くべきことが見つかるまで待とう。それは大変だが、それしかない。嘘を連ねるくらいならば、死んだ方がいい――とその猫はいった。

・大きな回る車輪を、ひとつの小石で止める。ひとつで足りないのならば、いくらだって集めればいい。「目には目を、歯には歯を」ではなく「大きな車輪に小さな石を」大きなものを変えるのは、大きなものではなく、彼らが見向きもしないような小さなものの集合体。

「その手撃たれて」

その手撃たれて
もはや何も描けやしない
世界の変わりゆく姿も
あなたの潤んだ目も

その手撃たれて
飛び散る赤の中に
初めて胎動をきいた
初めて始まりをみた

その手撃たれて
この溢れ出す赤で
描いてやろうか
始まりの夜を

・デタラメばかりいう猫

2012.4.9早朝ベッドにて。

戯れ言の箇条書き・19  「どうか手拍子でもしておくれ」

04 08, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・言葉にしようとすればするほど、迷う。明確になることもあれば、その明確にしたことによってまた新しい疑問が生まれたりする。わかることができない。いつまでたっても。糸を辿っていけば、その先に糸の先端、終わりがあるようなものではなくて、糸そのものが新しい糸を紡いでいく。そこには終わりがない。いつまでも途上なのだ。とはいえ、それを受け入れることが出来たとしたら、やるべきことは一つ。前へ。

・「こいつ頭おかしいんじゃないの?」と思われるような表現。それが、最近のテーマの一つではある。難しい。どこかで自分自身に歯止めをかけるから。どうしても人は、受け入れてもらいやすい方に傾く。本当の意味で他人の評価や目線を度外視して表現できる人間はそういないのはわかっているけれど、そういうことも受け入れながら、やっぱりそういう「振り切れ方」に憧れる。尊敬すべき表現者は皆そういうところにいる。それはその人が元々持つ特性という訳ではなく、決意、覚悟の結果であって、それはそのまま彼らの戦いだ。

・上手い。ということをやたらと強調してくる人(例えば歌、であれば歌う側、聞く側どちらにしてもこういう人)がいるが、表現にとって「上手い」などということは、要素の一つであって、目的ではない。そこに溺れてしまうと本質が何も見えなくなってしまう。「上手い」ことが出来る人間は、それを捨てる、もしくは要素の一つに過ぎないということをわかろうとしなければ、重要なことがいつまでたっても見えてこない。

・前にも書いたのかもしれないが、世界の見え方を変える、その視点を持ち込むのはいつだって馬鹿な奴らだ。愛すべき馬鹿どもが踊ったのなら、どうか手拍子でもしておくれ。そのリズムに乗せて、彼らは何度でも舞うことが出来る。愛すべき馬鹿どもが踊ったのならどうか笑っておくれ。彼らは舞う。舞踊る。続ける。つなげる。

2012.4.8

戯れ言の箇条書き・18 「非サディぶりに」

04 06, 2012 | 日記.戯れ言2012

0

・2011年3月11日に起こったことが、3・11(サンテンイチイチ)と記号化されていきつつあることへの違和感。それは、私は「松沢春伸」という名前を持ってはいるが、「松沢春伸」という記号だけでは「私」をとらえきれない、であったり「松沢春伸」という記号は「私」ではないということ、に似ているかもしれない。

・「百聞は一見に如かず」という言葉があるが、この言葉ができた頃の「見る」ことは実際に生で見ることだったろう。映像ではなく。身体ごとその場所に運ぶ。そうでなければ感覚できないものがある。その意味での「見る」だ。今の時代に生きている私たちはそこを勘違いしているような気がする。映像や写真で見たものを「一見」に入れてしまっていいものか。震災の被害を受けた地域に足を踏み入れたときの、感覚がぶっ壊れてしまうかもしれないというほどの圧倒的な光景。そこには匂いもある。去年の五月、実際に南三陸町の光景を見たときには「今までは何も“見て”いなかったんだ」と思い知らされた。絵だって、音楽だって、桜の蕾だって、実際に生で見て、触れるのと、映像や写真で見るのでは全く別のものだ。そのことをもう一度大事にしたい。便利なものはたくさんある。度が過ぎるほどに。けれど、ライブなどの映像を動画サイトで見たからといって、ライブを見たと思われたらやっぱり困る。テレビ電話が出始めたときも、遠くに住んでいる祖父母といつでも顔を見て話すことが出来る、というような宣伝をしていたけれど、それは結局「実際に会う喜び」を遠ざける。

・非サディぶりに。久しぶりに、と打とうとしたら、こうなった。中途半端なブラインドタッチしか出来ないとこうなることが多々ある。変だから、残しておこう。

・久しぶりに「男はつらいよ」を見た。第三十五作「寅次郎恋愛塾」マドンナは樋口可南子。シリーズの中でも今作は時に面白かったな、と思う。やっぱり好きです、寅次郎先生。他にゴダールの「勝手にしやがれ」とジム・ジャームッシュ「ストレンジャーザンパラダイス」を借りたけれどまだ見ていない内にもう返却期限がきたから、もう一度借りることになる。

RSS
プロフィール

Author:harunobiwonder
松沢春伸の日記

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ