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戯れ言の箇条書き・17 「えいやっという心意気でそっちに賭けることのできる人が好き」

03 28, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・「わあ、アルプスみたいだね」と、ある少年が口にして以降「アルプススタンド」と呼ばれているその場所で、青いウィンドブレーカーを羽織った高校生達は、ヒットを放って一塁を回った選手に向け歓声をあげている。――これだけの短い文章を書いている間に、もう相手チームの攻撃へと移っている。ある一つの情景を言葉で再構築することの難しさ。

・一つの疑問が今浮かんだ。「青いウィンドブレーカーを羽織った高校生達は、ヒットを放って一塁を回った選手に向け歓声をあげている。」というような文を読めば、何となくどういう光景なのか浮かぶ。人それぞれ微妙に想起するイメージは異なったとしても大体似たようなものになるだろう。甲子園の映像を見たことのある人ならば。「高校生」と文字で書けば何となく高校生が浮かぶ。通常文章で人間を書くときに、それが誰か個人を特定するように事細かな書き方はしない。けれど、それは書く側、読む側が視覚というものを共通のツールとして使えているからなのではないか? 五感のうち、ほぼ視覚に依存しているのが人間で、普通文章を書く時に、書く側は、読む側の人間が「見たことのあるもの、こと」を前提として書く、というか、なんというか。だから見たことのないものが描写されていたり、時間軸とか空間が歪んでいる文章を読んだりするとそれまでの世界が揺らぐ。何を書いているのかわからなくなってしまった……。――そういえば、最初の疑問というのは、視覚に障害を持つ人の書く小説というのはどういう形をしているのだろうか? ということで、そこには聴覚、触覚、嗅覚など視覚以外で認識されたものが多く書かれるのか? 心理の描写が多く書かれるのか?

・最近とくにこの傾向が強くなってきたのだが、あらかじめ用意されていたものをなぞるだけのライブとかが面白いと思えなくなった。用意されていたものからはみ出てしまう何かが好きなのだ。あるいは、はみ出たものを受け入れて「えいやっ」という心意気でそっちに賭けることのできる人が好きなのだ。これはちゃんと言葉で書きたいと思うけれど、まだ難しい。

・「そこに愛はあるのかい?」と一つ屋根の下のあんちゃんは言ったが、その言葉をたまに思い出す。単純だけれどなんだかいい言葉だなと思うときがある。

2012.3.28
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戯れ言の箇条書き・16 「その意識のバッと移る感じ」

03 26, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・磯崎憲一郎の「赤の他人の瓜二つ」と山下澄人の「緑のさる」を読了。小説をどうのこうの語ることの出来る言葉を持たないが、世界が揺らぐ小説。

・小説を読む時は一人でしか読めない、ということと同様に、基本的には音楽も一人でしか聴かない。BGMとい考え方もあるが、集中して聴こうとすれば、やはり一人で聴くしかない。僕が本当に大切にしたいと思う音楽はそういう音楽で、だから出来ることなら自分もそういうことがしたい。一人で聴かれることに耐えうる、集中して聴かれることに値する強度、濃度。

・コンビニにビールを買いにいったら雑誌のコーナーに「図解 二分でわかるニーチェ」のようなタイトルの本があって、遂にここまできたかと思った。立ち読みする価値もない。二分でわかってどうしようというのだ? そもそもわかってどうするのだ? どれだけの時間を費やし、どれだけの言葉を紡いできたのだろう彼は。最後には発狂するに至った彼を。それを二分で……。馬鹿にするのもいい加減にしろよ。この文章を読んでいるあなたのことを二分でわかると言われたらどうだろう? これは今の時代が生んでいる一つの象徴的な悪だ。それより、馬鹿な奴らは放っておこう、か?

・土曜日に畠山美由紀のジョニミッチェルナイトを見に行って、どこが一番良かったかといえば、終盤ゆったりとした日本語の曲の途中で、後ろの方の席でおそらく子供が何かを落としてカラカラという音が響き、少ししたらもう一度何かを落としてカラカラと同じ音がしたところで、(僕はいつも目をつぶって音を聴くのだけれど)その音が鳴った瞬間、畠山美由紀の歌に集中していたたくさんの人の耳が一気にそのカラカラという音に動いて、おそらくほとんどの人が「邪魔だ」と思ったのだとは思うけれど、僕にはその意識のバッと移る感じがとても面白いと思えた。それも二回というのがいい。一度歌の方に戻りつつある耳がもう一度動く。映像でいえば、一人の人間に寄っていた画面が急にその人間のいる街全体を映すような画面にギュッと変わる感じというか。うまくいえないが。

2012.3.26

戯れ言の箇条書き・15 「もういちど軽やかな足で跳べ」

03 21, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・ロープと木で作られたはしごの途中にわたしはいて、振り落とされないように両の手と、両の足でそれにしがみついている。頭上を見上げれば心の隅まで支配されてしまいそうな、完璧な月がそこに在って、それはわたしではない誰か別の人、わたしより遥か昔にこのはしごを登った人や、わたしより遥か未来にこのはしごを登る人のためにそこにあるのだろうと思えた。下を見れば、これまで掴んで登ってきたはずのはしごの先はもう見えず、これから掴むであろうはしごの先もまた月明かりに溶けて見えない。ただ不安と共によるべなく手を差し出したその先にだけ次の枝が待っていて、わたしはそのような行為をこれまでも続けてきたのだし、これからも続けていくのだろう。月明かりの中を鳥が二羽互いに円を書くように飛んでいる。男が次の枝に手をかけようとするその時に、どこか別の場所で、別の誰かははしごの途中で月を見ていて、また別のはしごの途中で、別の誰かは口笛を吹きながら、その下に見える月明かりに照らされた大きな森の中程に一本そびえ立つ背の高い木の上で陽気に舞踊る影を見て微笑んでいる。歌声にも似た夜の風が吹く。夜は満ちる。

・季節の変わり目はいつも鼻のつまりがひどい。鼻がつまると歌を歌うのも大変だから点鼻薬は欠かせなくなって、ライブなどで出かける時に忘れ物はないかどうか必ず最初にチェックするのが点鼻薬でその次がギターだろうか。鼻がつまって脳にあまり酸素が行かなくなると作業効率がだいぶ下がるんです、というようなことをテレビで見たけれど、そうだとしたらほぼ万年鼻づまりの僕はだいぶ損してることになりそうだけれどまあ仕方がない。

・天才――とか言われている子供たちのほとんどがつまらない。ジャンルがなんであろうと、その子供達を天才だといって騒いでいる人たちは実際にその世界で表現をやっていない人間だろう。何がつまらないのかと言えば、単純で、大人にならないと出来ないようなことを子供なのに出来る(それはほとんど技術という面でしか見ていない)という見方しかしていないからで、一部の馬鹿な大人達が馬鹿な大人達を巻き込んでがキャーキャー言いながら、金を稼いでいるに過ぎない。大人になっても出来ないような発想とか、大人になっていく過程で矯正されて失くしてしまう視点とかそういうものがあるから子供と接しているとびっくりさせられたりするわけで、子供の時代から大人と同じようなことが出来るなんてことはつまらないことでしかない。誰かの金儲けにつきあわされているだけだ。大人になる過程で矯正を強いられ、失くした何かがあることに気づくこと。がんじがらめになっている自分に気づくこと。あれ、もっと自由でいいんじゃないかと気づくこと。多分本当の自由というのはその先にあると思う。もういちど軽やかな足で跳べ。

・居酒屋でふきのとうの天ぷらを食べた。まだ雪が残っているから僕の周りではまだ見かけないけれど、初物のふきのとう。美味しかった。ビールを日本酒に切り替えてふきのとうをつまみながら飲む。なんだかんだで飲み過ぎてしまう、というのは言うまでもない。

2012.3.21

戯れ言の箇条書き・14 「やっぱりそれではつまらないのです」

03 18, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・そんなには飲んでいないはずだ、酒を、と思いながら目を覚ます。水を飲みたくて仕方がないが、時計を見たらまだ五時を過ぎたばかりだし、もう一度寝ようと思いはするものの、やっぱり水が飲みたくて階段を下り、水を二杯飲んだ。こうなると大抵目が覚めてしまうから、布団から手を伸ばして書いている。だから何も書くことはない。カーテンの隙間から漏れだした光はもう太陽が昇りつつあることを示していても、天気予報を知らないからカーテンを開けるまで、その隙間から漏れる光が快晴のまばゆい光なのか、曇りの日のただ朝を知らせる光なのかわからない。カーテンを開ける楽しみ、あるいは憂鬱は多分そこにある。鳥の鳴き声は今は聞こえない。

・太陽と月のワルツ。与えるもの、と、受け取るもの、が踊りを、踊る。混ざり合う、溶け合う。産声をあげるは別の新しい朝。踊りましょう、太陽と月のワルツを――

・思うところあってブログ内の拍手の表示を消しました。拍手を見るとなんだかやっぱり気になってしまってどうしても言葉が外向きになるからです。なんというか小学生のころの習字を金賞とか、銀賞とかもらえるように書いてしまうみたいなことで、やっぱりそれではつまらないのです。こんな文章誰が読むんだろう? と思いながら書いているし、実際誰が読んでいるのか全くわかりませんが、言葉をもっと探すために書きます。それは多分、自分自身を確認、更新していくことにもなるのでしょうし。ブログの中の広告も消したいと思っていて、調べたらそれができるようだったのでそれも消します。なんだか26日までは表示されるみたいですが。シンプルにシンプルに。さて、もう起きましょう。カーテンを開ける時間です――

2012.3.18

戯れ言の箇条書き・13 「いつも延々と吠えている隣りの家の犬は今日は吠えない」

03 16, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・窓から見える公民館の屋根に積もる雪もだいぶ嵩を減らした。紅葉の徒長枝は春の光に向かってその枝先を伸ばし、まだ少し冷たい風のなかで揺れている。灯油を入れにいくにも大変だった庭先の雪も表面をきらきらと煌めかせながら解け始めていて、長靴を履いて灯油タンクのところまでいき、小さなコーヒーの空き缶に300mlほど灯油をつめたけれど、屋根の下、庭の端っこのほうはもう芝が見えていて、この雪の量であればもう長靴はいらないかもしれないと思った。空き缶に入れた灯油をランタンに詰め替えてからコーヒーを飲んでいて、何も書くことが見当たらないまま書き始めてしまったから、こうして書いている訳だけれどBGMがなくて寂しいので、何かかけようと思っているのだけれど、書きながらではあまり思いつかない。――悩んだ結果Karen Daltonにした。僕は彼女が好きなのです。本を読む時は音楽をかけない。出来るだけ集中して、受け取れるもの全部受け取りたい。日本語の曲がかかるカフェには行けない。目からも、耳からも日本語が入ってくるのはきつい。簡単にBGMにならないような音楽をやりたい。邪魔で邪魔でしょうがない、と思われるものを。小説だって、集中しなければ読めないのだから。コーヒーが冷めてしまって美味しくない。そうこうしているうちに日が暮れるぞ。僕はディランのノーディレクションホームが見たかったのだ。紅葉の枝に雀が一羽止まってキョロキョロ首を動かしている。けれど、よく見たらそれは雀ではなく尾の黄色い別の鳥だった、と書いてるうちにその雀ではない鳥はどこかへ行ってしまった。いつも延々と吠えている隣りの家の犬は今日は吠えない――

・3月11日の14時40分ごろといえば、渡波小学校に向けて398号線を車で走っていて、ぼろぼろと泣いていた。誰の記憶かもわからないようないろんな映像が頭に流れ込んでくる。一年前の3時30分ごろ、この道路を走っていた人たちはどんなに、どんなに恐かっただろうか。被災した人たちの、その恐怖を悲しみを僕らは「わかって」はいけないのではないか? テレビで流れる映像を見て、大事な人を津波で失くした人の話を聞いて、涙を流したくらいで「わかる」だなどと言ってはいけないのだ、そんなに簡単に。被災した人たちの言葉にすることの出来ない悲しみ、まだ悲しみとしてさえ定着していない「何か」、そういうことを「わかる」と言ってしまうことは僕には出来ない。「だから」でもなく、「けれど」でもなく、ただただぼろぼろと泣いた。

・石巻で出会った家族や、子供達。僕はただただ友達でありたいと願っています。ただの普通の友達として。彼らの明るさ、たくましさに触れて励まされている自分。もっと強くならないといけないよな。強くなろう。「優しく強く」と書いたのは土門拳だったろうか? リハビリ中? 左手で?

2012.3.16


何度も何度も花は笑う

03 14, 2012 | 日記.戯れ言2012

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校庭の片隅に立つ一本の枯れた松の上で雀たちは飛び回り、鳴き合っていて、二時四十六分から始まった一分間の黙祷のためのサイレンの後、子供たちはまたサッカーボールを追いかけ始めた。

もう一度枯れた松の木を見たら、雀たちはもうそこにはいなくて、校舎側にある松にその雀たちが移ったのか、あるいは別の雀たちがやってきたのかわからないけれど、そこに雀はいてその鳴き声は校庭に鳴り響いていた。

校庭を取り巻く曲がってしまった緑色のフェンスの内側には桜の木が立っていて、小さな丘に登りその枝先を手に取って見たらそこには新しい花芽がちゃんとついていた。

今年もまたこの校庭に桜の花は咲くのだ。

――何度も何度も花は笑う、そう、何度も何度も花は笑う。



それは祈りにも似て……

03 12, 2012 | Liveのお知らせ

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松沢春伸Live
4/20(金)VORZ BAR
start:21:00
admission:1000yen

VORZ BAR
仙台市青葉区国分町1-6-1 ルナパーク一番町ビル3F
TEL 022-224-0312

ライブが決まりました。
よろしくお願いします。

戯れ言の箇条書き・12

03 08, 2012 | 日記.戯れ言2012

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・小さなことを書きたい。前にも書いたことだけれど、誰の目にも見えて誰の目にも見えないことを書きたい。小さすぎて、ありふれすぎて、日常から溢れでてほとんどの人が、当事者さえも気づかずに、すぐ世界の片隅に消えていってしまうような行為や光景を書きたい。それらを拾い集めて形を与え、誰かの目に、耳に触れるように。世界にはこんなにも愛すべきものがたくさんあるではないか? と。社会に対する憎しみを、政治に対する不満を、自分の孤独さをただただ吐露していくことは誰にでも出来ることで、それは容易い。何かを肯定していく術を、世界の別な見え方を様々な方法で提示していく。表現というのはそういうことのためにあるのではないか? 小さなことを書くというのはその一つの手段だと思う。

・火が好きで、焚き火はやっぱり好きで、でもまだ時期的に早いから焚き火しようよという話にはならないけれど、もう少し暖かくなって焚き火が出来るようになるのをウキウキして待っている。焚き火の良さがわからないという女性に友達の犬飼ともが「男の浪漫をわかってねーなー」と言って、僕も「そーだ、そーだ」と激しく同意したのだけれど、焚き火を見てなにも感じない人とは友達になれないんじゃないか、とさえ思う。僕は作曲する時にはランタンだけを点けて、その灯りだけで歌ったり、ギターを弾いたり、書いたりする。こだわりといえばこだわりだ。基本的に夜は小さな灯りで十分で、ビカビカした蛍光灯の明かりはあまり得意ではない。蛍光灯の下じゃあんまりいい曲が出来ないような気もする。フュアーハンドランタンといってロウソク四本分くらいの明るさしかなくて、それのなにがいいかわからないと言われればそれまでだけれど、やっぱりいい。男の浪漫を感じるわけ。

・この季節になるとあたりまえだけれど「春」という言葉が頻繁に使われることになって、「春」が付く名前を持って、常に「春」と呼ばれている人間として、なんだか自分のことを言われてるみたいに思えてしまうことがある。だからいちいちテレビやラジオから聞こえてくる「春」という言葉に反応してしまって、気持ち悪いけれど一人でにやけたりしている。「春よ来い、早く来い」と歌われれば「はいはい、今行きます」と答えてしまいたくもなるのだ。

2012.3.8

歌を歌えば大丈夫。

03 06, 2012 | Liveのお知らせ

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4/4(水)Bar Tarji SHIBA LIVE
出演 SHIBA(Vo,G) 今井卓哉(Ds) / 松沢春伸
Open 19:00 Start 19:30 チャージ2000円(ドリンク別)

Bar Tarji

ライブが決まったので報告です。
山形では久しぶりのライブになります、よろしくお願いします。

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松沢春伸の日記

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