ピカソまたは太郎の言葉――ドラマ――

12 18, 2009 | 戯れ言2009 

0
●ドラマ

――芸術家の作品が問題ではない。芸術家自体のあり方なのだ。たとえセザンヌが彼の林檎を十層倍も美しく描いたとしても、もし彼がジャック・エミール・ブランジュ(現代の著名な官展派画家)のごとき生活をしていたとしたなら私には少しも興味がないだろう。われわれにとって重大なのはセザンヌの懐疑、教訓であり、またゴッホの苦悩である。すなわち芸術家のドラマなのだ。あとのすべては嘘偽である。

岡本太郎「青春ピカソ」より


追記

これはピカソの言葉ではあるけれど、同時に岡本太郎の言葉でもある。

方向音痴であります。

12 17, 2009 | 戯れ言2009 

0
『方向音痴であります』

方向音痴であります
北も南もわかりません

「あなたはどこに向かっているのですか?」
と尋ねてくる人もいるにはいるのですが

「目的地」というものを
持ったことがないものでして……


方向音痴であります
東も西もわかりません

私には、ただ

歩いている
歩き続けている

という感触だけが全てなのです

2009.12.17

追記

僕らは「方角」や「目的地」という事ばかりに意識を取られ、単純な「距離」というものの持つ「価値」を見失いがちだ。そして、方向音痴の彼は、ただひたすら歩き続けるのだと思う。





エラ&ルイ&ビア

12 16, 2009 | 戯れ言2009 

4

外は寒く、雪のにおいがします。
雪国で育った人にしかわからないかもしれませんが、雪のにおいのようなものはあるのです。

そして、これだけ寒いのですから、ビールは冷蔵庫に入れずにベランダで冷やすのです、僕は。

何本かをベランダに置いて冷やしておいて、一缶飲み終わったら、ベランダにまた一本ビールを取りに出かけます。
その度に雪のにおいがして、こりゃ明日は雪ですね、と思うわけです。

――後ろではエラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングが二人一緒に歌っていて、聴き入っているうちにキーボードを打つ手が止まっていました。

星がさっきとだいぶ違う位置にあるのですから、だいぶ時間が経過したのかもしれませんが、どれくらいたったのかは分かりません。

よく分からない文章はやめにして、残りのビールを飲みながら、エラ&ルイの歌を聴くことにしましょう。

2009.12.16

小説・磯崎憲一郎『肝心の子供』のこと。

12 15, 2009 | 戯れ言2009 

0

「肝心の子供」に打ちのめされてしまっている。

ここ最近ずっと僕が考えていた「大きな流れ」という言葉が小説のなかにそのまま出てきたことにも驚いたし、こんなタイミングで自分が考えていたことがそっくりそのまま書いてある文章に出会ったことにも驚いた。

おそらく磯崎憲一郎はその「大きな流れ」の「一部」になりたい、と感じているのだろう。

表現というものが「個性の発露」とか思われている時代に、こんなことを書くのは馬鹿げているのかもしれないが、「大きな流れ」の前では「個性」なんてものは簡単に淘汰される。(とはいっても「大きな流れ」の一部になりたいと感じることは既に少数ではあるだろうけれど……)

大体、今の時代、個性というのは、単に「奇抜さ」だとしか捉えられていないのだろうし、その奇抜さというのも大抵が相対的なものでしかない。「他の人がやっていないことをやろう」というのは既に他人を想定してのことなのだから。

(どうでもいいことだが、よく「他の人がやっていないことをやりたい」というような人がいるけれど、他の人をそれほどまでに意識している人に本当の個性があるとは思えない。AとBという選択肢があったとして、他人がAを選んだから、私はBを選ぶ、ではどう考えても、そこに個性なんてものはない。もっと意識すべきことはたくさんあるはずだと思う)

ここに書いてあるように、僕は「個性」という「もの」、「言葉」にあまり興味を持てなくなってしまった。考えなくちゃいけないことは個性とは違うところにあるような気がしている。そしてそれは「大きな流れ」の中にあるのだろうか。

Neil Young の歌詞に「I Have A Friend I've Never Seen(僕にはまだ出会ったことのない友達がいるんだ)」というのがあって、僕はひどく共感した。

今日の文章はほとんどの人が「はあ?」と思うだろう文章だと思うけれど、僕はいつも「未だ出会ったことのない友達」に向けて「何か」を書きたいと思っている。

2009.12.15

流るる時間をね……。

12 03, 2009 | 戯れ言2009 

1
流るる時間をね、僕は書きたいと思っていろいろ書いているんだけれども、80歳のおじいちゃんの手のひらに刻まれた皺(しわ)なんかを見ちゃうと「ああ、俺は何にも書けないわぁ」と思っちゃうわけです。

僕がどんだけかっこつけた言葉で「時間」というものを書こうと思っても、その皺(しわ)だらけの「手」を見たほうが――圧倒的!に――「時間が流れるってこういうことなんだ」ってわかるんですもの。

その人に娘が産まれて、その娘が成人して、孫が産まれて、その孫を初めて抱きかかえた時の喜びとか、何十年もの長い時間、庭木の手入れをしていたから松ヤニが付着して爪が真っ黒だったりとか……。

簡略化なんてしきれるはずがない「80年」という時間がそこに(文字どおり)――刻まれている。

そういうのを実際に見ることのほうがよほど「時間」というものを実感できるんじゃないかと思う。

だから僕がこうして書いていることなんか、ものすごく、ちっぽけなことなんだけれども、「その皺にはたくさんのものが刻まれているんだ」とか「それって、それだけで凄いことなんだぜ」とかそういうことは言えるような気がする。――というかそれぐらいしか言えない。

でも、そういうものすごく単純なことに対する「敬意」みたいなものは忘れたくないな、と思ったりするのです。

2009.12.3

RSS
プロフィール

Author:harunobiwonder
松沢春伸の日記

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ