VORZ BAR
2018/ 6/ 2 [Sat.]
12th Anniversary Live!
JABBEE
松沢春伸
Open 19:00
Start 20:30
Admission 3,000円 (ドリンク別)
自分は言葉の人、とおもう、音楽よりも。
うたとしての言葉、は、心を伝えるというより、光景を現前させるもので、そこに起こるのは書いた「私」のではなく、うたをうけとるがわそれぞれの、あるいは遠く名前もしらないだれかの身体の動きや、その目に映るもの。だからこそ、うたとしての言葉は人のなかに刻まれる、光景として。
ただただ心情を吐露するようなものは、「私」から誰かへのメッセージにはなっても、人の内部に光景を起こさせない。これはとても重要なこと、と、こうして書きながらおもう。
うたうもの、聴くもの、お互いが意味としてあつかえない言葉(例えば英語)でうたわれれば、それは純粋に音であって、光景を現前させるようなものとしては機能しない。もちろんそれも音楽のひとつだけれど、うたはそれだけでない。
英語ができるわけでもないのに、どうしても日本語で曲をかけない、書き方がわからない、から英語で書く、という時期はどうやら乗りこえたようで、これからは音楽に、より言葉がはいっていく。言葉が「音」ではなく「うた」になるのだ。それは、うたによって可能なことが広がるということではないか。
言葉を音で包んだもの、うた。そして、それらを世界と出会わせるのは、声。それぞれをもっと先へ。
・人間の。人間と金との。サイクルの回る。ひと回りそのたびに。言葉をもたない木だけ。木だけが傷負って。するする回る輪のなかで。傷の癒えず死んでいく木。 叫ばずに。
・対象への期待のもてない怒りはたいへん。ひょい、と別の場所で別の価値をつくるほうがいい。
さて、久しぶりの日記。
樹木のことばかり考えては覚書を。
音楽でいっぱいのあたまに、木々がすっかり根をはって、日々を支える両輪となりつつ。
樹を学ぶ。は、音を知る。に。
音を紡ぐ。は、樹を聴く。に。
「語らぬものたちの声を聴く」
「声なきものたちの声を聴く」
それは、この両輪に共通のテーマではないか。
遠いもののようでいて、それらはとても親しげに日々を転がっていく。
「何処へ行くのかわからない歌」
とはライブ観、ライブは「発表会」ではない、演奏する時間の中で、自分自身の発する音に、自分すらが翻弄され、触発され、その場所に立つ時点での自分には知り得ない場所にまで連れられていく、そのような場。
文章を「書く」という行為、が、事前に組み立てたプロットをなぞるためのものでなく、一行を書き終えた、その文章に導かれて、その場その場で新しく紡がれる、自分自身が更新されてしまう、そのような場。
ライブという場所で表現している人間に対して使われる「場数」という言葉は、大抵の場合、「客との距離」をどれだけ「上手」に築くことが出来るようになるか、の経過にしか焦点が当てられないが「場数」は、自分自身すら「何処へ行くのかわからない歌」を、どれだけその身体に刻むか、その更新の場。あるいは、それを一切成し得ない場。